奇跡の贈り物を授かった元プロ投手

小学校3年生の時、野球と出会い、その魅力にとりつかれプロ野球選手になることを決めた。投げること、振ること、走る事を数多く行うだけが夢を実現する方法だと信じ、日々、大量のトレーニングを行った。やがて最高時には125mを超える遠投力、50m5秒台の走力、最高飛距離140mの打力を身につけ、プロへの夢が現実のものとなった・・・・・・つづきはこちら



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「特異」の中にも分析し、法則性からスタンスを知る

一般的法則性というものからは逸脱しているような私の人生ですが

あえて、法則性を探すために振り返ってみると

 

「フリーズ」の期間を経て、爆発的に開花する場面がある

 

というような事が何度かあり

 

たとえば、野球だけでも

 

ルールによって、出場できない期間が長くあるが、機会が訪れ、その環境では歴史的な事を成し遂げたり

野手として潜在能力を発揮するようになる

(高校時代や、プロから離れた後)

 

プロ入りまで、紆余曲折、他にはない試練と期間を経て

ようやく入団となる

 

合理的な動作を追究し、15年以上を経て、その理論が与えられる時に、一気にわかりはじめ

書き留めて著書も出せる状態になる

 

指導できない期間が長期にわたり、その後機会が訪れる

 

長期にわたる肩のリハビリを経て、硬式社会人野球の国際親善試合で1イニング登板を果たす

 

新型ウイルス問題発生前の数年、金属バットではあるが、打球速度推定170キロ、180キロは当たり前という打撃の領域に

達する

 

仕事に関しても

 

プロ野球から離れ、何をすればよいかを模索し続け、フリーター、専門学校、その他を

経験し、新聞広告の企業に契約社員業務委託で採用になり、異例の正社員登用となる

 

独立起業し、特殊な珈琲マシンを使った仕事が、数年後から順調になっていくものの

マシンのメーカー倒産とともに、コーヒー事業が消滅

 

その後、手探りをする中で、混猿の基礎の基礎である、市場拡大サポートで

某企業株式上場のサポートとなる、ヒット商品の企画提案で実績

 

その後も手探りが長期

 

水事業を頼まれ、二名代表制で、着手するものの、設備を作る段取りやブランディングまでやるが

たいへん残念な形で外れる事に(時間、労力など全て無駄に)

 

京屋きよやす という 合同企画焼酎を全国へ

しかし、10年以上を経て、酒造元が売却でブランド消滅

 

滞りの時期を経て、大きな案件が決まり、動き始めて3か月ほどで、新型ウイルス問題発生で

全て消滅

 

その後、様々なストレス蓄積で激痛と不自由の試練

 

二度とスムーズに動けないと覚悟する状態から、治療とリハビリなどで回復方向

急に全国的規模の企業間のサポート、市場拡大を主とする「コンサル」への道が

できはじめ

 

新たなチャンスが訪れ始める

 

ざっと、このような感じ。

 

基本的には、「すでにあるもの」の中で、というよりは

 

自らの特異な感性や感覚を活かして

「新たな事を成す」「新たな事を作り出す」「新たな仕組み作りのための企画を行い発信する」

 

ここが、自らの持つものが活かせるところで、そこにスタンスする事と

パターンは一般的はあてはまらないので

 

「中に入りすぎず、少し距離があるところから並走する形で全体を活性化する」(時々入る形)

 

(もしかすると社外取締役や、複数の企業新規事業における分野に

かかわる等もあるか)

 

こういう感じではないか、今頃になって(笑)

そう分析できるようになってきました。

 

さあ、これからどうなっていくでしょう。

 

 

 

 

 

「愛」と「AI」とアチラとコチラと救いと 「かもしれない」「けれども」と 2

あくまでも「かもしれない」というお話の続き

しかし「けれども」というお話です。

 

以下は

2025年10月14日(火)のブログです。

 

2024年7月15日ブログ

①

「今日は法事でした。

久々に従兄弟たちと会食も。

 

なぜコチラがあるのか

 

なぜアチラに行くのか

 

それらにはどのような意味が

 

明確な回答が得られない疑問がありますが

そこへのアプローチをやっても無駄とやらなかったり、全てを諦めるケースも

あるのでしょう。

 

明確な回答が得られないまま、幕を閉じるようにはなっているものの

コチラでの法則性のようなものを辿っていくと

 

もしかするとこうなのかもしれない

 

あるいは

 

こうである可能性はある

 

あるいは

 

このような感じであろうから、コチラではこうすべきだ

 

などなど

 

結論まではいかないくとも、なんとなく、勝手な解釈ではなく

一定程度の法則性には近づくのかもしれません。

 

コチラとアチラは関連性がない

事は、少なくともない可能性が高そうですし

 

アチラがない

 

可能性もない事はないかもしれないけれども、どのようなところか、どういう現象の中にいくのか

それはわからなくとも、ある可能性も大いにあるのでしょうし

 

少なくとも、コチラは、それぞれに与えられた時間内で、去らねばならない事は間違いなく

 

去っていくならば、行先があるのか、全く何もないのかのいずれかでしょうから

アチラとは、少なくとも2分の1の確率以上で存在するとも言えるのでしょう。

 

であるならば、ある場合に備えるのと備えないのでは、違いがあるのかもしれませんし

 

少なくとも、全ての不安が解消されるわけではなくとも、余計な不安は消滅したり、軽くなったり

する可能性はあるのでしょう。

 

私が、現在の時点で

 

甘えなき委ね

 

の境地のようなものにいるような気がする事は大事な事かもしれませんし

 

このブログ内で書いた事がありますが

 

魂の手術のようなものが、全ての存在に待ち受けていて

あるケースは、地獄のような苦しい手術で時間もなかなか終わらない

あるケースは、天の麻酔によって、痛みも苦しみも感じる事がほとんどなくアチラへ

くぐらせていただく事があるのかもしれませんし

 

全ての存在が、これによって、アチラへくぐらせてはいただけるけれども

 

そこでゴールとも限らない、、、。

 

そうなると、コチラでの法則性は、一定程度しっかりと考えて、感じて

アチラへの備えを全くしないよりは、どんどんやった方が良いかもしれませんし

 

人の力だけではどうしようもない物事がある事は明らかなので

 

そこへ向けて、せめて、甘えなき委ねができるように

 

そして、幼子の心の世界のように、澄み渡った状態でいられるように

余計な屈折をせず、快いものを身にまとえるようになり、それを伝える事ができたり

その流れが大きくなる仕組みへのアプローチを行なったり、目の前の「他」への

愛を含んだ思いや行動の度合いを進化させたり

 

いろいろと、やらないよりは、やって方が良い事も

多々どころか、大いに多々あるのかもしれません。

 

目を背けるわけにはいかない事から、目を背けがちな人間。

 

アチラとコチラを中心として、いろいろと考えてみる今日でした。」

 

 

2025年1月1日ブログ

②

 

「いつの間にか、2025年がやってきました。

 

まだ、コチラでやる事がいくつもあるかもしれません。

 

プロの仙人 に なりつつあるのでは

 

というような人生の流れでしたが、もしかすると、まだ

人間として、コチラらしい生き方をするために

時間を過ごすのかもしれません。

 

コチラの時間は限定されており

アチラへシフトした生き方を主に考えていた時期もありましたが

今は、そこをあえてコチラにシフト。

 

コチラで生きている事も間違いないわけですから

あっという間になくなるとはいえ

 

コチラはコチラ。

 

コチラで生きている自分と、見えない無数の管で、アチラで養成されている

アチラの新たな自分の母体となるかのような、さなぎのような、モスラのさなぎのような中に

見えない体が、コチラでの人生の、愛や感動や、美しいものを中心とした栄養をとりながら

 

汚された心、反応、屈折らを拒否しようとしているところに

それを送り込まなくて良いように、日々リセットや、感謝などが必要なのかもしれませんし

意外にも無関係かもしれません。

 

しかし、何度かブログでも書いたように

 

人はコチラ終了後、アチラへ行く可能性は低くはなく

 

アチラはコチラとは、因果関係にある可能性も低くはなく

 

アチラへ浄化されるための、ゴッドハンドによる魂の手術

 

これを経ないと、何者も浄化され、アチラへの門をくぐる事は困難で

それが、甘えなき委ね に よって、魂の麻酔がきいている間に浄化手術が行われ

あっという間にアチラへの門をくぐれたり

 

あるいは、なかなか麻酔もきかず、あるいは麻酔がないかのような状態で

屈折した魂を恐ろしい痛みや苦しみを超長時間伴う、ケースによっては永遠かのように味わう事になる

手術がないとも限らないわけですし

 

であれば、コチラとアチラの因果関係を「想定」できる範囲では「想定」を全くしないという

そのような事はない方が良い可能性は低くはないとも思われます。

 

人は自らの力だけではアチラへの門を「スムーズ」にくぐる事はできない

可能性は低くはなく

 

あまりにも傲慢で、愛のない、血が通わないような事や、利己主義に走りすぎると

それはどう考えても、良い事とは言い難く、だからどうなるとは言えませんが

そうなる可能性も低くはないとも言えるのかもしれません。

 

アチラへ行った事は、まだなさそうなので

何とも言えないところではありますが

 

コチラへの誕生に関してすら

その前の環境や条件は多分に影響し、因果関係は「ある」わけですから

 

また、人生においても、「今」は「その前」の蓄積で、相当な影響を受けるわけで

因果関係は「ある」わけですから

 

あくまでも確率や可能性として考えただけでも

低くはない

と感じています。

 

コチラでの生き方として、コチラの時間を過ごす

けれども

 

アチラは切り離せないものでもある可能性は、低くはない

わけですから

 

そのような感じで引き続き、進みましょう。」

 

2025年7月18日ブログ

③

 

「人の中には、ある事がきっかけで

あってはならない事に手を染めたり、良からぬ反応が出たり、行動に出る

 

「可能性」という「種」は

 

小さかろうと、心の地中に埋まっていようと、植え付けられているもの

 

と、捉えて間違いないと言ってよいのでしょうが

 

それが「よろしくない反応」や「行動」にならないように

自らのコントロールや、環境を整える事や、条件を整える事に

あり

 

そのような「危険性」を伴う条件に近づかないようにする事などが

大事になってくるのでしょう。

 

「何かのはずみに」

 

これが恐ろしい事で、種から「よろしくない」芽が出て、よろしくない方向へ

 

という事になるのでしょう。

 

これは、生活環境の影響も大きいでしょうし、遺伝子にも影響がないとも言い切れませんし

それらが起こって「良い」事は何もない

とも言えるでしょうから

 

人はそことの向き合い方も難しく、たいへん重要で

 

「自分は大丈夫」というくらいに思える方が良いとは思いますが

 

「種」が植え付けられている事と「反応」する可能性がある「好ましくない機会」が

訪れる可能性がある事は

 

十分にわかっていないといけないという事なのでしょう。

 

人は「何かを経る事によって」なのかはわかりませんが

アチラなのか、コチラからアチラに行く際なのか、わかりませんが

 

全て何らかの形で「救われる」べき、そうあってほしい

 

と、自分を含めてそう思いますが

 

そこはベールに包まれ、明らかになる部分ではないのでしょう。

 

某ご住職に法事の際に

 

「人は指パッチンという感じで、コチラからアチラに行く瞬間に

仏となり、極楽浄土へ。」

 

と、言うようなお話があった際に

 

「人はどんなに他を苦しめ、恐ろしい事を続けても

指パッチンでそうなるでしょうか?

 

人は全て救われるべきとは願ってはいますが、そうはいかず

「天の手術」

という、あるケースによってはそれが「地獄のように痛く、苦しく、長く、終わらないかのよう」なものであったり

あるケースではそれが「ゴッドハンド」による「麻酔」がきいているかのように、スムーズに行われ

まるで指パッチンのようであり

 

「何かを経て」何らかの形でそうなっていくという事を考えているのですが。」

 

とお伝えしたところ、立場上(笑)

その通りとは言えないのでしょうが、目を大きく開かれて

 

「なるほど!

ゴッドハンドによる手術ですね!」

 

と、新しい、本当の事に近いものを知ったかのようなお顔をされ

ニンマリと私を見られた事があります。

 

あくまでも!

たとえですが

 

人の植え付けられた種が、あらゆるケースで反応、行動として

よろしくない形となり、それが自身を覆っている、あるいは、くっついた状態で

それ全体が

 

アチラへ行く際の 「体」のようなもの であるとしたら

 

おそらく、天の手術で、それを全て取り除く作業が必要不可避で

 

あるケースではほとんどそれに覆われてしまい、極めて大きな大きな目を隠したくなるような手術であったり

あるケースでは、その部分を切り取り、切り取りと、これまた目を隠したくなるような手術であったり

あるケースでは、手術を受ける前に「麻酔手形」のような形で、天の麻酔を受けた上で手術がスムーズに

行なわれたり

 

手術後の アチラへ行く際の 「体」 のようなものが、極めて健康的で立派な形で

アチラでの活動でも、素晴らしいポジションで動きやすく、そこにふさわしい状態で

進化の条件に入る事ができたり

 

そうではなく、ほとんどが長い長い長い苦しい苦しい痛い痛い手術で切り取られ

アチラという素晴らしい世界にもかかわらず、想定外に(元々全て想定外ではあるが(笑))

 

違う形で、なるほどここかというポジションとなりながら

また新たな進化の条件で、進むにもハンディとは言いませんが

 

そういう事かというものが与えられて、やっとの思いで救われるかもしれませんし

 

それはもちろんわかりません。

 

しかし

法則性のようなものをコチラでつたっていっても、考え、辿っていっても

「可能性」としては否定できない

 

どころか、そのままそうとは言えませんが

 

可能性大いにあり

 

とも考えられるかなとも思います。

 

あくまでもこれでも「最高に救われるための甘い条件」ではなかろうかと。

 

それだけ、指パッチンに至るまでの道のりは

 

ないかもしれないくらいに、実は難しく

 

しかし!

 

甘えなき委ね というスタンス「等」で、麻酔を受けられるために

スムーズな手術であるように、また、救われるように

 

その方向を向いていく事は、必要条件に「なるのかもしれません」し

そうではないかもしれません。

 

全てのよろしくない「反応」「行動」、起こってしまう悲しみ、苦しみとは

人の力ではなく最終的には超越するもので

 

精算していただける可能性はない事はない

かもしれませんし

 

そうであるならば、どのような事を経てでも

全て超越された形で精算され、どのような形ででも

 

「救い」に至りたい、全て救われてほしい

 

そうは思っています。

 

一時的なものに走ると、その次元ではない事が待っている事も

可能性としては否定は全くできない

 

という事も言えるのでしょう。

 

近日、法事がまたあるという事もあるのか

 

ついつい、ブログにこのような事まで書いてしまいました。

 

あくまでも可能性

「かもしれない」

というお話です。」

 

 

「愛」と「AI」とアチラとコチラと救いと 「かもしれない」「けれども」と

「AIが人類を滅ぼす」

 

という話題が最近は激増していますが、そのような事は、AI誕生時から私のようなど素人でも想定している事

なので、さほど驚く事ではないですが、本当に起これば驚くでしょう。

 

このブログ内でも、何度も書かせていただいているように、「AI」は、「完全である神は愛である」という事が言われていますが

その愛である神から創造された人間が作りだした「AI」

 

なんとも皮肉で、「愛」から作り出された人間は、自ら作り出した「AI」によって、人類滅亡の危機を作り出している

という事。

 

Aiは、AIによる世界中の様々な細かな情報を集約しながら、想像を絶する速度で進化していく

 

これは、ある意味「愛」である「神」の世界を人間的に想像できる範囲で例えるならば

過去から現在、未来までの全ての人間を通した、あるいは、人間を通さない全ての情報が集権的に

「AI」ではなく「神である愛」のもとへ届きながら

 

次から次へと、その情報や環境条件やDNAなどを基に、新たな存在や条件が産み出されていく

 

それらを繰り返しながら、「人間」という、過去から現在から未来から、全ての人間の総合体のような

ものを、継承、補完、あらゆるつながりによって進化をDNAマークのように、無限マークのように

スパイラルしながら繰り返し

 

あらゆる情報が集まる「愛である神」のもとで、その距離に近づくかのように進化を繰り返し

しかし、決して近づく事はなく、同化する事もなく、しかし、双方が無限に進化していくかのように

 

そこにある幸福感のようなものも、とても想像できない状態へ拡大を続けていく

 

その逆は、どのような形かはわからないけれども、「魂の手術」のようなものや、浄化作業を経る事で

燃やされるかのように消滅するのか

 

裏、闇の世界が別に作られ、そこで、同じように「逆の進化」を繰り返し、苦痛は大きくなるのか

 

神は「愛である」ゆえに、おそらく、何らかの形で、その逆は、ゴッドハンドのようなもので

綺麗な状態に「掃除」「完璧な手術」が行われるのであろうと

 

そのような感じで受け止めています。

 

「人間」もつながっており、近い関係性が近い位置のようなところでつながり、それは一方向ではなく

無数の方向でつながり

 

「完全である神であり愛」から受ける 「愛のエネルギーのようなもの」が

キリストなのか仏なのか、それを中心に近い、様々なところへ送り届ける位置となるようなものが

もしもあるのならば、それらを経て

 

そして、あらゆるところを経由しながら、つながりながら、伝わっていくかのような

血管のような

 

こうして、「何か」が、ある部分には「強く」「大きく」かのように

端に位置すればするほど、それは鈍化するものの、それでもエネルギーは伝わり、受ける事ができ

 

それを「救い」と呼んだり、「永遠の幸福」と呼んだり、それらの世界が「極楽浄土」や「天国」の

ようなものなのかもしれません。

 

しかし

 

人は全て、「救われるためのもととなる」造語で違う意味での表現をするならば「原体」を持ち合わせているものの

 

コチラでの様々な条件、環境などなどで、屈折した状態のものへ変化したり、「原罪」と呼ばれるかのようなものが

反応をして、望ましくないものがへばりついたり、変形を繰り返してしまう一方で、それらによって

「原体」が、それらが取り除かれたり、歪みが矯正される「ゴッドハンドによる手術」のようなものを

経た時から、コチラを経る前以上の、ある意味進化、そのようなものへ変換され「救い」のような

ポジションで移行となるのかもしれません。

 

人は自らの力で救われるのではなく、「原体」の状態になるための「魂の手術」「ゴッドハンドによる浄化」

のようなものを経て(それがそれぞれで、永遠かのように苦しいものかもしれないし、麻酔がかかったように

指パッチンの間に手術は完璧に行われ、苦しみも痛みも感じないかもしれないし

 

そこは「隠されている」けれども

 

コチラでの「法則性」などから「推測しながら」

 

進むべき進み方をできる事が望ましいのでしょうし、捉え方もそうであるでしょうし

そうではない場合には、そこはそれなりの「矯正」の機会がある

 

という可能性が大きい事は間違いないのでしょうから

 

舐めた生き方はすべきではないのでしょうし、そこから目を背ける事は決して

勧められる事ではないと言えるのでしょう。

 

あくまでも「かもしれない」という事「ではあるけれども」という話です。

 

 

以下は過2026年4月、2025年10月、2024年などのブログから抜粋したものです。

 

29日 

 

「最近はまた、SNS上でのなりすまし詐欺や

詐欺メールが激増しています。

 

このままであれば、これからももっと増える事でしょう。

 

何度かブログでも書いたかとは思いますが、

詐欺は

 

大罪です。

 

被害者は一時的ではなく 「継続的な大ダメージ」を受け、ケースによっては機能が

破壊されます。

 

その家族や身近な人への影響も多大で、それも同じく「継続的な大ダメージ」となる事も

多々あります。

 

その「大きな大きな大きな痛み」に対して「麻痺」し

 

自らの「快楽追求」のために、次々と人を苦しみのどん底へ突き落としながら

自らは逃げ隠れを続ける、、、

 

「人」は、何らかの形で、コチラからアチラへ行くタイミングなのか

 

「その狭間」での「予測不能の機会を経て」なのか

 

全て救われる方向へ、自らの力ではなく、全ての源の力のような形によって

導かれるものであろう

 

と思います 「が」

 

コチラの世界ですら、何かを目標に進み、そこへ到達するのは「困難」であるのに

 

本当の救いという究極の目標が、「死」というタイミングで

はたして、簡単に転がり込んでくるのでしょうか?

 

であれば、なんでもあり

 

になってしまい、コチラでメッセージされている「法則性」であったり

 

「人」の根幹に植え付けていただいている 本当に健全で快いものへのまっすぐな反応 

とは、何の意味を持つのか

 

「魂の手術」のようなもの

 

コチラからアチラというものがあり、そこへ行ける場合には

それを経ていかねばならない

 

幼な子のように、まっすぐで綺麗な状態に ゴッドハンドのようなもので

魂の手術によって「整えられて」

 

初めて、次のアチラ(アチラが最後とは限らない、次の次のアチラやその次がある可能性も)

に行ける

 

と考える方が、「どう考えても」矛盾は減る、、、

 

アチラへ入れない条件がたくさんこびりついたり、屈折した形のままでは

コチラの世界で良いお店に入る時ですら断られる、入れないのに

 

「入れるはずがない」

 

と考える方が、矛盾はないのでしょう。

 

その「魂の手術」のようなものが、実は想像もできないものであり

 

今、そんなものと目を背けたり、理解しようとすらしていない

 

詐欺行為であったり、人に対して苦しめ続けるような行為であったり

それらを「改心」なく、続けて、ほくそ笑み続けていたとしたら、、、

 

削られたり、いびつな形を整える 作業

 

これが、もしかすると永遠かのように続く苦しみ、叫び、痛みを伴う

もの「かも」しれませんし

 

一時的快楽とは、くらべものにならないものが

待ち受けている可能性は

 

「低くはない」どころか

 

という方が、矛盾はないのかもしれません。

 

しかし、そうであったとしても

絶対に味わいたくないものを経た数千年後なのかはわかりませんが

 

小さく小さく、ほんのわずかの姿でも、アチラに行くにふさわしい状態に

すべての源によって「整えられる」

 

と、いいな

 

と思っています。

 

コチラにいるうちに、「甘えなき委ね」

 

自らの力では及ばないところを、可能な限り ずれが少ない形で見つめ

救いへの導きを、コチラでのあらゆる目的達成や、願望よりもはるかに

願いながら

 

自ら完全になれる事はないとしても、整えていただく事であったり

 

「魂の手術」のような時には「ゴッドハンドのようなものによる麻酔」を

かけていただき

 

「特例」によって、まるで あっという間に苦痛を感じず それを終え

整えられ

 

次へ行けるように

 

あらゆる宗教というものを、ある意味超越し、ある意味合致し

 

そのような感じで捉えていた方が「矛盾」は少なそうです。

 

「詐欺」などの大罪は 「人」にこびりついたり、いびつな形状となる事で

生じてしまう事。

 

「人」そのものが、これによって 永遠に救われず、ずっと地獄のような苦しみを

味わい続ける

 

「まったく救われない」

 

という事ではなく、それらを切り離したり、整えたり、それによって多大な苦痛を与えられた方々から

発信されたものなどを「数百倍以上に背負い、感じ取り続ける機会」などを

 

想像を絶する、終わりがないのではというような時間のような時を経て

 

「ようやく」ほんのわずかな状態となってでも 「整えられ」

 

「人」そのもの としては 「必ず救われてほしい」

 

そういうような事であれば、そうあってほしいと本当に思います「が」

 

個人的に「詐欺」というものそのものなど、大罪と言われるもの

は焼き尽くされてほしいほど、完全に消滅してほしいです。

 

(あくまでもここで語る事は

「可能性」という事で、法則性や

様々な宗教で伝えられている事

などから考えると、こう捉える事は

「矛盾はない」と感じている事です。)」

 

 

「「ガウディ建築のサグラダファミリアの事を

ふと考えていました。

 

「補完作業」の継承によって、その作品の完成に向かう

 

一つの大きな例です。

 

「プロ野球」の世界に入る事を目指して、小学校3年生からの「決意」「決定」を

全く変更する事などなく、プロを目指す野球環境や条件としては、最悪の部類に

入る、圧倒的最悪の条件下で

 

「強い思いの継続」によって、非合理的な条件を超越して

それは成された、、、

 

「けれども」

 

明らかに不足していたものによって、致命的な肩の故障や

プロでの「機会」を得る事なく、その世界から

退く事になった、、、

 

その後、何度も打者としてプロ入りを目指そうと考えるも、再度入るための環境や条件は全く

整わず、肩の故障も治る事なく

 

「何が不足しているのか」「いたのか」

 

一流選手に共通する、隠された合理的共通動作を追究し続ける事に。

 

そして、プロから離れて約15年後に、その「第一の答え」が、ある日

急に与えられ、一晩でそれを書き留め、理論家し、著書を出版する事となった、、、。

 

自分自身にとって

 

「これが必要であった」「これさえあれば」

 

の最も重要な「第一の答え」であり、野球界に当時存在していなかったものであり

野球界において、貢献できるものとなると確信

 

確実に、理論や、合理的な考えでの環境作り、条件作りの必要性も

浸透、広がっていく社会となっていき

 

ほんの一部でも、お役に立てているという事に加えて

 

自らの「野球の投打における動き」において、大きなものとなっています。

 

激痛と不自由になる前に、この年齢で

金属バットではありますが、バックスクリーンにライナーで連発できる打球を飛ばせ

推定180キロクラスの打球は当たり前というほどに。

 

かつ、ジャストミートの確率も驚くほど上がり、数か月ボールを見ていなかったり

1,2年、人が投げるボールを打っていないにもかかわらず、すぐに対応できるようになっていた、、、。

 

ボールを持って投げると、もう、小学生クラスのボールしかいきませんが

腕の振りは、150キロクラスに相当するのではというものが可能となり

 

8年ほど前には、最速130キロ近いボールを投げれるほどに回復し

社会人硬式野球の、他国との親善試合に1イニング登板を果たし

 

打者4人を無安打、1失策による出塁、1三振

 

で、マウンドを降り、その後また肩の痛みで

このようなボールまでは投げれなくなりましたが

 

追究を続けて与えられた贈り物は、私個人と野球界にとって

必要なものとなっている事は、感謝感謝の思いです。

 

プロから離れて、何の仕事をして良いかわからず

模索模索、、、そして、いくつもの仕事をやってきましたが

 

「これ」というものに絞れる事ができない、、、

 

「プロ野球」というものへの思いが、あまりにも強く大きいため

「反応しない」感覚となっている

 

「けれども」

 

与えられる機会においては、しっかりと、気持ちを入れてすべての仕事と向き合っている、、、。

 

「つまり」

 

「プロ野球」という一つの「夢」「目標」「達成すべきもの」が、ある部分は達成されながらも

「未達」で終わっている事への「強烈な思い」

 

これが、ずっと残っているからこそ

 

共通動作論という「第一の答え」が与えられる事につながり

更には追究を続け

 

共通動作進化論という「第一の答え」の「先」を与えられる事になっている、、、。

 

築き上げられていない「達成すべきもの」に対しての

 

「補完作業」

 

を、ずっと続けており、それが「感覚」の中では、ある意味、まだ優先され続けている

 

という事が言えるのでしょう。

 

「人生」というものも

 

もしかすると、何かの「補完作業」の連続、継続、連鎖、、、のようなものかもしれません。

 

もっと深く言えば

 

「人間」という作品

 

の、細胞の一部を「各個人」が担っていて、それぞれの「人生」が、その作品で

「達成すべきもの」

へ、向かう「ピース」となっており

 

それは永遠ではないかというものを経ながら、進んでいる、、、

 

「個人」においても、もしかすると、「今」のコチラでもそうでしょうし

もしかすると

「次」のアチラへの準備が「今」のコチラではある「けれども」

 

「次」で完結されるかどうかはわからない、、、

 

「一旦」コチラのものは「次」のアチラへ行く際か、「次」のアチラでまるで「完結」されたかのような事が

ある「かもしれない」「けれども」

 

輪廻転生とは言いませんが

 

「次」のアチラの「次」があり、それは、ずっと続きながら

 

個人としても「達成すべきもの」へ進み続けていく

 

の「かもしれません」。

 

DNAマークが、なぜかわかりませんが無限大マークと同じように

ねじれながら、ずっと続き、それが「継承」されていくものの「象徴」マークかのように

なっている気がしますが

 

ねじれながら、そこが「コチラ」から「アチラ」へ行くきっかけも意味されている

「かもしれません」し

 

そうではないかもしれませんが、そうかもしれない事は否定はできないので

 

そう考えてみると

 

個人も「達成すべきもの」への「補完作業」としての「人生」が次々と与えられる可能性も

あり

 

個人がつながる「家庭」であったり「小さな社会」であったり「大きな社会」であったり

 

それも同じような事が言えるかもしれませんし

 

更にその先に 「大きな」

 

「人間」という作品 の 「人間」という「世界」の「達成すべきもの」への

 

「補完作業」が、全ての人間の存在によって、行われ続けていくのかもしれません。

 

話は私の野球と人生に戻りますが

 

私の追究し続けるものは、いまだに、その投打における動きを進化させようとし

確認する作業があり

 

これが何の役に立つか

 

を、もはや超越しており

 

無い可能性が99,99999,、、、% でありながらも、可能性が0ではない

 

ところへ向かっている事は間違いないようですし

 

それが「もしかすると」

 

コチラからアチラへ行く際か、アチラでほんのしばらくの機会として

与えていただく事があるかもしれないケースとして

 

とうもろこし畑から次々と、現れるプレイヤーと入り混じるかのごとく

 

本物のオールスターゲームでの、登板と打席への準備

 

かのように、野球の自らの遺伝子細胞に組み込まれているかのように

 

その「追究」は続いています。

 

私の人生から感じている事は

 

「補完作業」であり

 

その継続である

 

そして、連鎖、つながっており

 

その先のものの「一部」であり、その「補完作業」における重要な役割をしっかりと果たしていくための

「今」であり「これから」である

 

そういう「確認」を行っている段階のような気がしていますが

そうではないかもしれません(笑)」

 

2025年7月13日ブログ

②

 

「一つ前のブログに、ある意味とても厳しい内容を書いています。

 

「人を許す」事

 

これは大事な事で、私も中学生くらいからずっと考えに考えてきた一つではありますが

これは

 

「他人に悪い結果をもたらさないように導く」事が優先されるべきであり

 

そうでないと、残念な行動に出る人の多くは、何度も同じような事を繰り返したり

エスカレートしていく

 

という現実があり

 

「コチラ」の世界での、社会でのルールによって、あるいは仕組みなどによって

 

厳しい仕打ちを受ける事を避ける

 

自分にとって大きく不利益な事は避ける

 

という、人間が持ち合わせる本質的な部分に

 

「あってはならない事」に対して

 

「制する」「ブレーキを踏む」などの役割を担ってもらわざるを得ない

事から

 

「あってはならない事」に対する罰則などは

 

今よりもはるかにはるかに厳しいものであってよい

 

「加害者」を何としても生み出さない

 

ための抑止力を、最大に高めていく事が、実は必要で

それは

 

加害者予備軍を加害者にならないようにするための「救いの手」の一つでもあり

万一、加害者となってしまった場合に、本当に本当にこのような苦しく厳しい罰は

もう絶対に受けたくない、という「救いの手」の一つにもなり得る

 

そういう意味から、そう感じている最近です。

 

人は全て最終的には、アチラなのかアチラのアチラなのか、天の手術を経てなのか

「救われる」べきである

 

つまり、「何らかの」事を経た上で どのような形になるかはわからないけれども「救われる」べき

 

そう考えています。

 

しかし、「コチラ」では、他の人の領域を侵害したり、盗んだり、あるいは傷つけたり

あるいは、もっと残念、恐ろしい事に手を染め

 

「あってはならない」事で多くの人たちが苦しまないように

 

それが絶対に「優先」されていかねばならない

 

ゆえに「加害者」をどのような形ででも「生み出さない」事は

第一の「コチラ」での「救い」にもなるでしょうし

それは最終的な「救い」への何らかの意味ももたらす可能性は

 

何もないよりも、ある「かもしれません」。

 

それ以上に「多くの悲しみ、苦しみ」「被害者」を生み出さない事!

 

に、つながっていく事が本当に大事な事で、加害者の人権は守るとしても、被害者の人権や幸福領域を考えるならば

矛盾した次元の罰則では、社会は簡単には変わらない

 

残念ながら、そういう部分もある

 

ゆえに、「人そのものを裁く」のではなく「あってはならない事」が起こらないようにするための

「現実的手段」の一つ

 

と、しっかりと捉えていく必要性がある

 

そう考えての事です。

 

詐欺師をたとえても、その多くは繰り返します。

自分が仮に、10万円の被害にあった「けれども」許そう

で、それで改心し、他に全く「あってはならない事」が起こらないならば

「あり」かもしれませんが

 

裏目がほとんど。

 

徹底した罰則の下で、本当に本当に「あってはならない事」を起こす気にもならない

大反省に至れば、そして、場合によってはしっかりと搾取したものや迷惑をかけた全て以上に

返して、改めたものが見えた場合は「それなりに」という事なのではないかと思うようになりました。

 

残念ながら、今の時代、反省などない、血も涙もないような冷血な非常な行動に出る存在は

激増していると言えます。

 

そういう存在が可能な限り、現れないようにしていく

仕組みや、ルールを含め

 

残念ながら、社会全体の多くはそこへの意識は「高くない」と感じます。

 

どのような形かはわかりませんし、何を経てかはわかりませんが

 

「人は全て」救われるべき

 

ではある「けれども」の部分。

 

「コチラ」この社会で生きるという限りは、「他人の幸福領域の侵害」は

「起こらない」「起こさない」そういう存在を生み出さない、そういう仕組み作りや

環境、条件整備によって

 

未然に防ぐ事で、コチラでの救いの範囲を広げる必要性

 

というものが、極めて大事である

 

そう感じる最近です。」」

 

「2024年7月15日ブログ

①

「今日は法事でした。

久々に従兄弟たちと会食も。

 

なぜコチラがあるのか

 

なぜアチラに行くのか

 

それらにはどのような意味が

 

明確な回答が得られない疑問がありますが

そこへのアプローチをやっても無駄とやらなかったり、全てを諦めるケースも

あるのでしょう。

 

明確な回答が得られないまま、幕を閉じるようにはなっているものの

コチラでの法則性のようなものを辿っていくと

 

もしかするとこうなのかもしれない

 

あるいは

 

こうである可能性はある

 

あるいは

 

このような感じであろうから、コチラではこうすべきだ

 

などなど

 

結論まではいかないくとも、なんとなく、勝手な解釈ではなく

一定程度の法則性には近づくのかもしれません。

 

コチラとアチラは関連性がない

事は、少なくともない可能性が高そうですし

 

アチラがない

 

可能性もない事はないかもしれないけれども、どのようなところか、どういう現象の中にいくのか

それはわからなくとも、ある可能性も大いにあるのでしょうし

 

少なくとも、コチラは、それぞれに与えられた時間内で、去らねばならない事は間違いなく

 

去っていくならば、行先があるのか、全く何もないのかのいずれかでしょうから

アチラとは、少なくとも2分の1の確率以上で存在するとも言えるのでしょう。

 

であるならば、ある場合に備えるのと備えないのでは、違いがあるのかもしれませんし

 

少なくとも、全ての不安が解消されるわけではなくとも、余計な不安は消滅したり、軽くなったり

する可能性はあるのでしょう。

 

私が、現在の時点で

 

甘えなき委ね

 

の境地のようなものにいるような気がする事は大事な事かもしれませんし

 

このブログ内で書いた事がありますが

 

魂の手術のようなものが、全ての存在に待ち受けていて

あるケースは、地獄のような苦しい手術で時間もなかなか終わらない

あるケースは、天の麻酔によって、痛みも苦しみも感じる事がほとんどなくアチラへ

くぐらせていただく事があるのかもしれませんし

 

全ての存在が、これによって、アチラへくぐらせてはいただけるけれども

 

そこでゴールとも限らない、、、。

 

そうなると、コチラでの法則性は、一定程度しっかりと考えて、感じて

アチラへの備えを全くしないよりは、どんどんやった方が良いかもしれませんし

 

人の力だけではどうしようもない物事がある事は明らかなので

 

そこへ向けて、せめて、甘えなき委ねができるように

 

そして、幼子の心の世界のように、澄み渡った状態でいられるように

余計な屈折をせず、快いものを身にまとえるようになり、それを伝える事ができたり

その流れが大きくなる仕組みへのアプローチを行なったり、目の前の「他」への

愛を含んだ思いや行動の度合いを進化させたり

 

いろいろと、やらないよりは、やって方が良い事も

多々どころか、大いに多々あるのかもしれません。

 

目を背けるわけにはいかない事から、目を背けがちな人間。

 

アチラとコチラを中心として、いろいろと考えてみる今日でした。」

 

 

 

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