いると思えば | ジャズと密教 傑作選

ジャズと密教 傑作選

空海とサイババとチャーリー・パーカーの出てくるお話です



神さまっているんですか
(小林幸子)



神さまは自分自身の心の中に生まれるんだ
いると思えばいるし、いないと思えばいないんだ
(勝新太郎)
酔いどれ博士(1966大映)より



「神さまはいるの?」
「いると思えばいる。いないと思えばいない」
この往々にして厄介払い用語として活用される表層的な表現はしかし、ときに真の意味を抱いて輝くのである。

           ※              ※              ※

プッタパルティ側※からいんちき呼ばわりされるムッデナハッリ集団※だが、その(いんちきかも知れない)最上層部を除いた少なくとも一般の信徒にあっては、彼ら自身がプッタパルティ側に属していたころとその考えはなにも変わるところはない。

彼らは相変わらず真摯な信仰態度を維持し続けている(はずである)。所属が変わったからといってやることは同じであり、なにが変わるわけでもない。

もちろん、プッタパルティ側にいた頃から信仰足り得ない、祈ったつもりの勘違いをしていたような人はどこに移っても変わらずそれを続けているわけである。

そんな状況においてわたしの思うところを言えば「いわしの頭もなんとやら」である。

仮にムッデナハッリにいるサティア・サイババが実はいんちきな偽ものであったとしよう。だが、その舞台裏を知らず、微細体の神がほんとうにそこにいると信じ込んで祈るなら、その人の想念には正しく神が顕れるに違いない。

「いると思えばいる」のである。

その人の想念がどうあるかにかかっているのであって、信仰の対象が実は神を名乗る詐欺師であろうと、いわしの頭であろうと、神なる想念をそこに抱いて祈るのであれば、顕れるのは神に他ならない。

同じように、では反対に疑い半分の気持ちで祈りの場に身を置くとしたら、そこがどこであろうと疑わしき神がその人の脳裏に顕れるであろう。

また、本物の神がそこにいたのだとしても...いやいや、神などこの世界にいやしない。神なるものが我々に指し示すのはただ真理・実相であり、あるべきは神なる想念なのである。

ここでわたしは神とは自身の想念が創り出すものだと言っているだろうか。いや、そうではない。その想念が正しく神を捉えているかどうかが問われるべきなのである。

この理路は当然のことながらムッデナハッリにだけ当てはまるのではない。プッタパルティにだって神は「いたり」「いなかったり」するのである。それはそこに集う人たちそれぞれの祈りによるし、また、その想念の質次第ということになる。

と、そんなわけで、例によって研究者の書斎から発見された未発表のヴェーダ文献をご紹介しよう。

    ムッデナハッリ・スクタム

ムッデナハッリだろうとプッタパルティだろうとそこに神はいるし、またいない。
正しき信仰の態度がない限り、標榜する神に意味はない。
その想念によって神は顕れもするし、また、顕れるのはまがい物かも知れない。
それはワイド・ショーの扇情的言説に拠らないし、
教団指導者たちの都合ともなんらの関わりはない。
ただ信徒の祈りだけが神である。
それは信徒の脳裏にのみ顕れ得る。
    
そのときこそ大会(だいえ)は真に降臨を目の当たりにする。
作者にあってそれは言わずと知れた
チャーリー曼荼羅の主神、チャーリー・ヤードバード・パーカーに他ならない。
歌って踊れるジャズの神
歌って踊れるジャズの神
皆大いに歓喜して信受し奉行せり。
あーこりゃこりゃ



※正式な名称、また関係性の経緯をよく知らないのですが、便宜的に「プッタパルティ側」、「ムッデナハッリ集団」などと記しています。