Witch hunting in the 21st century
ついに韓国が一線を越えてしまった。まずは下記をご覧いただきたい。
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対日の韓国「恥辱の歴史清算」 反民族行為究明委が発足
韓国で日露戦争から日本統治時代までの対日協力者を調査する大統領直属の「親日反民族行為真相究明委員会」が31日、発足した。今後4年間の委員会の調査活動では、故朴正煕元大統領をはじめ有力紙「朝鮮日報」「東亜日報」の創業者らも対象となる。罰則なしとはいえ、存命の遺族らを巻き込む“親日派狩り”が懸念される。
盧武鉉大統領は、委員長の姜万吉・高麗大名誉教授をはじめ委員11人を任命した。委員会の発足に当たり、大統領は「恥辱の日帝支配史の清算は光復(解放)60年を迎えたわれわれ政府がやらなければならないことだ。歴史を正しく立て直してこそ民族の誇りを示すことができる」と、その意義を強調した。
「親日派」の調査は、過去の清算を内政の柱とする盧政権の目玉だ。
「親日反民族行為」とは、
(1)当時の独立運動家や反日運動家やその家族の殺傷、虐待、逮捕
(2)独立、反日運動の妨害
(3)日韓保護条約など韓国の国権を侵害した条約締結の謀議への加担
(4)旧日本軍の少尉以上で侵略戦争に積極協力-など。
対象者は警察・旧軍のほか、統治機関にかかわった朝鮮半島出身者数万人に及ぶとみられる。
対象者は大半が死去しているが、委員会は名簿を作成し、毎年国会に報告、公表する。罰則規定はないものの、遺族年金が停止されたり遺族が社会的制裁を受けたりする可能性が高い。日本から爵位を受けた人に関しては別途、財産没収の法案も国会に出されている。
「親日派」の対象者は朴正煕政権を支えた保守層や財閥など既得権層に多く、次期政権も視野に調査が与野党攻防に影響することは必至だ。
調査の法的根拠は昨年末に成立した特別法だ。法案段階では名称の「反民族行為」の上に「親日」の表記があったが、日本への配慮から国会審議では削除されていた。
だが、発足した委員会の名称では「親日」の表記が復活した。これについて青瓦台(大統領府)は産経新聞に、「特別法の条文には機構名として『親日反民族行為真相究明委員会』が明記されており、われわれは法律にのっとって進めている。国会が配慮したこととは別問題だ」と述べた。
「親日派の清算」について、韓国政府は「韓国の国内問題で日韓関係とはかかわりない」としているが、調査活動により「親日」イコール「民族の反逆者」とのキーワードが強調されそうだ。
※引用 http://www.sankei.co.jp/news/050601/kok034.htm
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31日、ついに「親日排除法」が正式にスタートした。21世紀の魔女狩りの始まりだ。
法律施行の狙いは盧武鉉の政敵に当たるハンナラ党代表朴槿恵である。朴槿恵は朴正煕元大統領の長女であり、朴正煕は1944年に日本の陸軍士官学校を卒業。終戦時は満州国陸軍中尉だった。
もともと韓国では親日行為は厳禁だったし、言論の自由もなかった。
公に親日発言をした者は社会的に抹殺され、親日的な著作は有害図書に指定され一般書店から排除される。
この法律はその傾向に拍車をかけるどころか、忌まわしきファシズムの到来を予感させる。
これで韓国内で日本へ好意的な行為は一切禁じられる。それどころか、血縁者に親日行為をしたものがいただけでも問題視される。日本統治時代に日本に協力したものが発覚すればアウトである。
韓国では故人の罪は子孫に受け継がれる。我々の祖父や祖母、曾祖父などが「親日」であっても、今は亡き故人であってもアウト。
罰則はないものの、韓国内で「親日派」のレッテルが貼られ公表された瞬間に、社会的に抹殺される。強迫、暴力の対象にされ、最悪命すら狙われることになるだろう。これは誇張ではなく事実だ。
これが21世紀の民主主義国家の姿だろうか?
盧武鉉は先日新聞メディアへの規制をほのめかせる発言を行っている。
韓国はいよいよファシズム独裁国家への坂を転げ落ち始めた。
盧武鉉は「新北・反米・反日」の左翼民族主義政権であり、金大中の後を引き継ぎ「太陽政策」に代表される対北朝鮮宥和政策を取り続けている。日本では信じられないが、韓国内での北朝鮮・金正日に対する感情はポジティブだ。
米ソ冷戦時代、韓国のスローガンは「反共・反日」であり、対北朝鮮の態度は強硬で徹底した反共教育を施してきた。しかし冷戦終結後、その方向性は180度転換し「新北」政策が始まる。大国のエゴで南北に引き裂かれた同一民族として。メディアでは連日北朝鮮の町並みや人々の暮らしがポジティブに報道される。これまでの反共教育の反動で精神的な統一は一気に広がり、今では完全に北の脅威は解消されているといっていい。
北朝鮮は拉致、核兵器の開発、麻薬の密売、偽札の製造、人権弾圧など、枚挙に暇が無いほどの犯罪に手を染め、一刻も早く体制崩壊が求められる危険国家である。しかし、その危険性は韓国では注目されず、むしろ北への同情的な世論が圧倒的に強くなっている。
朝鮮戦争で凄惨に戦った相手にも関わらず(朝鮮戦争は未だに休戦中である)、北への脅威は南には無い。「核兵器は日本に向けたもの」と、ソウルが狙われるとはまるで考えていないのが現状だ。
当然この姿勢は日本やアメリカにすれば敵対行為だ。韓国は日本、アメリカと同じ資本主義、民主主義圏に属する同盟国である。盧武鉉政権はアメリカとの距離を置き、声高に反日を叫んでいる。
先日谷内外務次官の「アメリカが韓国を信頼していない」という趣旨の非公式コメントに韓国が抗議するという問題があったが、アメリカが韓国に不信感を持っているのは事実だ。
6月10、11日で盧武鉉が訪米する。20時間かけて訪米し、ブッシュ大統領との会談が30分と言われている。とても歓迎されているとは言えないだろう。番長に呼び出しを食らったパシリのような図式だ。
この場でブッシュが盧武鉉に何を告げるのか、非常に興味深くなってきた。
盧武鉉の目的は「南北統一」だ。しかし、南北統一すれば韓国は経済的に破綻する危険性が高い。もし種々の問題を乗り越え統一が果たされたとすれば、朝鮮半島に危険な反日国家が出現する。貧乏な国になるだろうから、さほど脅威に感じなくてもいいのかもしれないが。
日韓関係は日本にとっても重要であることに変わりはない。かりそめにも「西側」の国である以上、反共の防波堤として存在意義がある。経済的なつながりもある。しかし、それも限界かもしれない。北にすり寄り日米を敵に回しかねない韓国の姿勢は楽観視できる水位を超えつつある。「親日」を排除する政策が施行された時点で、もはやこの国が正常な思考を放棄してしまったと考えざるを得ない。
韓国は北朝鮮と同様に、敵性国家だと認識する必要がある。少なくとも現政権で友好関係は不可能。
極東情勢は危険度を増してきている。実体のない韓流ブームなどに惑わされてはならない。
韓国へ旅行を考えている人がいるならば、考え直すことをお勧めする。
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対日の韓国「恥辱の歴史清算」 反民族行為究明委が発足
韓国で日露戦争から日本統治時代までの対日協力者を調査する大統領直属の「親日反民族行為真相究明委員会」が31日、発足した。今後4年間の委員会の調査活動では、故朴正煕元大統領をはじめ有力紙「朝鮮日報」「東亜日報」の創業者らも対象となる。罰則なしとはいえ、存命の遺族らを巻き込む“親日派狩り”が懸念される。
盧武鉉大統領は、委員長の姜万吉・高麗大名誉教授をはじめ委員11人を任命した。委員会の発足に当たり、大統領は「恥辱の日帝支配史の清算は光復(解放)60年を迎えたわれわれ政府がやらなければならないことだ。歴史を正しく立て直してこそ民族の誇りを示すことができる」と、その意義を強調した。
「親日派」の調査は、過去の清算を内政の柱とする盧政権の目玉だ。
「親日反民族行為」とは、
(1)当時の独立運動家や反日運動家やその家族の殺傷、虐待、逮捕
(2)独立、反日運動の妨害
(3)日韓保護条約など韓国の国権を侵害した条約締結の謀議への加担
(4)旧日本軍の少尉以上で侵略戦争に積極協力-など。
対象者は警察・旧軍のほか、統治機関にかかわった朝鮮半島出身者数万人に及ぶとみられる。
対象者は大半が死去しているが、委員会は名簿を作成し、毎年国会に報告、公表する。罰則規定はないものの、遺族年金が停止されたり遺族が社会的制裁を受けたりする可能性が高い。日本から爵位を受けた人に関しては別途、財産没収の法案も国会に出されている。
「親日派」の対象者は朴正煕政権を支えた保守層や財閥など既得権層に多く、次期政権も視野に調査が与野党攻防に影響することは必至だ。
調査の法的根拠は昨年末に成立した特別法だ。法案段階では名称の「反民族行為」の上に「親日」の表記があったが、日本への配慮から国会審議では削除されていた。
だが、発足した委員会の名称では「親日」の表記が復活した。これについて青瓦台(大統領府)は産経新聞に、「特別法の条文には機構名として『親日反民族行為真相究明委員会』が明記されており、われわれは法律にのっとって進めている。国会が配慮したこととは別問題だ」と述べた。
「親日派の清算」について、韓国政府は「韓国の国内問題で日韓関係とはかかわりない」としているが、調査活動により「親日」イコール「民族の反逆者」とのキーワードが強調されそうだ。
※引用 http://www.sankei.co.jp/news/050601/kok034.htm
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31日、ついに「親日排除法」が正式にスタートした。21世紀の魔女狩りの始まりだ。
法律施行の狙いは盧武鉉の政敵に当たるハンナラ党代表朴槿恵である。朴槿恵は朴正煕元大統領の長女であり、朴正煕は1944年に日本の陸軍士官学校を卒業。終戦時は満州国陸軍中尉だった。
もともと韓国では親日行為は厳禁だったし、言論の自由もなかった。
公に親日発言をした者は社会的に抹殺され、親日的な著作は有害図書に指定され一般書店から排除される。
この法律はその傾向に拍車をかけるどころか、忌まわしきファシズムの到来を予感させる。
これで韓国内で日本へ好意的な行為は一切禁じられる。それどころか、血縁者に親日行為をしたものがいただけでも問題視される。日本統治時代に日本に協力したものが発覚すればアウトである。
韓国では故人の罪は子孫に受け継がれる。我々の祖父や祖母、曾祖父などが「親日」であっても、今は亡き故人であってもアウト。
罰則はないものの、韓国内で「親日派」のレッテルが貼られ公表された瞬間に、社会的に抹殺される。強迫、暴力の対象にされ、最悪命すら狙われることになるだろう。これは誇張ではなく事実だ。
これが21世紀の民主主義国家の姿だろうか?
盧武鉉は先日新聞メディアへの規制をほのめかせる発言を行っている。
韓国はいよいよファシズム独裁国家への坂を転げ落ち始めた。
盧武鉉は「新北・反米・反日」の左翼民族主義政権であり、金大中の後を引き継ぎ「太陽政策」に代表される対北朝鮮宥和政策を取り続けている。日本では信じられないが、韓国内での北朝鮮・金正日に対する感情はポジティブだ。
米ソ冷戦時代、韓国のスローガンは「反共・反日」であり、対北朝鮮の態度は強硬で徹底した反共教育を施してきた。しかし冷戦終結後、その方向性は180度転換し「新北」政策が始まる。大国のエゴで南北に引き裂かれた同一民族として。メディアでは連日北朝鮮の町並みや人々の暮らしがポジティブに報道される。これまでの反共教育の反動で精神的な統一は一気に広がり、今では完全に北の脅威は解消されているといっていい。
北朝鮮は拉致、核兵器の開発、麻薬の密売、偽札の製造、人権弾圧など、枚挙に暇が無いほどの犯罪に手を染め、一刻も早く体制崩壊が求められる危険国家である。しかし、その危険性は韓国では注目されず、むしろ北への同情的な世論が圧倒的に強くなっている。
朝鮮戦争で凄惨に戦った相手にも関わらず(朝鮮戦争は未だに休戦中である)、北への脅威は南には無い。「核兵器は日本に向けたもの」と、ソウルが狙われるとはまるで考えていないのが現状だ。
当然この姿勢は日本やアメリカにすれば敵対行為だ。韓国は日本、アメリカと同じ資本主義、民主主義圏に属する同盟国である。盧武鉉政権はアメリカとの距離を置き、声高に反日を叫んでいる。
先日谷内外務次官の「アメリカが韓国を信頼していない」という趣旨の非公式コメントに韓国が抗議するという問題があったが、アメリカが韓国に不信感を持っているのは事実だ。
6月10、11日で盧武鉉が訪米する。20時間かけて訪米し、ブッシュ大統領との会談が30分と言われている。とても歓迎されているとは言えないだろう。番長に呼び出しを食らったパシリのような図式だ。
この場でブッシュが盧武鉉に何を告げるのか、非常に興味深くなってきた。
盧武鉉の目的は「南北統一」だ。しかし、南北統一すれば韓国は経済的に破綻する危険性が高い。もし種々の問題を乗り越え統一が果たされたとすれば、朝鮮半島に危険な反日国家が出現する。貧乏な国になるだろうから、さほど脅威に感じなくてもいいのかもしれないが。
日韓関係は日本にとっても重要であることに変わりはない。かりそめにも「西側」の国である以上、反共の防波堤として存在意義がある。経済的なつながりもある。しかし、それも限界かもしれない。北にすり寄り日米を敵に回しかねない韓国の姿勢は楽観視できる水位を超えつつある。「親日」を排除する政策が施行された時点で、もはやこの国が正常な思考を放棄してしまったと考えざるを得ない。
韓国は北朝鮮と同様に、敵性国家だと認識する必要がある。少なくとも現政権で友好関係は不可能。
極東情勢は危険度を増してきている。実体のない韓流ブームなどに惑わされてはならない。
韓国へ旅行を考えている人がいるならば、考え直すことをお勧めする。
I believe 2
「内容は悪くなかったが、フィニッシュの精度を欠いた」
試合後のインタビューでよく聞く言葉だ。それとなく受け止めてしまうが、この言葉は何を意味しているのであろう。「内容は悪くない」この文言はすでにサッカー用語を超えて一般生活でも使用されている感がある。しかし、人口に膾炙することで、論点がハッキリせずボケてしまう気がする。
「どこ」がよかったのか、「どこ」が悪かったのか、問題点を浮き彫りにし解決策を練らなければ、進歩はありえない。ワールカップ予選の最大の山場、アウェーでのバーレーン戦までついに1週間を切った。そのテストマッチとして組まれたキリンカップ、ペルー戦、UAE戦に連敗し、日本は適地へ乗り込むことになった。
日本のサッカーはパスをつなぐサッカーだ。短いパスを多用し絶えずボールを動かしながら、相手のプレスをかいくぐり、サイドからクロスを上げる、MFからスルーパスが出る、FWがおとりとなり2列目のMFがゴール前に進出する。すなわちボールキープのサッカー。
ペルー戦もUAE戦もその特徴はいかんなく発揮された。「内容が悪くなかった」というのは、ボールキープにより絶えず主導権を維持し、ゲームをコントロールできたと解釈していいだろう。そして敗れた。
なぜか?答えは簡単だ。得点を上げることが出来なかったからだ。攻めに人数を欠け守りが手薄になった隙をカウンターで仕留められ1点を失ったからだ。
なぜ得点を奪えなかったのか。それはペルーもUAEも守りに重点を置いた戦術をとったからだ。敵陣にはスペースが無くパスも思うように回らない。敵も味方も狭いエリアに密集しているのでプレスは厳しいし、フリーではボールを持てない。
日本はまずマイボールをゆっくりキープするので、ペルーもUAEも素早く自陣に戻り守備を整える。敵が早々と守りを固めてしまった後で、ボール回しが始まる。ディフェンスラインから一度ボランチへ、またディフェンスラインに戻してまたまたボランチへ。攻撃的なMFへのパスは敵のDFが狙いをすませて待っている。スペースも時間もないからトラップがうまくいかずは跳ね返される。
ボールをカットされたら相手の攻撃。運良く味方が拾ったらまたディフェンスラインへ。その繰り返し。敵のゴールへ向かう縦のパスは出せず、横パスも精度とスピードが悪く、たびたびカットされてピンチを招いた。サイドにボールが出ても突破する選手(三都主)とフォローの選手(小笠原)二人にはちゃんと敵のDFが付いている。クロスを上げても精度が低く、FWは合わせることが出来ない。その繰り返し。
ボールキープ率では日本が上回る。ボールも回せる。しかし、問題は効果的なパスがどれだけ通ったか、どれだけゴールを狙える攻撃ができたか、ということだろう。「内容が悪くなかった」と言ってしまう選手や監督の感覚がいまいち分からない。まぁ、そうでも言わないと我々のような外野が騒ぎ立てて収拾がつかなくなるから言えない、という理由もあるのだろうが。
「フィニッシュの精度が悪かった」とよくいう。フィニッシュの精度とはつまりゴールマウスにボールが飛んでいかないということだ。飛んでいったとしても、力が足りず易々とキーパーに取られてしまう、ということだろう。
ペルー戦もUAE戦も、さかのぼってホームのバーレーン戦で、相手ゴールを脅かした決定的なシーンをいくつ覚えているだろうか。はっきり言って全く印象にない。サイド突破やゴール近くまで迫ったシーンはいくつかある。しかし、敵は人数をかけて密集地帯を作るから、そう易々とフリーのスペースは生まれない。パスも通らない。となると、そこは選手個々のアイデアと連携で勝負しないといけないのだが、三都主のドリブルはことごとくブロックされ、小笠原はまともなパスを出せない。
「フィニッシュの精度」は「内容」によって決まる。
中盤でボールを奪いショートパスをつなげるのは、できるだけ敵に囲まれずボールを動かすことでマークを振り払いスペースを作り、敵陣の隙を一瞬で仕留める為だ。ダラダラとディフェンスでボールをこねくり回しているだけでは、その隙に敵は陣形を整えてしまうのだから、はっきり言って無駄だ。パス回しは相手に隙を作らせ混乱させる為に行うのに、逆に敵を落ち着かせ守りやすくさせてしまっているのが現状だ。ようは「ボールを持たされている」のだ。
その結果敵は守備に人数をかけ、ゴール前が密集すれば、非力な日本のFWは何も出来なくなる。「フィニッシュの精度」どころかシュートまで持っていけない退屈な内容になる。
敵は守備からカウンターの戦術を徹底させていた。前線に足の速いFWをおき、日本がアタックに出て守備が手薄になった背後を虎視眈々と狙っている。
日本はカウンター戦術はとれない。足の速いFWがいないからだ。1人でシュートまでいける強さが日本の選手には無い。それは今に始まったことではないし、今後も解決できるか分からない。
現状のサッカーの方向性は間違ってはいない。外国人のような強靭な身体能力は望めないのだから、技術で対抗するしかない。しかし、器用にボールを回しても、チャンスが作れなければ意味が無い。それどころか、たびたび見られるように、単純な横パスをカットされてみすみすピンチを招き入れるようでは、その技術すら疑ってみなければならない。
今の日本代表には緊張感が無い。下手に技術に溺れ技を披露することが目的となって、「この試合には死んでも勝つ」という風な必死さが見えない。お前のことだよ、小笠原。
キリンカップは所詮親善試合で、日本にとっては本番前の予行練習にすぎない。本番では海外組が合流するのだから、国内組でのぞむキリンカップには意義があったはずだ。
ペルーはW杯予選の最中、これから代表に期待が出来る若手をメンバーに起用してきた。選手は代表生き残りをかけて高いモチベーションで日本に挑んできた。彼らには明確な目標がある。はるばる日本までやってきて必死のプレーを見せてくれた。その姿勢は日本には無かったものだ。
何度も繰り返されたバカバカしい話だが、海外組と国内組の軋轢は存在するし、選手間の感情的な問題もあるだろう。その問題を前向きに解決する為には「練習に多くの時間が割ける熟成度の高い国内組」を証明しなければならなかったのに、結局「試合の直前に合流してまともに連携を築けない海外組」に頼ってしまうのだから目も当てられない。お前のことだよ、小笠原。
収穫どころか不安感ばかり募る結果に終わったキリンカップだが、私は楽観視している。
日本はアジアでは強い方だ。それだけお金を使っているのだから強くて当然。バーレーンも北朝鮮も敵ではない。
本番には中田英寿と中村俊輔が合流する。結論としてはやはり国内組は期待できない、ということだ。特に中村俊輔のテクニックはひときわ飛び抜けたレベルにある。ボールキープは巧みだし、彼にしか出せない、どこで蹴っているのか分からないすごいパスがある。彼一人で敵のディフェンスを混乱させることができる素晴らしい技術だ。プレースキックの精度は言うまでもない。
だから大丈夫だ、と思っている。と同時にキリンカップはなんだったのだろう、と疑問に思う。
どうせ本番では海外組を使うのに、能力の見極めの付いた国内組を使って何がしたかったのだろう。キリンカップと本番ではメンバーも変わり戦術も変わる。ジーコは何を確認したかったのだろう。どうせなら未知の選手を起用するなり、代表に新陳代謝を起こさせることも考えた方が良かったのではないだろうか。少なくとも、言うことはでかいが試合では全く存在感のない小笠原を起用するよりは、前向きだったはずだ。
決戦の日が迫る。ジーコにも代表にも不満があるが、私たちに出来ることは唯一信じることだけだ。
試合後のインタビューでよく聞く言葉だ。それとなく受け止めてしまうが、この言葉は何を意味しているのであろう。「内容は悪くない」この文言はすでにサッカー用語を超えて一般生活でも使用されている感がある。しかし、人口に膾炙することで、論点がハッキリせずボケてしまう気がする。
「どこ」がよかったのか、「どこ」が悪かったのか、問題点を浮き彫りにし解決策を練らなければ、進歩はありえない。ワールカップ予選の最大の山場、アウェーでのバーレーン戦までついに1週間を切った。そのテストマッチとして組まれたキリンカップ、ペルー戦、UAE戦に連敗し、日本は適地へ乗り込むことになった。
日本のサッカーはパスをつなぐサッカーだ。短いパスを多用し絶えずボールを動かしながら、相手のプレスをかいくぐり、サイドからクロスを上げる、MFからスルーパスが出る、FWがおとりとなり2列目のMFがゴール前に進出する。すなわちボールキープのサッカー。
ペルー戦もUAE戦もその特徴はいかんなく発揮された。「内容が悪くなかった」というのは、ボールキープにより絶えず主導権を維持し、ゲームをコントロールできたと解釈していいだろう。そして敗れた。
なぜか?答えは簡単だ。得点を上げることが出来なかったからだ。攻めに人数を欠け守りが手薄になった隙をカウンターで仕留められ1点を失ったからだ。
なぜ得点を奪えなかったのか。それはペルーもUAEも守りに重点を置いた戦術をとったからだ。敵陣にはスペースが無くパスも思うように回らない。敵も味方も狭いエリアに密集しているのでプレスは厳しいし、フリーではボールを持てない。
日本はまずマイボールをゆっくりキープするので、ペルーもUAEも素早く自陣に戻り守備を整える。敵が早々と守りを固めてしまった後で、ボール回しが始まる。ディフェンスラインから一度ボランチへ、またディフェンスラインに戻してまたまたボランチへ。攻撃的なMFへのパスは敵のDFが狙いをすませて待っている。スペースも時間もないからトラップがうまくいかずは跳ね返される。
ボールをカットされたら相手の攻撃。運良く味方が拾ったらまたディフェンスラインへ。その繰り返し。敵のゴールへ向かう縦のパスは出せず、横パスも精度とスピードが悪く、たびたびカットされてピンチを招いた。サイドにボールが出ても突破する選手(三都主)とフォローの選手(小笠原)二人にはちゃんと敵のDFが付いている。クロスを上げても精度が低く、FWは合わせることが出来ない。その繰り返し。
ボールキープ率では日本が上回る。ボールも回せる。しかし、問題は効果的なパスがどれだけ通ったか、どれだけゴールを狙える攻撃ができたか、ということだろう。「内容が悪くなかった」と言ってしまう選手や監督の感覚がいまいち分からない。まぁ、そうでも言わないと我々のような外野が騒ぎ立てて収拾がつかなくなるから言えない、という理由もあるのだろうが。
「フィニッシュの精度が悪かった」とよくいう。フィニッシュの精度とはつまりゴールマウスにボールが飛んでいかないということだ。飛んでいったとしても、力が足りず易々とキーパーに取られてしまう、ということだろう。
ペルー戦もUAE戦も、さかのぼってホームのバーレーン戦で、相手ゴールを脅かした決定的なシーンをいくつ覚えているだろうか。はっきり言って全く印象にない。サイド突破やゴール近くまで迫ったシーンはいくつかある。しかし、敵は人数をかけて密集地帯を作るから、そう易々とフリーのスペースは生まれない。パスも通らない。となると、そこは選手個々のアイデアと連携で勝負しないといけないのだが、三都主のドリブルはことごとくブロックされ、小笠原はまともなパスを出せない。
「フィニッシュの精度」は「内容」によって決まる。
中盤でボールを奪いショートパスをつなげるのは、できるだけ敵に囲まれずボールを動かすことでマークを振り払いスペースを作り、敵陣の隙を一瞬で仕留める為だ。ダラダラとディフェンスでボールをこねくり回しているだけでは、その隙に敵は陣形を整えてしまうのだから、はっきり言って無駄だ。パス回しは相手に隙を作らせ混乱させる為に行うのに、逆に敵を落ち着かせ守りやすくさせてしまっているのが現状だ。ようは「ボールを持たされている」のだ。
その結果敵は守備に人数をかけ、ゴール前が密集すれば、非力な日本のFWは何も出来なくなる。「フィニッシュの精度」どころかシュートまで持っていけない退屈な内容になる。
敵は守備からカウンターの戦術を徹底させていた。前線に足の速いFWをおき、日本がアタックに出て守備が手薄になった背後を虎視眈々と狙っている。
日本はカウンター戦術はとれない。足の速いFWがいないからだ。1人でシュートまでいける強さが日本の選手には無い。それは今に始まったことではないし、今後も解決できるか分からない。
現状のサッカーの方向性は間違ってはいない。外国人のような強靭な身体能力は望めないのだから、技術で対抗するしかない。しかし、器用にボールを回しても、チャンスが作れなければ意味が無い。それどころか、たびたび見られるように、単純な横パスをカットされてみすみすピンチを招き入れるようでは、その技術すら疑ってみなければならない。
今の日本代表には緊張感が無い。下手に技術に溺れ技を披露することが目的となって、「この試合には死んでも勝つ」という風な必死さが見えない。お前のことだよ、小笠原。
キリンカップは所詮親善試合で、日本にとっては本番前の予行練習にすぎない。本番では海外組が合流するのだから、国内組でのぞむキリンカップには意義があったはずだ。
ペルーはW杯予選の最中、これから代表に期待が出来る若手をメンバーに起用してきた。選手は代表生き残りをかけて高いモチベーションで日本に挑んできた。彼らには明確な目標がある。はるばる日本までやってきて必死のプレーを見せてくれた。その姿勢は日本には無かったものだ。
何度も繰り返されたバカバカしい話だが、海外組と国内組の軋轢は存在するし、選手間の感情的な問題もあるだろう。その問題を前向きに解決する為には「練習に多くの時間が割ける熟成度の高い国内組」を証明しなければならなかったのに、結局「試合の直前に合流してまともに連携を築けない海外組」に頼ってしまうのだから目も当てられない。お前のことだよ、小笠原。
収穫どころか不安感ばかり募る結果に終わったキリンカップだが、私は楽観視している。
日本はアジアでは強い方だ。それだけお金を使っているのだから強くて当然。バーレーンも北朝鮮も敵ではない。
本番には中田英寿と中村俊輔が合流する。結論としてはやはり国内組は期待できない、ということだ。特に中村俊輔のテクニックはひときわ飛び抜けたレベルにある。ボールキープは巧みだし、彼にしか出せない、どこで蹴っているのか分からないすごいパスがある。彼一人で敵のディフェンスを混乱させることができる素晴らしい技術だ。プレースキックの精度は言うまでもない。
だから大丈夫だ、と思っている。と同時にキリンカップはなんだったのだろう、と疑問に思う。
どうせ本番では海外組を使うのに、能力の見極めの付いた国内組を使って何がしたかったのだろう。キリンカップと本番ではメンバーも変わり戦術も変わる。ジーコは何を確認したかったのだろう。どうせなら未知の選手を起用するなり、代表に新陳代謝を起こさせることも考えた方が良かったのではないだろうか。少なくとも、言うことはでかいが試合では全く存在感のない小笠原を起用するよりは、前向きだったはずだ。
決戦の日が迫る。ジーコにも代表にも不満があるが、私たちに出来ることは唯一信じることだけだ。
The dream has come back
ナリタブライアンはかつて「孤独な先駆者」と呼ばれた。
他馬と能力が違いすぎるが故に、同じレースを走っても1頭だけ別次元で闘っている、そんな印象をもたらせた。彼の4歳時(現3歳)、彼は競馬をしていなかった。あくまで自分の力を普通に出して普通に先頭でゴールしただけだ。そのレースぶりを回顧して「ナリタブライアンに名勝負なし」とも言われた。どっちが勝つか分からない、手に汗握るギリギリの接戦など、ナリタブライアンにはあり得ない。興味は「何馬身離すのか」しかなかった。
そんなナリタブライアンが競馬史に残る壮絶な名勝負を見せたレースがあった。
1996年3月9日、阪神競馬場での阪神大賞典。ナリタブライアンは1年前の阪神大賞典を7馬身差で圧勝した後、股関節を痛め、長く不振の時期を過ごしていた。相手は前年の菊花賞馬で同じブライアンズタイム産駆のマヤノトップガン。
凄まじいレースだった。第4コーナーからゴールまで馬体をあわせて2頭は延々叩き合う。全く並んだ状態で片方が鼻差出ればすぐに追いつき、また片方が鼻差出ればすぐまた追いつく。他の馬たちを9馬身後方に置き去りにして、2頭だけ違う世界で一騎打ちを演じたのだった。
ゴール前ほんのわずかアタマ差、ナリタブライアンが抜け出し、世紀の名勝負に決着がついた。
ナリタブライアンの最後の勝利となったこの阪神大賞典の私の感情は複雑だ。
彼の1年ぶりの勝利には心から喜んだ。しかし、「復活」とは思えなかった。ブライアンは名勝負などしてはいけない馬。マヤノトップガンが素晴らしい馬だったことは認めるが、もうすでにブライアンは圧倒的な競走能力を失ってしまったのだ、と勝利の喜びに絶望的な寂しさを感じた。もう一度ぶっちぎるブライアンを見たかった。
「最後はブライアンが燃えてくれました」
とはこのレースでナリタブライアンに騎乗した武豊ジョッキーのコメントだ。主戦ジョッキーの南井克巳が落馬負傷で休養中の間、ブライアンには別のジョッキーに委ねられた。関東の的場均、そして武豊だ。
阪神大賞典以後、次の天皇賞には主戦南井克巳が復帰することは決まっていた。だが、このレースを勝利させた武豊にこのまま乗り続けてほしかった。南井克巳よりも武豊の方がブライアンの力を最大限に出せると思ったからだ。
南井克巳はうまいジョッキーには見えなかった。それは彼の騎乗フォームが醜かったからだ。南井は頭の位置が高く、尻が下に下がる。ブライアンに騎乗する南井はいつも馬に「持っていかれている」ように見え、馬のペースを力づくで押さえ込んでいるような印象だった。直線の追い比べではそれこそパワー全開で押しまくる。馬の気持ちとシンクロし、気分よく走らせ、その能力を自然と引き出す、そんな騎乗ではなかった。
逆にそういう騎乗をするのが武豊だ。競馬中継を見れば、どれが武豊なのか一目で分かる。武豊はジョッキーとしては破格に背が高いという理由もあるのだが、特筆すべきは騎乗姿勢の美しさだ。南井克巳の正反対と考えていい。頭を低く尻を高く。ジョッキーの背中と馬の背中がきれいな平行線をとっている。しかも、レース中その姿勢が一切ぶれない。強靭な足腰が成せる技だ。そして武豊は力づくで馬を御することが無い。馬の才能や性格を見極め、その馬が最も気分よく走れる戦術を作ろうとする。
ナリタブライアンが故障してしまったのは南井克巳の力づく騎乗の無理がたたった、という論調がその当時はあった。さすがにそういう理論で南井を非難するのは行き過ぎだが、私は南井ではなく、武豊に乗ってほしかった。できれば全盛期のブライアンに。日本最強馬と日本最高のジョッキー、この組み合わせならば、きっともっと恐ろしい物語を見せてくれたのではないだろうか。
ナリタブライアンはその後天皇賞でサクラローレルに敗れた後、もう一度武豊を背に乗せて高松宮杯(現高松宮記念)に挑み、4着に敗れ引退した。結局私の夢は叶うことは無かった。
第72回日本ダービーはディープインパクトが制した。
ディープインパクトは予想を遥かに超える圧倒的なパフォーマンスで、でも相変わらず涼しい顔で、他の17頭に目もくれず1頭別次元の旅を終え、真っ先にゴールを駆け抜けた。奇しくも、ナリタブライアンと同じ大外を、同じ5馬身の差をつけて。
今日のディープインパクトは少し落ち着きが無かった。いつも以上に気合が乗りすぎていた感があり、解説者も唯一そのことだけを心配していた。しかし、杞憂だった。
もはや現時点で死角は無い。タイムは昨年キングカメハメハが樹立したレコードに並ぶ2.23.3のタイ記録。同世代では敵はいない。小柄で軽快な筋肉を武器とするから故障の心配は少ないと思う。パワー(馬力)はまだ未知数だが、今日のダービーを見る限り弱点は見えない。秋になり、まだ見ぬ上がり馬が出てこないとも言えないが、無事に夏をこせば、シンボリルドルフ以来の無敗の3冠馬の誕生は疑う余地はない。
ディープインパクトとナリタブライアンを同列に語ることはできそうにない。どんな名馬が出現しようと、ナリタブライアンは永遠に孤高の存在として私の中にあるからだ。
だからせめて夢を見ようと思う。ナリタブライアンでは叶うことなかった、最強への夢。
ディープインパクトが3冠を達成し、国内無敗でJCと有馬記念をも制覇し、そして海外へ。
夢は遠くフランスのロンシャンへ。まだ日本馬では誰も達成していない、凱旋門賞へ。
最強の馬に最高のジョッキー。日本競馬の現時点でディープインパクトと武豊のカップリングは最高だ。
最強と最高が美しいユニゾンを奏でるとき、ディープインパクトと武豊がロンシャンのセレモニーの主役となるとき、私たちはかつてない完成された結末を目撃することが出来るだろう。
他馬と能力が違いすぎるが故に、同じレースを走っても1頭だけ別次元で闘っている、そんな印象をもたらせた。彼の4歳時(現3歳)、彼は競馬をしていなかった。あくまで自分の力を普通に出して普通に先頭でゴールしただけだ。そのレースぶりを回顧して「ナリタブライアンに名勝負なし」とも言われた。どっちが勝つか分からない、手に汗握るギリギリの接戦など、ナリタブライアンにはあり得ない。興味は「何馬身離すのか」しかなかった。
そんなナリタブライアンが競馬史に残る壮絶な名勝負を見せたレースがあった。
1996年3月9日、阪神競馬場での阪神大賞典。ナリタブライアンは1年前の阪神大賞典を7馬身差で圧勝した後、股関節を痛め、長く不振の時期を過ごしていた。相手は前年の菊花賞馬で同じブライアンズタイム産駆のマヤノトップガン。
凄まじいレースだった。第4コーナーからゴールまで馬体をあわせて2頭は延々叩き合う。全く並んだ状態で片方が鼻差出ればすぐに追いつき、また片方が鼻差出ればすぐまた追いつく。他の馬たちを9馬身後方に置き去りにして、2頭だけ違う世界で一騎打ちを演じたのだった。
ゴール前ほんのわずかアタマ差、ナリタブライアンが抜け出し、世紀の名勝負に決着がついた。
ナリタブライアンの最後の勝利となったこの阪神大賞典の私の感情は複雑だ。
彼の1年ぶりの勝利には心から喜んだ。しかし、「復活」とは思えなかった。ブライアンは名勝負などしてはいけない馬。マヤノトップガンが素晴らしい馬だったことは認めるが、もうすでにブライアンは圧倒的な競走能力を失ってしまったのだ、と勝利の喜びに絶望的な寂しさを感じた。もう一度ぶっちぎるブライアンを見たかった。
「最後はブライアンが燃えてくれました」
とはこのレースでナリタブライアンに騎乗した武豊ジョッキーのコメントだ。主戦ジョッキーの南井克巳が落馬負傷で休養中の間、ブライアンには別のジョッキーに委ねられた。関東の的場均、そして武豊だ。
阪神大賞典以後、次の天皇賞には主戦南井克巳が復帰することは決まっていた。だが、このレースを勝利させた武豊にこのまま乗り続けてほしかった。南井克巳よりも武豊の方がブライアンの力を最大限に出せると思ったからだ。
南井克巳はうまいジョッキーには見えなかった。それは彼の騎乗フォームが醜かったからだ。南井は頭の位置が高く、尻が下に下がる。ブライアンに騎乗する南井はいつも馬に「持っていかれている」ように見え、馬のペースを力づくで押さえ込んでいるような印象だった。直線の追い比べではそれこそパワー全開で押しまくる。馬の気持ちとシンクロし、気分よく走らせ、その能力を自然と引き出す、そんな騎乗ではなかった。
逆にそういう騎乗をするのが武豊だ。競馬中継を見れば、どれが武豊なのか一目で分かる。武豊はジョッキーとしては破格に背が高いという理由もあるのだが、特筆すべきは騎乗姿勢の美しさだ。南井克巳の正反対と考えていい。頭を低く尻を高く。ジョッキーの背中と馬の背中がきれいな平行線をとっている。しかも、レース中その姿勢が一切ぶれない。強靭な足腰が成せる技だ。そして武豊は力づくで馬を御することが無い。馬の才能や性格を見極め、その馬が最も気分よく走れる戦術を作ろうとする。
ナリタブライアンが故障してしまったのは南井克巳の力づく騎乗の無理がたたった、という論調がその当時はあった。さすがにそういう理論で南井を非難するのは行き過ぎだが、私は南井ではなく、武豊に乗ってほしかった。できれば全盛期のブライアンに。日本最強馬と日本最高のジョッキー、この組み合わせならば、きっともっと恐ろしい物語を見せてくれたのではないだろうか。
ナリタブライアンはその後天皇賞でサクラローレルに敗れた後、もう一度武豊を背に乗せて高松宮杯(現高松宮記念)に挑み、4着に敗れ引退した。結局私の夢は叶うことは無かった。
第72回日本ダービーはディープインパクトが制した。
ディープインパクトは予想を遥かに超える圧倒的なパフォーマンスで、でも相変わらず涼しい顔で、他の17頭に目もくれず1頭別次元の旅を終え、真っ先にゴールを駆け抜けた。奇しくも、ナリタブライアンと同じ大外を、同じ5馬身の差をつけて。
今日のディープインパクトは少し落ち着きが無かった。いつも以上に気合が乗りすぎていた感があり、解説者も唯一そのことだけを心配していた。しかし、杞憂だった。
もはや現時点で死角は無い。タイムは昨年キングカメハメハが樹立したレコードに並ぶ2.23.3のタイ記録。同世代では敵はいない。小柄で軽快な筋肉を武器とするから故障の心配は少ないと思う。パワー(馬力)はまだ未知数だが、今日のダービーを見る限り弱点は見えない。秋になり、まだ見ぬ上がり馬が出てこないとも言えないが、無事に夏をこせば、シンボリルドルフ以来の無敗の3冠馬の誕生は疑う余地はない。
ディープインパクトとナリタブライアンを同列に語ることはできそうにない。どんな名馬が出現しようと、ナリタブライアンは永遠に孤高の存在として私の中にあるからだ。
だからせめて夢を見ようと思う。ナリタブライアンでは叶うことなかった、最強への夢。
ディープインパクトが3冠を達成し、国内無敗でJCと有馬記念をも制覇し、そして海外へ。
夢は遠くフランスのロンシャンへ。まだ日本馬では誰も達成していない、凱旋門賞へ。
最強の馬に最高のジョッキー。日本競馬の現時点でディープインパクトと武豊のカップリングは最高だ。
最強と最高が美しいユニゾンを奏でるとき、ディープインパクトと武豊がロンシャンのセレモニーの主役となるとき、私たちはかつてない完成された結末を目撃することが出来るだろう。
Nobody knows about him
ビリー・ジョエルのCDが売れているらしい。
英国の海岸で保護されたピアノを弾く身元不明の白人男性が世界で注目を集めると同時に、ビリーのCDが売れ出した。代表曲「ピアノマン」が連日の報道のBGMなどに使用されている効果で、レコード会社に注文が殺到している、ということだ。
イギリスで発見、保護されたなぞの男性。ピアノの楽譜を持ち、記憶を失っている。
身元を証明するものは何も所持しておらず、彼がどこの誰かは未だもって不明。
言葉を発しようとせず、コミュニケーションは彼の演奏するピアノの音色だけ。
いつしか人々は彼のことをこう呼ぶようになった。「ピアノマン」と。
まるで下手なミステリー小説のような出来事が現実に起きている。
30年前の少女漫画の世界の話かもしれない。
もし彼が昔の日本で発見されたなら「ピアノ太郎」とか「鍵盤男」とかアホな名前を付けられたのだろうか、などと非建設的なことを考えながら行く末を見守っている。
記憶喪失の音楽家、ある意味ロマンチックな話なのかもしれないが、いささか不気味でもある。
似たような話を先日テレビで見た。番組名は失念してしまったのだが、主人公は東洋人だった。
2003年5月、ノルウェーの首都オスロで東洋系とみられる青年が保護される。彼は記憶喪失症で、身元や国籍を証明するものは一切持っていなかった。
身元確認の唯一の手掛かりは持っていた1枚の写真で、西洋庭園をバックにアジア系の女性がポーズをとり、裏に英語で「ジェニー、パリ、2002・8」と記載。また、青年の辞書の裏表紙には「ドードーへ。20歳の誕生日おめでとう。ジェニーより。2002年12月12日」と英語で書かれていた。
「ドードー」は英語で「飛べない鳥」などを意味し、青年の愛称だったとも考えられる。
青年によると、2003年1月、スイス滞在中に突然記憶を失い、パリ経由で同5月にオスロに来たところ、警察に保護され病院に収容された。所持金は約5000ドル(約52万円)だけで、パスポートなどはなかった。
青年が話せるのは日常会話程度の英語で、母国語は不明。治療に当たった臨床心理科医は「記憶とともに母国語も失ったまれなケース」と分析する。
青年によると、野球のルールや、甲子園が球場名であることも知っている。オスロ在住の日本人が大福を差し入れると「もち」という言葉を口にした。日本語をわずかに理解し「甲子園」といった言葉も覚えていることから、幼少年時代を関西で過ごした可能性もある。だが、日本大使館の調査でも決定的な手掛かりはなく、身元の確認作業は難航している。中国語や韓国・朝鮮語は分からないという。
「ドードー」と呼ばれる彼は現在、身元や国籍の手掛かりを得られないまま失意の暮らしを続けている。 福祉国家ノルウェーとあって住居や生活費も与えられているが、青年は「こうしたお金をもらうのは心苦しい」と自立の道を模索中とのことだ。青年に残っているおぼろげな記憶によると、幼少時に母親が死亡した後は実業家とみられる父親に育てられ、一緒によく海外を旅したという。
「ピアノマン」に「ドードー」、共通点はどちらも記憶を失い、身元を証明するものを一切所持していないことだ。「ピアノマン」は楽譜、「ドードー」は辞書と写真、という決定的ではない品を何かしら所持していたことも似ている。
両者に関連性があるとは思わないが、似たような事例がこの世界では起こっているのだと妙に考えさせられる。
彼の顔は連日テレビやインターネットのメディアに乗って世界に報道されている。これだけ大々的に世界的に晒されているのだから、家族や親戚、友人知人、仕事上の関係者、ピアノの指導者などなど、いろいろなチャンネルから本人に結びつく情報が出てきてもおかしくない。しかし、未だに「ピアノマン」は「ピアノマン」のままだ。縦横に情報網が張り巡らされ地球の裏側のニュースでも瞬時にネットで発信される、また個人情報の漏洩が社会問題化されている21世紀の地球で、ただ一人の人物の身元が特定できないのは不思議だ。身元につながる決定的な証言がなぜ出てこないのだろう。
全世界で一人くらいは「ピアノマン」ないし「ドードー」のことを知っている、何かしら関係のある人物が現れてもいいではないか。それとも、彼らは本当にこの地球上に誰一人として知人がいないのであろうか。それとも、知人がいたとしても、名乗り出ることの出来ない理由があるのだろうか。
精神安定剤という薬がある。それは脳に働きかけ、高ぶる感情を抑えたり、リラックスさせたりする効果がある。我々の感情や感覚はつまるところ脳内分泌物質の働きによるものだ。空腹時には空腹を知らせる物質が分泌され、信号を受け取った脳が「腹が減った」と思わせる。幸せもそうだ。脳内麻薬と呼ばれるエンドルフィンなどが分泌され、「幸福感」を感じる。
精神安定剤もつまるところ脳内の物質分泌を薬によってある程度制御することだ。安定剤があるということは不安定剤も理屈の上では存在しそうだ。人の精神は意図的に、人為的に錯乱させることができる。その延長線上で記憶も、薬の投与によって喪失させたりできないものであろうか。
「ピアノマン」や「ドードー」がそういった人為的な企ての犠牲者とは考えられないだろうか。
もし彼らが何かしらの機密に触れる立場の存在で、知ってはいけないことを知ってしまったがために、人為的に記憶を奪われた人物だとしたら、これだけ世界が騒いでも彼らの身元が判明しない理由が説明付く、ような気がするのだ。
これは実に荒唐無稽なSF的な発想だ。もともとSF的な物語が好きなので考えてしまう。
昔の怪奇現象テレビ番組でたびたびUFOネタを見た。アメリカのエリア51と呼ばれる軍事施設では異星人の協力のもとUFOが作られ実験されている。その施設で実際に働いていた科学者が脱走し情報をリークしようとしたら、戸籍や身分証などその人物の身元を保証するものが一切削除されFBIに監視され命を狙われるようになった、とかいう内容だ。
「ピアノマン」報道を見て、真っ先に思い浮かんだのがそういうことだった。
「ピアノマン」や「ドードー」がどこから来た誰なのか、分からない。病気や大きなショックで記憶を失った不幸な人なのかもしれない。私の妄想のように、なにかしらの陰謀に巻き込まれ人為的に記憶を奪われた人かもしれない。
1分1秒情報が飛び交うIT社会の地球上に、ミステリアスな人々がいる。答えは出るのであろうか。ただの傍観者としてロマンを楽しむ私がいる。
しかし、自分を知る人が世界に誰もいない、誰のことも覚えていない、当人達の心痛はいかばかりであろうか?真の解決は、彼らが自分を取り戻し、彼らの居るべき場所へ戻ることだ。一日も早くそういう日が来てほしい。
英国の海岸で保護されたピアノを弾く身元不明の白人男性が世界で注目を集めると同時に、ビリーのCDが売れ出した。代表曲「ピアノマン」が連日の報道のBGMなどに使用されている効果で、レコード会社に注文が殺到している、ということだ。
イギリスで発見、保護されたなぞの男性。ピアノの楽譜を持ち、記憶を失っている。
身元を証明するものは何も所持しておらず、彼がどこの誰かは未だもって不明。
言葉を発しようとせず、コミュニケーションは彼の演奏するピアノの音色だけ。
いつしか人々は彼のことをこう呼ぶようになった。「ピアノマン」と。
まるで下手なミステリー小説のような出来事が現実に起きている。
30年前の少女漫画の世界の話かもしれない。
もし彼が昔の日本で発見されたなら「ピアノ太郎」とか「鍵盤男」とかアホな名前を付けられたのだろうか、などと非建設的なことを考えながら行く末を見守っている。
記憶喪失の音楽家、ある意味ロマンチックな話なのかもしれないが、いささか不気味でもある。
似たような話を先日テレビで見た。番組名は失念してしまったのだが、主人公は東洋人だった。
2003年5月、ノルウェーの首都オスロで東洋系とみられる青年が保護される。彼は記憶喪失症で、身元や国籍を証明するものは一切持っていなかった。
身元確認の唯一の手掛かりは持っていた1枚の写真で、西洋庭園をバックにアジア系の女性がポーズをとり、裏に英語で「ジェニー、パリ、2002・8」と記載。また、青年の辞書の裏表紙には「ドードーへ。20歳の誕生日おめでとう。ジェニーより。2002年12月12日」と英語で書かれていた。
「ドードー」は英語で「飛べない鳥」などを意味し、青年の愛称だったとも考えられる。
青年によると、2003年1月、スイス滞在中に突然記憶を失い、パリ経由で同5月にオスロに来たところ、警察に保護され病院に収容された。所持金は約5000ドル(約52万円)だけで、パスポートなどはなかった。
青年が話せるのは日常会話程度の英語で、母国語は不明。治療に当たった臨床心理科医は「記憶とともに母国語も失ったまれなケース」と分析する。
青年によると、野球のルールや、甲子園が球場名であることも知っている。オスロ在住の日本人が大福を差し入れると「もち」という言葉を口にした。日本語をわずかに理解し「甲子園」といった言葉も覚えていることから、幼少年時代を関西で過ごした可能性もある。だが、日本大使館の調査でも決定的な手掛かりはなく、身元の確認作業は難航している。中国語や韓国・朝鮮語は分からないという。
「ドードー」と呼ばれる彼は現在、身元や国籍の手掛かりを得られないまま失意の暮らしを続けている。 福祉国家ノルウェーとあって住居や生活費も与えられているが、青年は「こうしたお金をもらうのは心苦しい」と自立の道を模索中とのことだ。青年に残っているおぼろげな記憶によると、幼少時に母親が死亡した後は実業家とみられる父親に育てられ、一緒によく海外を旅したという。
「ピアノマン」に「ドードー」、共通点はどちらも記憶を失い、身元を証明するものを一切所持していないことだ。「ピアノマン」は楽譜、「ドードー」は辞書と写真、という決定的ではない品を何かしら所持していたことも似ている。
両者に関連性があるとは思わないが、似たような事例がこの世界では起こっているのだと妙に考えさせられる。
彼の顔は連日テレビやインターネットのメディアに乗って世界に報道されている。これだけ大々的に世界的に晒されているのだから、家族や親戚、友人知人、仕事上の関係者、ピアノの指導者などなど、いろいろなチャンネルから本人に結びつく情報が出てきてもおかしくない。しかし、未だに「ピアノマン」は「ピアノマン」のままだ。縦横に情報網が張り巡らされ地球の裏側のニュースでも瞬時にネットで発信される、また個人情報の漏洩が社会問題化されている21世紀の地球で、ただ一人の人物の身元が特定できないのは不思議だ。身元につながる決定的な証言がなぜ出てこないのだろう。
全世界で一人くらいは「ピアノマン」ないし「ドードー」のことを知っている、何かしら関係のある人物が現れてもいいではないか。それとも、彼らは本当にこの地球上に誰一人として知人がいないのであろうか。それとも、知人がいたとしても、名乗り出ることの出来ない理由があるのだろうか。
精神安定剤という薬がある。それは脳に働きかけ、高ぶる感情を抑えたり、リラックスさせたりする効果がある。我々の感情や感覚はつまるところ脳内分泌物質の働きによるものだ。空腹時には空腹を知らせる物質が分泌され、信号を受け取った脳が「腹が減った」と思わせる。幸せもそうだ。脳内麻薬と呼ばれるエンドルフィンなどが分泌され、「幸福感」を感じる。
精神安定剤もつまるところ脳内の物質分泌を薬によってある程度制御することだ。安定剤があるということは不安定剤も理屈の上では存在しそうだ。人の精神は意図的に、人為的に錯乱させることができる。その延長線上で記憶も、薬の投与によって喪失させたりできないものであろうか。
「ピアノマン」や「ドードー」がそういった人為的な企ての犠牲者とは考えられないだろうか。
もし彼らが何かしらの機密に触れる立場の存在で、知ってはいけないことを知ってしまったがために、人為的に記憶を奪われた人物だとしたら、これだけ世界が騒いでも彼らの身元が判明しない理由が説明付く、ような気がするのだ。
これは実に荒唐無稽なSF的な発想だ。もともとSF的な物語が好きなので考えてしまう。
昔の怪奇現象テレビ番組でたびたびUFOネタを見た。アメリカのエリア51と呼ばれる軍事施設では異星人の協力のもとUFOが作られ実験されている。その施設で実際に働いていた科学者が脱走し情報をリークしようとしたら、戸籍や身分証などその人物の身元を保証するものが一切削除されFBIに監視され命を狙われるようになった、とかいう内容だ。
「ピアノマン」報道を見て、真っ先に思い浮かんだのがそういうことだった。
「ピアノマン」や「ドードー」がどこから来た誰なのか、分からない。病気や大きなショックで記憶を失った不幸な人なのかもしれない。私の妄想のように、なにかしらの陰謀に巻き込まれ人為的に記憶を奪われた人かもしれない。
1分1秒情報が飛び交うIT社会の地球上に、ミステリアスな人々がいる。答えは出るのであろうか。ただの傍観者としてロマンを楽しむ私がいる。
しかし、自分を知る人が世界に誰もいない、誰のことも覚えていない、当人達の心痛はいかばかりであろうか?真の解決は、彼らが自分を取り戻し、彼らの居るべき場所へ戻ることだ。一日も早くそういう日が来てほしい。
The deepest impact
ナリタブライアンを初めて見たのが1994年のスプリングステークスだった。
事前情報としてナリタブライアンが前年の朝日杯3歳ステークスの勝ち馬で、その年の共同通信杯も勝ち、皐月賞の大本命であることは仕入れていた。「朝日杯」や「共同通信杯」の意味は分からなかったが、「三冠」を狙える10年に一度の名馬の予感、という言葉に妙に引きつけられた。
しかし、実際にレースを目撃した後、それは「引きつけられる」という表現ではまるで足りない、もっと強烈な感情に襲われ、それ以降私は競馬に、いやナリタブライアンに魅入られてしまった。
そのレース、ナリタブライアンは終始最後尾をのんびり走っていた。競馬の知識がまるでない当時の私にはその展開は驚きだった。こんなに後ろではもう勝てないだろう、大本命の割には情けない馬だな、道中はそんなことを軽く思っていた。
今回顧すれば、それはそれまで差し競馬一辺倒だったナリタブライアンにあえて後方待機の追い込みをやらせてみたレースであり、皐月賞に向けて戦術の幅を広げる為の「試走」に過ぎなかったわけである。
そんなことが分からない私は、後方からいつの間にか上位に上がってきて、直線で他の馬を文字通り「ぶっちぎる」ブライアンの姿にただただ唖然とするばかりだった。ど素人以下の私でも、すぐに実感するものがあった。この馬はまだ全然本気じゃない。力を残して走ってこの結果。こいつは強い。
競馬の知識がまるでないのに、この馬が別格の何かであることは分かった。ナリタブライアンだけが装着していた白いシャドーロールのインパクトが脳裏に焼き付いたのだった。
皐月賞では相手にフジノマッケンオーを選んで憤死。
ダービーではエアダブリンとの組み合わせを的中させたが、ナムラコクオーとメルシーステージとノーザンポラリスにも浮気してしまったので、プラスマイナスゼロ。交通費分マイナス。
菊花賞では今度こそエアダブリンと心中と大枚をはたいたが、ヤシマソブリンのせいで爆死。
有馬記念ではヒシアマゾンとの1点を読み切っていながらも、勇気がなくてネーハイシーザーとアイルトンシンボリとライスシャワーとマチカネアレグロに保険をうって溺死。
と、ナリタブライアンは最強と栄光への道を驀進し、私は散財の底へ転がり落ちたのだった。
そんなことはどうでもいい。
5歳以降、故障で輝きを失ってしまったがナリタブライアンは「最強馬」だった。
古馬であろうと女傑であろうと、まるで相手にせずになぎ倒し、ぶっちぎった。
力づけが済んだ相手でも容赦なく突き放すそのレースぶりはいささか品がない、とシンザン派の識者はのたまったが、若い私は、他者を圧倒するその暴虐とも呼べる力強さに酔いしれた。
勝つ馬が決まっている競馬など面白くも何ともない、と全うな賭博師は忌避したが、若く経済力のない私は、石橋をハンマーで叩く気持ちで絶対の安心を求めた。結果は伴わなかったが。
ナリタブライアンは私の「絶対王政」だった。逆らってはいけない存在だったし、あいまいで不安定な世の中で唯一信頼できる「真実」だった。
そこまで入れ込んだ馬は後にも先にもナリタブライアンしかいない。ブライアンは私にとって「初めての馬」であったから。故に、ブライアンなき後、私は「第2のブライアン」を求めるようになる。その希望を叶えて私を熱狂させてくれた馬は、グラスワンダーしかいない。
古くはフジキセキ、バブルガムフェロー、新しいところではアグネスタキオン、キングカメハメハなど、可能性を感じさせる馬は故障で早々とターフを去った。
ナリタブライアンに操を捧げてから約10年。私の競馬への情熱はグランスワンダーとともに静かに消えていった。
そんな私に、再び衝撃を与えた馬がいる。
若駒ステークスで他馬をまるで相手にすることなく、悠々一人旅を演じたその姿に、月並みながらかつてのナリタブライアンの姿を重ねてしまった。
皐月賞で、インコースの混戦に目もくれず、涼しい顔で大外を一頭軽やかに駆け抜けたその姿は、ブライアンの荒々しいそれとは異なって、とてもスマートな足取りのギャロップだった。
もう断言してもいい。第72回日本ダービー馬は「ディープインパクト」だ。
450キロそこそこの小柄な馬体とガラス細工のように繊細な四肢。柔らかそうな筋肉。パワーよりもバランスと瞬発力に長けた才能が垣間見える。
ナリタブライアンは水の残る府中の直線を、泥を跳ね飛ばしながら一頭大外を突き抜けた。圧倒的なパワーを誇示しながら、弱者をなぎ倒す暴君の装いで。
ディープインパクトにその姿は似合わない。きっとまるで宙に浮くかのような軽やかなステップで、緑のターフを滑るように駆け抜けるだろう。暴君ではなく、王子のようなスマートな装いで。
明日、東京地方は曇り空だそうだ。できれば晴天であってほしい。鮮やかな五月晴れに照らされた新緑の中を、一頭涼しげな顔で突き抜けるディープインパクトが見たい。きっと5馬身は突き放してくれるだろう。どこまでも強い、圧倒的な王者の誕生を、しかと見届けねばならない。
私のダービー馬はもう間違いなくディープインパクトだ。アナーキーぶってこれに反抗しようとは思わない。アンチであるより、本当に強い馬の強い競馬を私は見たい。
相手はローゼンクロイツ。皐月賞ではふがいない結果に終わったが、毎日杯で見せた末脚に惚れた。しかも彼はあのロゼカラーの息子だ。それに、乗れてる福永祐一にあやかってアドマイヤフジ。
グラスワンダーの子、シルクネクサスとキングヘイローの子、ニシノドコマデモも冗談で押さえておくかな。インティライミは理由なく削除。
●馬連 3-5、5-6
●3連複 3-5-6、 3-5-2、2-3-5、3-5-17
事前情報としてナリタブライアンが前年の朝日杯3歳ステークスの勝ち馬で、その年の共同通信杯も勝ち、皐月賞の大本命であることは仕入れていた。「朝日杯」や「共同通信杯」の意味は分からなかったが、「三冠」を狙える10年に一度の名馬の予感、という言葉に妙に引きつけられた。
しかし、実際にレースを目撃した後、それは「引きつけられる」という表現ではまるで足りない、もっと強烈な感情に襲われ、それ以降私は競馬に、いやナリタブライアンに魅入られてしまった。
そのレース、ナリタブライアンは終始最後尾をのんびり走っていた。競馬の知識がまるでない当時の私にはその展開は驚きだった。こんなに後ろではもう勝てないだろう、大本命の割には情けない馬だな、道中はそんなことを軽く思っていた。
今回顧すれば、それはそれまで差し競馬一辺倒だったナリタブライアンにあえて後方待機の追い込みをやらせてみたレースであり、皐月賞に向けて戦術の幅を広げる為の「試走」に過ぎなかったわけである。
そんなことが分からない私は、後方からいつの間にか上位に上がってきて、直線で他の馬を文字通り「ぶっちぎる」ブライアンの姿にただただ唖然とするばかりだった。ど素人以下の私でも、すぐに実感するものがあった。この馬はまだ全然本気じゃない。力を残して走ってこの結果。こいつは強い。
競馬の知識がまるでないのに、この馬が別格の何かであることは分かった。ナリタブライアンだけが装着していた白いシャドーロールのインパクトが脳裏に焼き付いたのだった。
皐月賞では相手にフジノマッケンオーを選んで憤死。
ダービーではエアダブリンとの組み合わせを的中させたが、ナムラコクオーとメルシーステージとノーザンポラリスにも浮気してしまったので、プラスマイナスゼロ。交通費分マイナス。
菊花賞では今度こそエアダブリンと心中と大枚をはたいたが、ヤシマソブリンのせいで爆死。
有馬記念ではヒシアマゾンとの1点を読み切っていながらも、勇気がなくてネーハイシーザーとアイルトンシンボリとライスシャワーとマチカネアレグロに保険をうって溺死。
と、ナリタブライアンは最強と栄光への道を驀進し、私は散財の底へ転がり落ちたのだった。
そんなことはどうでもいい。
5歳以降、故障で輝きを失ってしまったがナリタブライアンは「最強馬」だった。
古馬であろうと女傑であろうと、まるで相手にせずになぎ倒し、ぶっちぎった。
力づけが済んだ相手でも容赦なく突き放すそのレースぶりはいささか品がない、とシンザン派の識者はのたまったが、若い私は、他者を圧倒するその暴虐とも呼べる力強さに酔いしれた。
勝つ馬が決まっている競馬など面白くも何ともない、と全うな賭博師は忌避したが、若く経済力のない私は、石橋をハンマーで叩く気持ちで絶対の安心を求めた。結果は伴わなかったが。
ナリタブライアンは私の「絶対王政」だった。逆らってはいけない存在だったし、あいまいで不安定な世の中で唯一信頼できる「真実」だった。
そこまで入れ込んだ馬は後にも先にもナリタブライアンしかいない。ブライアンは私にとって「初めての馬」であったから。故に、ブライアンなき後、私は「第2のブライアン」を求めるようになる。その希望を叶えて私を熱狂させてくれた馬は、グラスワンダーしかいない。
古くはフジキセキ、バブルガムフェロー、新しいところではアグネスタキオン、キングカメハメハなど、可能性を感じさせる馬は故障で早々とターフを去った。
ナリタブライアンに操を捧げてから約10年。私の競馬への情熱はグランスワンダーとともに静かに消えていった。
そんな私に、再び衝撃を与えた馬がいる。
若駒ステークスで他馬をまるで相手にすることなく、悠々一人旅を演じたその姿に、月並みながらかつてのナリタブライアンの姿を重ねてしまった。
皐月賞で、インコースの混戦に目もくれず、涼しい顔で大外を一頭軽やかに駆け抜けたその姿は、ブライアンの荒々しいそれとは異なって、とてもスマートな足取りのギャロップだった。
もう断言してもいい。第72回日本ダービー馬は「ディープインパクト」だ。
450キロそこそこの小柄な馬体とガラス細工のように繊細な四肢。柔らかそうな筋肉。パワーよりもバランスと瞬発力に長けた才能が垣間見える。
ナリタブライアンは水の残る府中の直線を、泥を跳ね飛ばしながら一頭大外を突き抜けた。圧倒的なパワーを誇示しながら、弱者をなぎ倒す暴君の装いで。
ディープインパクトにその姿は似合わない。きっとまるで宙に浮くかのような軽やかなステップで、緑のターフを滑るように駆け抜けるだろう。暴君ではなく、王子のようなスマートな装いで。
明日、東京地方は曇り空だそうだ。できれば晴天であってほしい。鮮やかな五月晴れに照らされた新緑の中を、一頭涼しげな顔で突き抜けるディープインパクトが見たい。きっと5馬身は突き放してくれるだろう。どこまでも強い、圧倒的な王者の誕生を、しかと見届けねばならない。
私のダービー馬はもう間違いなくディープインパクトだ。アナーキーぶってこれに反抗しようとは思わない。アンチであるより、本当に強い馬の強い競馬を私は見たい。
相手はローゼンクロイツ。皐月賞ではふがいない結果に終わったが、毎日杯で見せた末脚に惚れた。しかも彼はあのロゼカラーの息子だ。それに、乗れてる福永祐一にあやかってアドマイヤフジ。
グラスワンダーの子、シルクネクサスとキングヘイローの子、ニシノドコマデモも冗談で押さえておくかな。インティライミは理由なく削除。
●馬連 3-5、5-6
●3連複 3-5-6、 3-5-2、2-3-5、3-5-17
Can the eagle fly?
数日前、東北楽天ゴールデンイーグルス(長い名だ)が10勝するのが早いか、30敗するのが早いか、どっちだろうかと友人と笑い話のタネにしたことがあった。
それから約2週間、楽天は40敗する前に10勝を達成した。48試合目での10勝到達は1979年の西武の48試合を超えるパのワースト記録でもある。とりあえず、楽天の10勝到達を祝いたい。いや、皮肉でもギャグでもなくて。わずか10勝だが、険しい道のりだった。田尾監督の心中を察すると、下手な同情はできないので、あえて笑うしかなくなってしまう。
楽天の弱さは際立つばかりだが、私はこの弱さは非常に意義深いと考える。そして、楽天の新規参入1年目は、現時点をもって大成功だと評価している。楽天は楽天にしか出来ないやり方でプロ野球界に存在感を示しているからだ。
楽天は開幕から大仕事をやってのけた。3月26日プロ野球2005年シーズンの開幕戦、楽天にとって初陣となる記念すべき試合、ロッテ相手に勝利したのだ。そして翌日、今度は26-0という記録的な大敗を喫する。これはお見事としか言いようがない。歴史的1勝を上げた翌日に、非情な現実を思い知らされる。これは楽天にしかできないことだ。この2試合で私にとっての楽天の存在意義はほぼ達せられたと言って過言ではない。
今シーズン開幕前、楽天の話題で持ち切りだった。果たしてまともに戦えるのか?と。
様々な意見があったが、野球関係者の考えは大筋否定的だった。期待はしたいが、現実的にこの戦力では難しいだろう、と。100敗するかもしれない、という人もいたが、ふたを開けてみたら本当に悪夢の100敗ペースだ。数字の上では100敗と気軽に言えるが、実際にプレーをしている選手やフロント、球団運営に携わる関係者にしてみたら、それこそ悪夢だろう。135試合中35勝100敗、借金65。恐ろしい数字だが、48試合で10勝なのだから、あり得ない数字ではない。プロ野球選手たるものみんな野球のエリートなのだから、楽天選手たちもこれほど勝てない経験は初めてだろう。
ここまで露骨な数字が出るとは思っていなかったが、今シーズン楽天が非常に苦戦するであろうことは大方の予想通りである。単純な話、戦力がまるで足らないからだ。これで楽天が前評判を覆して検討するものならさぞかし騒ぎになるだろうな、そしたら他球団はふがいないな、と思っていたのであるが、杞憂に終わった。だから、安心した。プロ野球はちゃんと機能している。
日本プロ野球は甘くはない。楽天には失礼だが、ガラクタの寄せ集めのような急造チームが勝てるほど、他球団は弱くはないのだ。今シーズンの楽天は負けることが仕事だと言っていい。プロ野球界の厳然たる事実をはっきりと証明する為に楽天がいる。
楽天の存在意義、それは「勝てるチーム」と「勝てないチーム」の差を明確に見せることだ。楽天と他チームには残酷なほど実力差があるが、それを我々は分かりやすく見ることが出来る。野球における実力差とは何なのか?それは投手力であり、打撃力であり、守備力であり、走力でもある。優れた個人が1人いてもチームは成り立たない。ではチームとは何なのか?先発投手は何人いるのか?中継ぎや抑えは?4番バッターはどういう選手が求められるのか?1番、2番バッターの役目とは?
楽天は野球を構成する上で必要なことを改めて我々に見せてくれている。
楽天というフィルターを通すことによって、今まで当たり前に見てきたプロ野球を、新鮮な目で見ることができるだ。楽天はゼロからのスタートだ。では他の球団は?当然ゼロではない。「ゼロ」の楽天があれば、積み重ねてきた歴史を再認識することもできるだろう。
それは野球の面白さそのものなのだ。
恐らく楽天は3年はまともに勝負させてもらえない。戦力が揃わないことにはどうしようもない。
その間、仙台の楽天ファンはさぞかしもどかしい思いをするだろう。その悔しさを今から存分に味わうべきだ。チームの苦しみを分かち合い涙すればいい。それは楽天ファンだけに許される行為だ。今は常時負けているのだから、たまに勝つとさぞかし嬉しいだろう。そういう独自の視点で楽天を楽しめばいい。
今でこそ日本最強となったソフトバンクホークスも、福岡に移転した当初は目も当てられない弱小球団だった。野暮ったい変な色のユニフォームに、鷹の目が付いたヘルメット。おせじにもかっこ良くなかった。ユニフォームを黒に変えた時には「黒は強いチームの色、ダイエーにはふさわしくない」とフジテレビの野球解説者に一刀両断されたくらいだ。それから10余年、ホークスは着実な努力により球界最強のチームとなった。
今ホークスファンはこの世の春を謳歌している。それもこれも、最低の時期を経験しているからだ。どん底まで落ちていたから、頂点の心地よさが分かる。弱小と呼ばれさんざん馬鹿にされてきたホークスファンだからこそ、優勝の瞬間かつてない歓喜に爆発することが出来たのだ。
痛みを知らなければ、喜びもない。11球団とそのファンはそれぞれの歴史の中で、痛みと喜びを得てきた。優勝する時もあれば、泣きたくなるほど弱い時もある。酸いも甘いも味わってこそ真のファンとなれるのだ。楽天は今からしばらくは痛みの時代が続くだろう。当然だ。しかし、ファンは痛みにひるむことなく、楽天を見守ってほしい。つらい時期をチームと共有し、バックアップしてほしい。さすればやがてやって来るであろう優勝の時が、格別なものになるはずだから。
今のうちに痛みに耐性を付けておくことも大切だ。ある程度負けに慣れると怖いものがなくなる。6連敗くらいでは動じなくなったら立派なMだ。楽天ファンにはぜひそのレベルまで味わってほしい。
楽天の歴史は今始まったばかりだ。今日明日に強くなるわけがない。長い目で楽しめばいい。チームとともに毎日を積み重ねていくこと。それが日本プロ野球の醍醐味なのだから。
それから約2週間、楽天は40敗する前に10勝を達成した。48試合目での10勝到達は1979年の西武の48試合を超えるパのワースト記録でもある。とりあえず、楽天の10勝到達を祝いたい。いや、皮肉でもギャグでもなくて。わずか10勝だが、険しい道のりだった。田尾監督の心中を察すると、下手な同情はできないので、あえて笑うしかなくなってしまう。
楽天の弱さは際立つばかりだが、私はこの弱さは非常に意義深いと考える。そして、楽天の新規参入1年目は、現時点をもって大成功だと評価している。楽天は楽天にしか出来ないやり方でプロ野球界に存在感を示しているからだ。
楽天は開幕から大仕事をやってのけた。3月26日プロ野球2005年シーズンの開幕戦、楽天にとって初陣となる記念すべき試合、ロッテ相手に勝利したのだ。そして翌日、今度は26-0という記録的な大敗を喫する。これはお見事としか言いようがない。歴史的1勝を上げた翌日に、非情な現実を思い知らされる。これは楽天にしかできないことだ。この2試合で私にとっての楽天の存在意義はほぼ達せられたと言って過言ではない。
今シーズン開幕前、楽天の話題で持ち切りだった。果たしてまともに戦えるのか?と。
様々な意見があったが、野球関係者の考えは大筋否定的だった。期待はしたいが、現実的にこの戦力では難しいだろう、と。100敗するかもしれない、という人もいたが、ふたを開けてみたら本当に悪夢の100敗ペースだ。数字の上では100敗と気軽に言えるが、実際にプレーをしている選手やフロント、球団運営に携わる関係者にしてみたら、それこそ悪夢だろう。135試合中35勝100敗、借金65。恐ろしい数字だが、48試合で10勝なのだから、あり得ない数字ではない。プロ野球選手たるものみんな野球のエリートなのだから、楽天選手たちもこれほど勝てない経験は初めてだろう。
ここまで露骨な数字が出るとは思っていなかったが、今シーズン楽天が非常に苦戦するであろうことは大方の予想通りである。単純な話、戦力がまるで足らないからだ。これで楽天が前評判を覆して検討するものならさぞかし騒ぎになるだろうな、そしたら他球団はふがいないな、と思っていたのであるが、杞憂に終わった。だから、安心した。プロ野球はちゃんと機能している。
日本プロ野球は甘くはない。楽天には失礼だが、ガラクタの寄せ集めのような急造チームが勝てるほど、他球団は弱くはないのだ。今シーズンの楽天は負けることが仕事だと言っていい。プロ野球界の厳然たる事実をはっきりと証明する為に楽天がいる。
楽天の存在意義、それは「勝てるチーム」と「勝てないチーム」の差を明確に見せることだ。楽天と他チームには残酷なほど実力差があるが、それを我々は分かりやすく見ることが出来る。野球における実力差とは何なのか?それは投手力であり、打撃力であり、守備力であり、走力でもある。優れた個人が1人いてもチームは成り立たない。ではチームとは何なのか?先発投手は何人いるのか?中継ぎや抑えは?4番バッターはどういう選手が求められるのか?1番、2番バッターの役目とは?
楽天は野球を構成する上で必要なことを改めて我々に見せてくれている。
楽天というフィルターを通すことによって、今まで当たり前に見てきたプロ野球を、新鮮な目で見ることができるだ。楽天はゼロからのスタートだ。では他の球団は?当然ゼロではない。「ゼロ」の楽天があれば、積み重ねてきた歴史を再認識することもできるだろう。
それは野球の面白さそのものなのだ。
恐らく楽天は3年はまともに勝負させてもらえない。戦力が揃わないことにはどうしようもない。
その間、仙台の楽天ファンはさぞかしもどかしい思いをするだろう。その悔しさを今から存分に味わうべきだ。チームの苦しみを分かち合い涙すればいい。それは楽天ファンだけに許される行為だ。今は常時負けているのだから、たまに勝つとさぞかし嬉しいだろう。そういう独自の視点で楽天を楽しめばいい。
今でこそ日本最強となったソフトバンクホークスも、福岡に移転した当初は目も当てられない弱小球団だった。野暮ったい変な色のユニフォームに、鷹の目が付いたヘルメット。おせじにもかっこ良くなかった。ユニフォームを黒に変えた時には「黒は強いチームの色、ダイエーにはふさわしくない」とフジテレビの野球解説者に一刀両断されたくらいだ。それから10余年、ホークスは着実な努力により球界最強のチームとなった。
今ホークスファンはこの世の春を謳歌している。それもこれも、最低の時期を経験しているからだ。どん底まで落ちていたから、頂点の心地よさが分かる。弱小と呼ばれさんざん馬鹿にされてきたホークスファンだからこそ、優勝の瞬間かつてない歓喜に爆発することが出来たのだ。
痛みを知らなければ、喜びもない。11球団とそのファンはそれぞれの歴史の中で、痛みと喜びを得てきた。優勝する時もあれば、泣きたくなるほど弱い時もある。酸いも甘いも味わってこそ真のファンとなれるのだ。楽天は今からしばらくは痛みの時代が続くだろう。当然だ。しかし、ファンは痛みにひるむことなく、楽天を見守ってほしい。つらい時期をチームと共有し、バックアップしてほしい。さすればやがてやって来るであろう優勝の時が、格別なものになるはずだから。
今のうちに痛みに耐性を付けておくことも大切だ。ある程度負けに慣れると怖いものがなくなる。6連敗くらいでは動じなくなったら立派なMだ。楽天ファンにはぜひそのレベルまで味わってほしい。
楽天の歴史は今始まったばかりだ。今日明日に強くなるわけがない。長い目で楽しめばいい。チームとともに毎日を積み重ねていくこと。それが日本プロ野球の醍醐味なのだから。
Suicide?
もしあなたが取引のある会社社長に突然社用のアポイントを入れ、それを先方に断りなくやはり突然一方的にキャンセルしたとしたら、あなたの立場はどうなるであろう?
また、あなたが相手側の立場であったとしたら、突然のキャンセルをどう受け止めるであろう?
町村信孝外相は「ひと言悪かったとか言わないと人間社会は成り立たない」と普通の反応を示した。
麻生太郎総務相も中山成彬文部科学相もごく普通に不快感を表明した。
小泉純一郎首相は「野党の審議拒否が伝染した」とか「会いたくないのなら会う必要はない」と小泉節を発揮してみせた。
安倍晋三幹事長代理は「多くの国民は少し非礼ではないかという気持ちを抱くかもしれない」と述べた。
民主党の岡田代表は「もう少し丁寧な言い方があってもいい。日中間の溝を深めるような方向に持って行っているような気がする」と述べ、小泉首相を批判しているのだが、日本よりも中国のことが好きな岡田さんのことは特に触れないでいいだろう。民主党の支持率は9%らしいが、岡田さんがこのまま頑張れば消費税くらいまではいくかもしれない。頑張れ岡田!その調子だ!
安倍幹事長代理の言う通り、多くの方は中国の呉儀副首相が小泉首相との会談を突然取りやめ、帰国した件について、不快感をもったと思う。これは外交儀礼とかうんぬんではなく、社会人として失礼であり、非礼であり、無礼な行為であるからだ。
違うと主張する方がいるなら、冒頭で書いたように取引先の社長(しかも大口の)とのアポを一方的にドタキャンしてみればいい。たぶん次の日から会社に行く必要がなくなる。
こんなことをすれば日本は当然中国に対して不信感を抱くだろう。ただでさえ、先日の反日デモの余韻がまだ残っており日本での対中感情はよいとは言えないのだから。
韓国とは違い国際世論や流れを読める中国のことだから、何か裏があるのではないか、と警戒していたのであるが、今日になって中国から出た談話が下記の通り。
国外務省の孔泉報道局長は23日夜に談話を発表し、「残念なのは、呉副首相の日本訪問中、日本の指導者が靖国神社参拝問題について、中日関係の改善に不利な言論を次々と表明したことだ。中国側は非常に不満だ」と、日本側を強く非難した。
ときたもんだ。結局「靖国かい」って。もういい加減にしろ、ってあきれる思いだ。
自民党の武部勤幹事長が中国共産党の王家瑞対外連絡部長に対し「靖国問題に関して内政干渉するな」と言ったら逆切れした、という話があり、その後胡錦涛国家主席との会談でも言及が合ったそうだから、靖国問題が背景にあったのは間違いなさそうだ。
いくら逆切れされても事実なのだから仕方がない。中国や韓国がいちいち靖国に関していちゃもんをつけてくるのは明らかに「内政干渉」であり、不当だ。昭和五十三年に締結された日中平和友好条約でも内政に対する相互不干渉の原則が明記されている。
今日TVニュースは見ていないのだが、TBSやテレビ朝日は中国の行動に理解を示し、日本側の靖国に対する対応を問題にする報道をしたのではないか、と危惧してしまう(笑
靖国云々抜きにして、ドタキャンは無礼なのだから、まずそこははっきりさせないといけない。
呉儀副首相の行動は何を狙ったものだろうか?呉儀副首相というか中国共産党だが。
まず日本で評価する人は少ないだろう。日本は格下の役人に首相がコケにされたのだから。
となると国内向けか、と思う。事実中国国内では呉儀副首相の行動は圧倒的に支持されているようだ。「日本の愚かな首相を相手にしなかった」ということで。まぁ、共産党独裁で言論の自由もない国の世論などバカバカしくて相手にもできないが。
つまり国内の反日世論のガス抜き的な意味合いだろうか。抗日闘争「五四運動」記念日である5月4日の反日デモは完璧に押さえ込んだみたいだが、中国国内の世論は相変わらず反日に偏っているのだろう。まぁ、国を挙げて反日教育に勤しんでいるのだから当たり前の現象だ。
国民に対し「日本を格下に扱う」事例を見せないと世論が納得しないのかもしれない。
日本に対し譲歩や謝罪などしたものなら、「弱腰」との非難が政府に、共産党へと向けられる。再び天安門事件が起こるかもしれない。中国は2008年の北京オリンピックを控えている。対外的にも無様な姿は見せられない、という危機感は強い。
小泉首相は「靖国に関して他国の内政干渉は受け付けない。適切な時期に参拝する」と断言した。呉儀副首相と会談して、靖国問題に踏み込んだ場合でも、小泉首相は決して揺るがなかったであろう。そうなった場合、リスクがあるのは間違いなく中国だ。簡単に言えば、呉儀副首相はリスクを恐れて逃げたのである。かといって呉儀副首相の行動が無礼であることには変わりはない。日本は労せずして外交カードを一つ手に入れたわけだ。
今までは「靖国」と騒ぎ立てれば、日本は慌てふためいて中国に配慮したのかもしれない。だが、もうその手は通用しない、と確固たる姿勢を取っている。
もともと「靖国問題」なんて1985年中曽根内閣の時に朝日新聞がネガティブキャンペーンをやらなければ、こんな大問題にはならなかった。事実、戦後40年間、朝日新聞が騒ぎ始めるまでは中国は靖国神社に対して何も言っていないし歴代総理大臣は参拝している。
「靖国カード」が思うように使えなくなったことで中国は狼狽しているのだろうか。
小泉首相に靖国参拝されてしまうと、中国政府のメンツは丸つぶれになり、国民の不満が共産党に向けられて政権が危うくなる、とよく言われる。ただでさえ、先日の反日デモで国際世論から白い目で見られている。しかし、長年にわたる反日教育で国内の不満は高まる。デモが起こってもマイナス。デモを押さえ込んでも、共産党による統制はやはりマイナス。
(まぁ先日発生した「お遊び感覚デモ」に政権を転覆させるパワーがあるか否かは別として)
中国の痛いところを日本は握っているということになるが、それらは無論最近の日本外交の賜物だが、中国の自爆も大きい。
今回の呉儀副首相のドタキャンもそうだが、中国の狙いがどこにあるのか、いまいち掴みきれない。単に自爆行為なら、あまりに稚拙だと思ってしまう。
ただ靖国問題は深い。靖国を肯定することは、大戦の戦後処理問題に直結する。日本は敗戦国として一方的に「悪」と断罪された。靖国には「戦犯」が祀られている。靖国の肯定は「戦勝国が善で、悪の日本軍を倒し世界を救った」という戦後の前提を覆す。そして、日本が戦争を起こした理由や戦前の連合国(欧米帝国主義国家)の所業に言及せざるを得ない状況になる。そうなった時、日本はアメリカとは異なる視点に立つことになるだろうし、訣別もあり得ない話ではない。靖国は日本のアイデンティティの問題なのだ。
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靖国をはじめとする日中韓(北朝鮮)の問題に関しては、現在様々なホームページで検証がされています。興味のある方は独自にいろいろ検索してみてください。知らなかった、知らせれていなかったことがたくさんあることに気がつくでしょう。未来を切り拓く為には過去を検証しなくてはなりません。教科書に載っていることだけでは情報が足りない。
また、あなたが相手側の立場であったとしたら、突然のキャンセルをどう受け止めるであろう?
町村信孝外相は「ひと言悪かったとか言わないと人間社会は成り立たない」と普通の反応を示した。
麻生太郎総務相も中山成彬文部科学相もごく普通に不快感を表明した。
小泉純一郎首相は「野党の審議拒否が伝染した」とか「会いたくないのなら会う必要はない」と小泉節を発揮してみせた。
安倍晋三幹事長代理は「多くの国民は少し非礼ではないかという気持ちを抱くかもしれない」と述べた。
民主党の岡田代表は「もう少し丁寧な言い方があってもいい。日中間の溝を深めるような方向に持って行っているような気がする」と述べ、小泉首相を批判しているのだが、日本よりも中国のことが好きな岡田さんのことは特に触れないでいいだろう。民主党の支持率は9%らしいが、岡田さんがこのまま頑張れば消費税くらいまではいくかもしれない。頑張れ岡田!その調子だ!
安倍幹事長代理の言う通り、多くの方は中国の呉儀副首相が小泉首相との会談を突然取りやめ、帰国した件について、不快感をもったと思う。これは外交儀礼とかうんぬんではなく、社会人として失礼であり、非礼であり、無礼な行為であるからだ。
違うと主張する方がいるなら、冒頭で書いたように取引先の社長(しかも大口の)とのアポを一方的にドタキャンしてみればいい。たぶん次の日から会社に行く必要がなくなる。
こんなことをすれば日本は当然中国に対して不信感を抱くだろう。ただでさえ、先日の反日デモの余韻がまだ残っており日本での対中感情はよいとは言えないのだから。
韓国とは違い国際世論や流れを読める中国のことだから、何か裏があるのではないか、と警戒していたのであるが、今日になって中国から出た談話が下記の通り。
国外務省の孔泉報道局長は23日夜に談話を発表し、「残念なのは、呉副首相の日本訪問中、日本の指導者が靖国神社参拝問題について、中日関係の改善に不利な言論を次々と表明したことだ。中国側は非常に不満だ」と、日本側を強く非難した。
ときたもんだ。結局「靖国かい」って。もういい加減にしろ、ってあきれる思いだ。
自民党の武部勤幹事長が中国共産党の王家瑞対外連絡部長に対し「靖国問題に関して内政干渉するな」と言ったら逆切れした、という話があり、その後胡錦涛国家主席との会談でも言及が合ったそうだから、靖国問題が背景にあったのは間違いなさそうだ。
いくら逆切れされても事実なのだから仕方がない。中国や韓国がいちいち靖国に関していちゃもんをつけてくるのは明らかに「内政干渉」であり、不当だ。昭和五十三年に締結された日中平和友好条約でも内政に対する相互不干渉の原則が明記されている。
今日TVニュースは見ていないのだが、TBSやテレビ朝日は中国の行動に理解を示し、日本側の靖国に対する対応を問題にする報道をしたのではないか、と危惧してしまう(笑
靖国云々抜きにして、ドタキャンは無礼なのだから、まずそこははっきりさせないといけない。
呉儀副首相の行動は何を狙ったものだろうか?呉儀副首相というか中国共産党だが。
まず日本で評価する人は少ないだろう。日本は格下の役人に首相がコケにされたのだから。
となると国内向けか、と思う。事実中国国内では呉儀副首相の行動は圧倒的に支持されているようだ。「日本の愚かな首相を相手にしなかった」ということで。まぁ、共産党独裁で言論の自由もない国の世論などバカバカしくて相手にもできないが。
つまり国内の反日世論のガス抜き的な意味合いだろうか。抗日闘争「五四運動」記念日である5月4日の反日デモは完璧に押さえ込んだみたいだが、中国国内の世論は相変わらず反日に偏っているのだろう。まぁ、国を挙げて反日教育に勤しんでいるのだから当たり前の現象だ。
国民に対し「日本を格下に扱う」事例を見せないと世論が納得しないのかもしれない。
日本に対し譲歩や謝罪などしたものなら、「弱腰」との非難が政府に、共産党へと向けられる。再び天安門事件が起こるかもしれない。中国は2008年の北京オリンピックを控えている。対外的にも無様な姿は見せられない、という危機感は強い。
小泉首相は「靖国に関して他国の内政干渉は受け付けない。適切な時期に参拝する」と断言した。呉儀副首相と会談して、靖国問題に踏み込んだ場合でも、小泉首相は決して揺るがなかったであろう。そうなった場合、リスクがあるのは間違いなく中国だ。簡単に言えば、呉儀副首相はリスクを恐れて逃げたのである。かといって呉儀副首相の行動が無礼であることには変わりはない。日本は労せずして外交カードを一つ手に入れたわけだ。
今までは「靖国」と騒ぎ立てれば、日本は慌てふためいて中国に配慮したのかもしれない。だが、もうその手は通用しない、と確固たる姿勢を取っている。
もともと「靖国問題」なんて1985年中曽根内閣の時に朝日新聞がネガティブキャンペーンをやらなければ、こんな大問題にはならなかった。事実、戦後40年間、朝日新聞が騒ぎ始めるまでは中国は靖国神社に対して何も言っていないし歴代総理大臣は参拝している。
「靖国カード」が思うように使えなくなったことで中国は狼狽しているのだろうか。
小泉首相に靖国参拝されてしまうと、中国政府のメンツは丸つぶれになり、国民の不満が共産党に向けられて政権が危うくなる、とよく言われる。ただでさえ、先日の反日デモで国際世論から白い目で見られている。しかし、長年にわたる反日教育で国内の不満は高まる。デモが起こってもマイナス。デモを押さえ込んでも、共産党による統制はやはりマイナス。
(まぁ先日発生した「お遊び感覚デモ」に政権を転覆させるパワーがあるか否かは別として)
中国の痛いところを日本は握っているということになるが、それらは無論最近の日本外交の賜物だが、中国の自爆も大きい。
今回の呉儀副首相のドタキャンもそうだが、中国の狙いがどこにあるのか、いまいち掴みきれない。単に自爆行為なら、あまりに稚拙だと思ってしまう。
ただ靖国問題は深い。靖国を肯定することは、大戦の戦後処理問題に直結する。日本は敗戦国として一方的に「悪」と断罪された。靖国には「戦犯」が祀られている。靖国の肯定は「戦勝国が善で、悪の日本軍を倒し世界を救った」という戦後の前提を覆す。そして、日本が戦争を起こした理由や戦前の連合国(欧米帝国主義国家)の所業に言及せざるを得ない状況になる。そうなった時、日本はアメリカとは異なる視点に立つことになるだろうし、訣別もあり得ない話ではない。靖国は日本のアイデンティティの問題なのだ。
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靖国をはじめとする日中韓(北朝鮮)の問題に関しては、現在様々なホームページで検証がされています。興味のある方は独自にいろいろ検索してみてください。知らなかった、知らせれていなかったことがたくさんあることに気がつくでしょう。未来を切り拓く為には過去を検証しなくてはなりません。教科書に載っていることだけでは情報が足りない。
Avoid a critical situation
まずは以下の文言に目を通していただきたい。
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プロサッカー選手登録における「在日枠」の拡充に関する要望書
日本サッカー発展のため日々ご尽力されている貴下及び貴団体に敬意を表します。
先程の2006年FIFAワールドカップドイツ大会アジア最終予選を通じて、朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)と日本のサッカー交流が滞りなく行われたことを私たちは大変喜ばしく思っています。
この度、在日Jリーガーである安英学、李漢宰選手が朝鮮代表として出場したことにより、Jリーガー又は国家代表になることを夢見てサッカーに励む子供たちが増えています。私たちはこのような子供たちに少しでも活動の場を広げてあげたいとの思いから本要望書を提出する次第です。
本来「在日枠」の規定は、外国籍であっても「特別永住者」、「永住者」であれば日本人プレーヤと同じ出場の機会を与えようという趣旨だと思われます。
現在、朝鮮学校は「特別永住者」、「永住者」に日本社会に適応できる総合的な学力を備えた人材を育成するための教育を行い、サッカー部に所属する子供たちは小学校のころから 日本学校との定期的な交流試合を盛んに行っています。昨今では高体連主催のスポーツ大会への参加認定、国公立大学及び大学院への受験の道が開かれるなど朝鮮学校を一条校に準ずる処遇を為すべきという考え方が広がりを見せてます。何より日本体育協会は2005年 3月4日の国民体育大会委員会で、外国籍の選手、監督について参加資格を緩和し、「特別永住者」、「永住者」であれば参加を認めることを決定いたしました。
このように朝鮮学校と民族学校・外国人学校を取り巻く環境の変化は、彼らに日本人と同じように活動の場を与えるべきだという認識が広がってきたあらわれだと思います。
以上のことから我々は貴下および貴団体に対し、以下のことを要望する次第です。
1.「在日枠」規定の該当者に、一条校卒業生のみではなく、朝鮮学校をはじめとする
民族学校・外国人学校卒業生も含める。学校単位による認定が難しければ「永住資格を有するもの」又は「一定年数以上日本に居住するもの」と規定する。
2.現在の「1チームにつき1名に限る」を「複数名」とする。
よろしく御検討のほどお願い申し上げます。
在日本朝鮮人蹴球協会 会 長 文 章弘
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これは、5月10日に在日本朝鮮人体育連合会と在日サッカー協会が在日本朝鮮人人権協会の協力のもとに(財)日本サッカー協会と(社)日本プロサッカーリーグに対し提出した《プロサッカー選手登録における「在日枠」の拡充に関する要望書》である。
これがいかに理不尽な要求であるか、理解できるだろうか?
現行では「在日枠1チーム1名」を「複数名」にせよ、ようするにもっと在日朝鮮人を雇え、と言っているのである。日本人と同等に扱えと。
現在Jリーグでは、1チームにつき1名の「在日枠」が認められている。サンフレッチェ広島の李漢宰(リ・ハンジェ)、名古屋グランパスの安英学(アン・ヨンハッ)が北朝鮮代表として選出されたことでご存知の方も多いかと思われる。
以前より不思議には思っていた。Jリーグでは1試合に出場できる外国人枠は3名である。しかし、サンフレッチェ広島では、3人のブラジル人選手とともに李漢宰が出場することが多々あった。なぜ李漢宰は外国人扱いされていないのだろう、と。
要するに李漢宰は日本人と同じ扱いを受ける「在日枠選手」だったというわけだ。
これだけでも十分問題だと思うのだが、在日本朝鮮人体育連合会と在日サッカー協会は、日本サッカー協会に対し、さらに枠を広げろと主張し始めたのだ。
はっきり断言するが、これは明らかに理不尽な要求であり、断固として拒絶するべきだ。
もはや不可能だろうが、現行の「在日枠」すら破棄すべきであると考える。
なぜならば、彼らは外国人であるからだ。考えてみれば当たり前の話だろう。北朝鮮代表として日本とも国際戦を戦う選手が、なぜ日本人と同じ扱いでJリーグに所属するのか。
これはJリーグでプレーする他の国籍の外国人選手に対する明らかな差別である。
「日本に住んでいる朝鮮人」は「日本人」ではない。明確に国籍が違うのだ。これは差別ではない。むしろ「在日朝鮮人」選手を他の外国人選手と分けて扱うことが差別なのである。
そもそも彼らの言う「特別永住者」、「永住者」という位置づけからして間違っている。
日本に永住する気があるのならば、まずは日本への帰化を考えるべきであろう。日本で生まれ、日本で育ち、日本で働き、日本で結婚し、生活を営むならば、日本人として日本国籍を取得するのが筋である。そうすれば「在日枠」など関係なしに日本人としてJリーグに所属できるし、その選手に才能あれば日本代表だって夢ではない。
ブラジル出身でありながら日本に帰化して代表入りしたラモス瑠偉や呂比須ワグナー、三都主アレサンドロ、田中マルクス闘莉王(U-23)など前例はあるのだから。
帰化する気がないのであれば、特権を要求する前に韓国なり北朝鮮なりに帰国すればいい。Kリーグでもどこでもサッカーをする環境はあるだろう。
このような身勝手な要求は、逆に差別を助長するのではないか、という懸念が起きる。
Jリーグは日本人の日本人による日本人のためのプロサッカーリーグである。
例えば、スタメンの半数が朝鮮人のJリーグクラブチームが認められるだろうか。たとえ実力があっても、そんなチームが人気を獲得することは考えがたい。同じ程度の実力者ならば日本人を使いたいのが本音だろう。Jリーグの理念は日本サッカーの底上げであり、それは日本代表の強化へとつながっていく。北朝鮮を強くする為ではない。故に、Jリーグで彼らを対等に扱う理由もない。
もし彼らがJリーグでのプレーを求めるのならば、「助っ人外国人」に足る高い能力を見せればいいことだ。それが他国籍選手の存在意義だ。
サッカーの世界でも在日朝鮮人の理不尽な要求が行われるとは、非常に強い不快感を持ってしまう。
Jリーグは確固たる姿勢を持って、この要求を拒絶してほしい。
無理を通せば道理が引っ込む、という事態をサッカーにまで持ち込んでほしくはない。
そういうことを口にすると「差別だ」と騒ぎだす人達や団体がある。その圧力や暴力に屈してはならない。冷静に考えれば分かることだ。これは断じて差別ではない。むしろ、己の都合のいいように「差別」を作り出し、身勝手に解釈し、様々な特権を得ている彼らこそ日本人や他国籍の外国人への差別を行っているのだ。
このようなニュースは人知れず発信され、人知れず進行していく。
私たちはJリーグを守らなければならない。
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プロサッカー選手登録における「在日枠」の拡充に関する要望書
日本サッカー発展のため日々ご尽力されている貴下及び貴団体に敬意を表します。
先程の2006年FIFAワールドカップドイツ大会アジア最終予選を通じて、朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)と日本のサッカー交流が滞りなく行われたことを私たちは大変喜ばしく思っています。
この度、在日Jリーガーである安英学、李漢宰選手が朝鮮代表として出場したことにより、Jリーガー又は国家代表になることを夢見てサッカーに励む子供たちが増えています。私たちはこのような子供たちに少しでも活動の場を広げてあげたいとの思いから本要望書を提出する次第です。
本来「在日枠」の規定は、外国籍であっても「特別永住者」、「永住者」であれば日本人プレーヤと同じ出場の機会を与えようという趣旨だと思われます。
現在、朝鮮学校は「特別永住者」、「永住者」に日本社会に適応できる総合的な学力を備えた人材を育成するための教育を行い、サッカー部に所属する子供たちは小学校のころから 日本学校との定期的な交流試合を盛んに行っています。昨今では高体連主催のスポーツ大会への参加認定、国公立大学及び大学院への受験の道が開かれるなど朝鮮学校を一条校に準ずる処遇を為すべきという考え方が広がりを見せてます。何より日本体育協会は2005年 3月4日の国民体育大会委員会で、外国籍の選手、監督について参加資格を緩和し、「特別永住者」、「永住者」であれば参加を認めることを決定いたしました。
このように朝鮮学校と民族学校・外国人学校を取り巻く環境の変化は、彼らに日本人と同じように活動の場を与えるべきだという認識が広がってきたあらわれだと思います。
以上のことから我々は貴下および貴団体に対し、以下のことを要望する次第です。
1.「在日枠」規定の該当者に、一条校卒業生のみではなく、朝鮮学校をはじめとする
民族学校・外国人学校卒業生も含める。学校単位による認定が難しければ「永住資格を有するもの」又は「一定年数以上日本に居住するもの」と規定する。
2.現在の「1チームにつき1名に限る」を「複数名」とする。
よろしく御検討のほどお願い申し上げます。
在日本朝鮮人蹴球協会 会 長 文 章弘
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これは、5月10日に在日本朝鮮人体育連合会と在日サッカー協会が在日本朝鮮人人権協会の協力のもとに(財)日本サッカー協会と(社)日本プロサッカーリーグに対し提出した《プロサッカー選手登録における「在日枠」の拡充に関する要望書》である。
これがいかに理不尽な要求であるか、理解できるだろうか?
現行では「在日枠1チーム1名」を「複数名」にせよ、ようするにもっと在日朝鮮人を雇え、と言っているのである。日本人と同等に扱えと。
現在Jリーグでは、1チームにつき1名の「在日枠」が認められている。サンフレッチェ広島の李漢宰(リ・ハンジェ)、名古屋グランパスの安英学(アン・ヨンハッ)が北朝鮮代表として選出されたことでご存知の方も多いかと思われる。
以前より不思議には思っていた。Jリーグでは1試合に出場できる外国人枠は3名である。しかし、サンフレッチェ広島では、3人のブラジル人選手とともに李漢宰が出場することが多々あった。なぜ李漢宰は外国人扱いされていないのだろう、と。
要するに李漢宰は日本人と同じ扱いを受ける「在日枠選手」だったというわけだ。
これだけでも十分問題だと思うのだが、在日本朝鮮人体育連合会と在日サッカー協会は、日本サッカー協会に対し、さらに枠を広げろと主張し始めたのだ。
はっきり断言するが、これは明らかに理不尽な要求であり、断固として拒絶するべきだ。
もはや不可能だろうが、現行の「在日枠」すら破棄すべきであると考える。
なぜならば、彼らは外国人であるからだ。考えてみれば当たり前の話だろう。北朝鮮代表として日本とも国際戦を戦う選手が、なぜ日本人と同じ扱いでJリーグに所属するのか。
これはJリーグでプレーする他の国籍の外国人選手に対する明らかな差別である。
「日本に住んでいる朝鮮人」は「日本人」ではない。明確に国籍が違うのだ。これは差別ではない。むしろ「在日朝鮮人」選手を他の外国人選手と分けて扱うことが差別なのである。
そもそも彼らの言う「特別永住者」、「永住者」という位置づけからして間違っている。
日本に永住する気があるのならば、まずは日本への帰化を考えるべきであろう。日本で生まれ、日本で育ち、日本で働き、日本で結婚し、生活を営むならば、日本人として日本国籍を取得するのが筋である。そうすれば「在日枠」など関係なしに日本人としてJリーグに所属できるし、その選手に才能あれば日本代表だって夢ではない。
ブラジル出身でありながら日本に帰化して代表入りしたラモス瑠偉や呂比須ワグナー、三都主アレサンドロ、田中マルクス闘莉王(U-23)など前例はあるのだから。
帰化する気がないのであれば、特権を要求する前に韓国なり北朝鮮なりに帰国すればいい。Kリーグでもどこでもサッカーをする環境はあるだろう。
このような身勝手な要求は、逆に差別を助長するのではないか、という懸念が起きる。
Jリーグは日本人の日本人による日本人のためのプロサッカーリーグである。
例えば、スタメンの半数が朝鮮人のJリーグクラブチームが認められるだろうか。たとえ実力があっても、そんなチームが人気を獲得することは考えがたい。同じ程度の実力者ならば日本人を使いたいのが本音だろう。Jリーグの理念は日本サッカーの底上げであり、それは日本代表の強化へとつながっていく。北朝鮮を強くする為ではない。故に、Jリーグで彼らを対等に扱う理由もない。
もし彼らがJリーグでのプレーを求めるのならば、「助っ人外国人」に足る高い能力を見せればいいことだ。それが他国籍選手の存在意義だ。
サッカーの世界でも在日朝鮮人の理不尽な要求が行われるとは、非常に強い不快感を持ってしまう。
Jリーグは確固たる姿勢を持って、この要求を拒絶してほしい。
無理を通せば道理が引っ込む、という事態をサッカーにまで持ち込んでほしくはない。
そういうことを口にすると「差別だ」と騒ぎだす人達や団体がある。その圧力や暴力に屈してはならない。冷静に考えれば分かることだ。これは断じて差別ではない。むしろ、己の都合のいいように「差別」を作り出し、身勝手に解釈し、様々な特権を得ている彼らこそ日本人や他国籍の外国人への差別を行っているのだ。
このようなニュースは人知れず発信され、人知れず進行していく。
私たちはJリーグを守らなければならない。
Collaboration
昨年、奥田民生が広島市民球場で野外コンサートを開催し、ライトスタンドに自らの広告看板を設置した。
それに続き、先日5月21日、人気デュオ、CHEMISTRYの堂珍嘉邦が、広島市民球場で行われたプロ野球、広島対楽天の始球式に登場した。
堂珍嘉邦は、広島出身で同球場でのアルバイト経験もあり筋金入りのカープファンであり、満員の観衆が見守る中、推定球速100キロの直球を投げ込み、見事、故郷に錦を飾った。
ソロ活動を展開するにあたり、堂珍は迷わずカープとのコラボレーションを選択。「勝てば気分いいし、負ければ気分悪いし。本当に生活の一部」というカープの応援歌「わしを市民球場へ連れてって。」を制作した。
奥田民生はユニコーンの頃より愛聴しているが、ケミストリーを聞こうとは思ったことがなかった。が、このニュース映像を見て、ちょっと応援したくなってしまった。(笑
地方都市広島である限り、野球もサッカーも全国的な影響力は乏しい。サッカーではサンフレッチェ広島が現在2位につけていることや、昨年のU-23代表だった森崎兄弟や駒野などそこそこ有名な選手もいることで注目はあるかもしれないが、広島カープはどこまでいってもマイナーだ。
そこで、こういう全国的な知名度と人気をもつ著名人の動きはありがたい。これだけで、世間の注目は(少しは)広島に注がれるであろう。地元広島カープにための具体的な行動、こういった動きがもっと拡大し加速すれば、きっと広島に大きな恩恵がある。
広島出身の著名人は多い。ミュージシャンや役者に限ってもビッグネームが結構いる。
男性
・奥田民生 ・吉川晃司 ・堂珍喜邦 ・ポルノグラフィティ ・アンガールズ
・西城秀樹 ・崎谷健次郎 ・世良公則 ・浜田省吾 ・矢沢永吉 ・吉田拓郎
女性
・東ちずる ・綾瀬はるか ・泉川 そら ・奥菜 恵 ・柿原朱美 ・国生さゆり
・宍戸留美 ・島谷ひとみ ・高橋真梨子 ・戸田菜穂 ・古川里科 ・玲葉奈
などなど。未確認情報だが、デーモン小暮閣下も広島出身となっていた。真偽は不明だが。
これだけのメンツが揃っているのだから、何か大きなコラボレーションはできないものだろうか?
と好き勝手なことを考えてしまう。
例えば、ミュージシャンなら1人(1組)曲ずつカープの為の曲を書き下ろして、カープ応援アルバムを制作。売上金の一部を新球場建設の為の「たる募金」に寄付する、とか。
奥田民生や矢沢永吉や堂珍喜邦やポルノグラフィティや吉田拓郎や浜田省吾や高橋真梨子や島谷ひとみが一枚に入ったアルバムならかなりのセールスが期待できるのではないだろうか。パッケージには、全員にカープのユニフォームを来てもらってマウンドの上で整列した写真を使用。別に綾瀬はるか単体の写真でもかまわないが。いや、そっちの方がいいか。
これは荒唐無稽な妄想だが、逆にこれくらい派手なことをすれば、否が応でも広島カープへの注目度は高まるだろう。注目されることに慣れていないウブなカープ選手達は逆に取り乱しそうだが。
むろん、世間の注目を集めるのは、まず本業の野球の実力がなくては話にならない。だが、野球だけでは中央に属する圧倒的な世論を引きつけるのには限界がある。地方都市が独自のアイデンティティを全国に発信するために、全国的な影響力を持つ出身者は大きな助けになると期待するのだ。
奥田民生に堂珍嘉邦が続いてくれた。これを地方都市の珍事で終わらせたくはない。
その為にもカープには結果を残してもらわないといけない。結果が伴わないと、アピールはむなしいばかりか、恥にすらなってしまいかねない。
今年は(も)難しいが、いつかカープが優勝したとき、広島出身者が集って大きなコラボレーションが行われる日を夢見ている。
それはただの地方都市の珍事ではなく、中央から地方へ物事がシフトしていく21世紀の日本の象徴となるだろう。
それに続き、先日5月21日、人気デュオ、CHEMISTRYの堂珍嘉邦が、広島市民球場で行われたプロ野球、広島対楽天の始球式に登場した。
堂珍嘉邦は、広島出身で同球場でのアルバイト経験もあり筋金入りのカープファンであり、満員の観衆が見守る中、推定球速100キロの直球を投げ込み、見事、故郷に錦を飾った。
ソロ活動を展開するにあたり、堂珍は迷わずカープとのコラボレーションを選択。「勝てば気分いいし、負ければ気分悪いし。本当に生活の一部」というカープの応援歌「わしを市民球場へ連れてって。」を制作した。
奥田民生はユニコーンの頃より愛聴しているが、ケミストリーを聞こうとは思ったことがなかった。が、このニュース映像を見て、ちょっと応援したくなってしまった。(笑
地方都市広島である限り、野球もサッカーも全国的な影響力は乏しい。サッカーではサンフレッチェ広島が現在2位につけていることや、昨年のU-23代表だった森崎兄弟や駒野などそこそこ有名な選手もいることで注目はあるかもしれないが、広島カープはどこまでいってもマイナーだ。
そこで、こういう全国的な知名度と人気をもつ著名人の動きはありがたい。これだけで、世間の注目は(少しは)広島に注がれるであろう。地元広島カープにための具体的な行動、こういった動きがもっと拡大し加速すれば、きっと広島に大きな恩恵がある。
広島出身の著名人は多い。ミュージシャンや役者に限ってもビッグネームが結構いる。
男性
・奥田民生 ・吉川晃司 ・堂珍喜邦 ・ポルノグラフィティ ・アンガールズ
・西城秀樹 ・崎谷健次郎 ・世良公則 ・浜田省吾 ・矢沢永吉 ・吉田拓郎
女性
・東ちずる ・綾瀬はるか ・泉川 そら ・奥菜 恵 ・柿原朱美 ・国生さゆり
・宍戸留美 ・島谷ひとみ ・高橋真梨子 ・戸田菜穂 ・古川里科 ・玲葉奈
などなど。未確認情報だが、デーモン小暮閣下も広島出身となっていた。真偽は不明だが。
これだけのメンツが揃っているのだから、何か大きなコラボレーションはできないものだろうか?
と好き勝手なことを考えてしまう。
例えば、ミュージシャンなら1人(1組)曲ずつカープの為の曲を書き下ろして、カープ応援アルバムを制作。売上金の一部を新球場建設の為の「たる募金」に寄付する、とか。
奥田民生や矢沢永吉や堂珍喜邦やポルノグラフィティや吉田拓郎や浜田省吾や高橋真梨子や島谷ひとみが一枚に入ったアルバムならかなりのセールスが期待できるのではないだろうか。パッケージには、全員にカープのユニフォームを来てもらってマウンドの上で整列した写真を使用。別に綾瀬はるか単体の写真でもかまわないが。いや、そっちの方がいいか。
これは荒唐無稽な妄想だが、逆にこれくらい派手なことをすれば、否が応でも広島カープへの注目度は高まるだろう。注目されることに慣れていないウブなカープ選手達は逆に取り乱しそうだが。
むろん、世間の注目を集めるのは、まず本業の野球の実力がなくては話にならない。だが、野球だけでは中央に属する圧倒的な世論を引きつけるのには限界がある。地方都市が独自のアイデンティティを全国に発信するために、全国的な影響力を持つ出身者は大きな助けになると期待するのだ。
奥田民生に堂珍嘉邦が続いてくれた。これを地方都市の珍事で終わらせたくはない。
その為にもカープには結果を残してもらわないといけない。結果が伴わないと、アピールはむなしいばかりか、恥にすらなってしまいかねない。
今年は(も)難しいが、いつかカープが優勝したとき、広島出身者が集って大きなコラボレーションが行われる日を夢見ている。
それはただの地方都市の珍事ではなく、中央から地方へ物事がシフトしていく21世紀の日本の象徴となるだろう。
I believe
日本代表のサッカーは退屈だ。
パスの精度・スピードが低く、トラップ技術が甘い。フィジカルが弱く、1対1の局面を打破できない。
日本のサッカーは弱点を克服するため、パスをつなぎボールを動かすサッカーを選んだ。可能な限り1対1のフィジカルのぶつかり合いを避けるサッカーだ。
しかし、パスコースを封じられ、パスの受け手に厳しいプレッシャーを欠けられるとそのサッカーは簡単に破綻した。ペルーの素早く連携の取れたディフェンスに中盤は完全に支配された。
カウンター主体のペルーが日本陣内でボールをまわすという奇妙な光景はそのためだ。
ペルーは2軍以下の若手主体のメンバー構成。彼らに取ってこのキリンカップはW杯予選出場のためのアピールの場でありモチベーションが高かった。南米の強豪とはいえ、ブラジルやアルゼンチン、コロンビアなどに比べるとマイナーなペルーだが、個人能力は高かった。
まずボールキープがうまい。体の入れ方、手の使い方、トラップからパスまでの瞬間速度は非常に
滑らかで無理がない。ボールの扱いも自然な感じだった。
言葉にすると難しいのだが、日本人はいちいち「考えて」パスを出すが、ペルーは「考えなくても」体に染み付いているから自然とパスを出している、そんな印象だ。本能的、感覚的とでも言おうか。
このキリンカップは6月3日のバーレーン戦、8日の北朝鮮戦に向けてのテストマッチなのだから勝敗はそこまで重要視しなくてよい。むしろチームの熟成度、戦術の徹底などを評価するべきなのだが、正直不満の残る内容だったのではないか。ドイツへ向かう道に、暗雲が立ち込めたような気がする。内容の薄い、退屈な試合だった。
サッカーは相手のゴールを陥れる為に何をするか、に尽きる。ディフェンスラインで丁寧にボールをまわしても試合には勝てないし、見てる側も興奮しない。この試合、攻撃が全く機能していなかった。点を取る為に、どういう方法で攻撃を仕掛けるのか、得点の匂いのしないゲームだった。
いざマイボールになってもペルーに素早く守りを固められる。中盤のパスコースを消され、ボールを持った選手がすぐに2人3人に囲まれボールを失う。セカンドボールはことごとく制圧され厚みのある攻撃ができない。中途半端な縦パス、横パスはあっさりカットされ主導権を奪われる。
テレビ解説の武田修宏か北澤豪のいずれかが「ペルーには、ここにくるな、と予測できるような安易なパスは通用しない。」と言っていたがまさにその通りだった。ペルーDFはしっかり日本のFWをマークしているから、くさびのパスがことごとくカットされた。くさびがキレイに入らないと日本は中盤で前を向いてボールを持てない。そこにMFが2人3人がかりでプレスにくるからボールキープも出来ない。
ペルーに強力なMFかFWがいたら、もっと一方的な試合になったかもしれない。パッと見は膠着した凡庸な試合だったが、ゲームのリズムでは完全に後手に回ってしまったように見える。
肝心なのはボールを持っていない時の動きになる。ボールを受け取る地点が見え透いていれば、簡単にマークされてしまう。いかに相手のマークをはずしてボールを受けるか、がポイントになるのだが、そういったプレーは見られなかった。
とにもかくにも「調整試合」以上の意気込みは伝わってこなかった。勝っても負けてもいいや、という必死さの欠けたダラダラした試合だったように思う。それは非難するつもりはない。事実「調整試合」なのだから。キリンカップに優勝してもW杯に行けるわけではない。
最も問題に感じるのは全く得点の気配がしなかったことだ。得点力不足が日本の最大の弱点とされるが、いっこうに改善が見られないのはどうしてだろう。勝っても負けてもいい試合なら、リスクを冒してでもアタックを仕掛けてほしかった。真剣勝負ではディフェンスが鍵だから、このペルー戦もまず「失点しない」ことが最重要課題だったのは分かる。しかし、0-0では勝ち点は1しか入らない。それでロスタイムに失点して敗れたのだから目も当てられないではないか。
どういう形で点を取るのか、行き当たりばったりで、チームとしての基本戦術が未だに見えてこない。今の日本では直接FK以外の得点の予感はない。セットプレイは重要な武器だが、それに頼るのは戦術とは呼ばない。
唯一の光は右サイドで先発した三浦淳宏が機能していたことだろうか。左右両足を使える三浦ならば、右サイドを突破してクロスも上げられるし、切り返して左足でシュートも打てる。独自の無回転シュートやフリーキックはオプションとして効果的だ。加地しかいない右サイドの人的不足は致命的だが、三浦淳宏が使えるならば、一応の不安は取り除けたと言っていい。
海外組のいない日本では今日がベストメンバーのはずだ。そのベストメンバーでこの内容ではお寒い限りだ。これで海外組が合流すればまたスタメンはガラリと替わるのだろう。海外組は合流してから試合までの時間がきわめて少ないから、チームの熟成はますます困難になる。
チームとしての軸になる戦術が確固としていれば、選手が代わってもある程度機能するのだろうが、選手個々の発想と能力に頼るジーコジャパンは未だその軸を手に入れていない。
日本代表には怪我人が続出している。中沢に加地、そして高原までも怪我をしてしまった。
バーレーン戦、北朝鮮戦まで残された時間は少ない。テストマッチはUAE戦のみだ。
この期に及んでじたばたしても仕方がない。先行きは非常に不安だが、我々に出来ることはただ一つ。
信じることだけだ。
パスの精度・スピードが低く、トラップ技術が甘い。フィジカルが弱く、1対1の局面を打破できない。
日本のサッカーは弱点を克服するため、パスをつなぎボールを動かすサッカーを選んだ。可能な限り1対1のフィジカルのぶつかり合いを避けるサッカーだ。
しかし、パスコースを封じられ、パスの受け手に厳しいプレッシャーを欠けられるとそのサッカーは簡単に破綻した。ペルーの素早く連携の取れたディフェンスに中盤は完全に支配された。
カウンター主体のペルーが日本陣内でボールをまわすという奇妙な光景はそのためだ。
ペルーは2軍以下の若手主体のメンバー構成。彼らに取ってこのキリンカップはW杯予選出場のためのアピールの場でありモチベーションが高かった。南米の強豪とはいえ、ブラジルやアルゼンチン、コロンビアなどに比べるとマイナーなペルーだが、個人能力は高かった。
まずボールキープがうまい。体の入れ方、手の使い方、トラップからパスまでの瞬間速度は非常に
滑らかで無理がない。ボールの扱いも自然な感じだった。
言葉にすると難しいのだが、日本人はいちいち「考えて」パスを出すが、ペルーは「考えなくても」体に染み付いているから自然とパスを出している、そんな印象だ。本能的、感覚的とでも言おうか。
このキリンカップは6月3日のバーレーン戦、8日の北朝鮮戦に向けてのテストマッチなのだから勝敗はそこまで重要視しなくてよい。むしろチームの熟成度、戦術の徹底などを評価するべきなのだが、正直不満の残る内容だったのではないか。ドイツへ向かう道に、暗雲が立ち込めたような気がする。内容の薄い、退屈な試合だった。
サッカーは相手のゴールを陥れる為に何をするか、に尽きる。ディフェンスラインで丁寧にボールをまわしても試合には勝てないし、見てる側も興奮しない。この試合、攻撃が全く機能していなかった。点を取る為に、どういう方法で攻撃を仕掛けるのか、得点の匂いのしないゲームだった。
いざマイボールになってもペルーに素早く守りを固められる。中盤のパスコースを消され、ボールを持った選手がすぐに2人3人に囲まれボールを失う。セカンドボールはことごとく制圧され厚みのある攻撃ができない。中途半端な縦パス、横パスはあっさりカットされ主導権を奪われる。
テレビ解説の武田修宏か北澤豪のいずれかが「ペルーには、ここにくるな、と予測できるような安易なパスは通用しない。」と言っていたがまさにその通りだった。ペルーDFはしっかり日本のFWをマークしているから、くさびのパスがことごとくカットされた。くさびがキレイに入らないと日本は中盤で前を向いてボールを持てない。そこにMFが2人3人がかりでプレスにくるからボールキープも出来ない。
ペルーに強力なMFかFWがいたら、もっと一方的な試合になったかもしれない。パッと見は膠着した凡庸な試合だったが、ゲームのリズムでは完全に後手に回ってしまったように見える。
肝心なのはボールを持っていない時の動きになる。ボールを受け取る地点が見え透いていれば、簡単にマークされてしまう。いかに相手のマークをはずしてボールを受けるか、がポイントになるのだが、そういったプレーは見られなかった。
とにもかくにも「調整試合」以上の意気込みは伝わってこなかった。勝っても負けてもいいや、という必死さの欠けたダラダラした試合だったように思う。それは非難するつもりはない。事実「調整試合」なのだから。キリンカップに優勝してもW杯に行けるわけではない。
最も問題に感じるのは全く得点の気配がしなかったことだ。得点力不足が日本の最大の弱点とされるが、いっこうに改善が見られないのはどうしてだろう。勝っても負けてもいい試合なら、リスクを冒してでもアタックを仕掛けてほしかった。真剣勝負ではディフェンスが鍵だから、このペルー戦もまず「失点しない」ことが最重要課題だったのは分かる。しかし、0-0では勝ち点は1しか入らない。それでロスタイムに失点して敗れたのだから目も当てられないではないか。
どういう形で点を取るのか、行き当たりばったりで、チームとしての基本戦術が未だに見えてこない。今の日本では直接FK以外の得点の予感はない。セットプレイは重要な武器だが、それに頼るのは戦術とは呼ばない。
唯一の光は右サイドで先発した三浦淳宏が機能していたことだろうか。左右両足を使える三浦ならば、右サイドを突破してクロスも上げられるし、切り返して左足でシュートも打てる。独自の無回転シュートやフリーキックはオプションとして効果的だ。加地しかいない右サイドの人的不足は致命的だが、三浦淳宏が使えるならば、一応の不安は取り除けたと言っていい。
海外組のいない日本では今日がベストメンバーのはずだ。そのベストメンバーでこの内容ではお寒い限りだ。これで海外組が合流すればまたスタメンはガラリと替わるのだろう。海外組は合流してから試合までの時間がきわめて少ないから、チームの熟成はますます困難になる。
チームとしての軸になる戦術が確固としていれば、選手が代わってもある程度機能するのだろうが、選手個々の発想と能力に頼るジーコジャパンは未だその軸を手に入れていない。
日本代表には怪我人が続出している。中沢に加地、そして高原までも怪我をしてしまった。
バーレーン戦、北朝鮮戦まで残された時間は少ない。テストマッチはUAE戦のみだ。
この期に及んでじたばたしても仕方がない。先行きは非常に不安だが、我々に出来ることはただ一つ。
信じることだけだ。