それで、
子どもたちに勉強させることは大事である。
クリスチャンだからこそ大事である。
しっかり勉強し、ある程度の収入を得させておく。
これはいわゆる「世的」になることではない。
礼拝のためにそうするなら、
それは立派な信仰的行為である。

「勉強しなさい」
クリスチャンの親は子どもたちに、
教会の大人は子どもたちに、
これを言うことを恐れてはならない。
それは、
霊的な意味で子どもの一生を左右する
重要な言葉である。

「あまりそう言ったら、
子どもが窮屈になるのではないでしょうか」
そうではない。
勉強しないから、窮屈になるのである。


<おわり>

しかし、
本当にそれは正しいのだろうか。
そもそも、なぜ生活の糧を得るのに、
日曜日にまで働かなくてはならないのだろうか。

理由は簡単である。
若い頃、しっかり勉強しておかなかったからである。
「勉強しなさい」
この言葉をうとんじてしまったからである。

もし、しっかり勉強しておけば、
もう少し職業選択の自由もあり、
日曜日ぐらいは休めるような環境に
身を置くことができただろう。
そして、礼拝にも堂々と出席することが
できただろう。
その証拠に、各教会にいる長老クラスの信徒、
礼拝には絶対休まない信徒さん方には、
しっかりした収入のある方が多い。

「生活のためだから仕方がない」
これは自分で勉強しなかったことの代償であり、
本当は言い訳にならないものである。

「勉強しなさい」
洋の東西を問わず、世の子供たちはこの言葉を嫌う。
しかし同時に、この言葉ほど、
大人になってから身にしみる言葉もないだろう。
今、社会に出た大多数の大人たちが共通して思っていることは
「もう少し勉強しておけばよかった」である。
つまり、
親の言葉は正しかったということだ。

もちろんそれは、この世的な話ではある。
しかし私は、
クリスチャンの子どもたちにとって、
別の意味で重要な言葉だと思っている。

今、聖日礼拝の出席者は減っている。
少子化を差し引いてみても、そうである。
そして、その理由の一つが、
日曜日も働かなければならないことである。
「背に腹は変えられない」がごとく、
クリスチャンたちは礼拝を休む。
そして、それが生活の必要上、
正当であるかのように言う。

結果はどうだったか。
こちらから見ると痛み分けという感じで、
払ったお金は、業者への手数料だけ戻って来た。
つまり、売主は悪くなく、
業者は悪いとされてしまったのだ。

私はこの結果を聞き、しまったと思った。
なぜなら、
本来教会とは、キリストの体として、
人の罪を赦す働きをするべきだからである。
なのに、今回は人を罪に定めてしまったのだ。

私の力の及ぶ範囲ではなかったとは言え、
開始早々、
サタンに一本とられたような気がした。

今私たちの教会堂は、
そこから少し離れたところに建っている。
建ったということは、
そこが御心だったということだろうが、
しかし私は今でも、
後悔に似た気持ちを抱いている。
そして、親とは言え、
未信者に協力してもらうことの難しさ、
危うさを学んだ気がしている。
罪を赦すために遣わされた者が、
人を罪に定めてしまった。
こうして私たちの教会堂は、
失敗によって始まったのである。


・・・・・・・・・・
この間、久々に、その土地を訪れてみた。
相変わらず、空き地のままだった。
たぶん、同じ理由で、
買う人は付かないのだろう。
理由とは何か、要するに、
土地が道に接していないのである。
法的に建物を建てることは可能だそうだが、
わざわざこんなところを買うであれば、
他を買った方が良いということである。
しかし私は、この土地を諦めたわけではない。
主の御心であればそのうち・・・と思っている。

私の教会が始まったのは5年ほど前だが、
会堂が建ったのは約1年前のことである。
それで、その土地を取得するにあたり、
ある失敗をしてしまったことを告白しておきたいと思う。

実は、今の場所は第一候補ではなく、
少し離れたところに、
私にとっては理想と思われる場所があった。
それは、ある有名な神社の隣接地で、
偶像が打ち破られるために祈るには、
うってつけの場所だった。

しかし、土地としては条件が悪く、
普通の人は買うのを控えるようなある悪条件があった。
それでも私は主の御心であればと思っていたのだが、
資金を提供してくれる私の両親(未信者)が、
当然のことながら反対をした。
しかも、途中までは賛成していたにも関わらず、
そして、
買うための手続きに入ったにも関わらず反対し、
しかも、それを
不動産業者の落ち度であるかのように言ったのだ。

もちろん、そういう土地なので、
業者も「うまく」事を運ぼうとしたわけだが、
私が見る限り、ずるいことをしたとか、
そういうふうには見えなかった。
しかし、
未信者の両親は、
世の考え方でその場所を買うのをやめ、
そして、払ってしまった分、
つまり、
売主への手付金と業者への手数料を取り戻すために
裁判を起こしたのであった。

人間というものは、救われた後も、
救われる前に持っていた体質から
なかなか逃れられないもので、
救われたにも関わらず、
救われる前の考え方、やり方が色濃く出てしまうものである。

今、多くの教会が、
口では「主に頼れ」と言いながら、
実際には自分の知恵、力で運営している。
なぜか。
この世に生まれ出てから、救われるに至るまで、
ずっとそのようにして来たからである。

「神仏を尊び、神仏に頼らず」
有名な、
日本人の宗教観を一言で言い表した言葉であり、
宗教観にとどまらず、
生き方そのものとなっている言葉だ。
確かに日本人は、一年を通して、
神仏や先祖を尊ぶ生活をする。
しかし、この世を生きていく時は、
自分の力で努力する。
まさに「神仏を尊び、神仏に頼らず」なのだ。

それで、救われた者の集まりである教会も、
そのようにやっていく。
礼拝や祈祷会は大事にする一方で、
総会、役員会、委員会は人間の知恵でやっていく。
口では、神様を第一にする一方で、
運営においてそうしようとする者がいるなら、
世間知らず、
または子どもであるかのように見られてしまう。
まさに、
「神を尊び、神に頼らず」「キリストを尊び、キリストに頼らず」
なのだ。

「神を尊び、神に頼る」
教会はこのようにあるべきである。

私の教会では毎週聖餐式を持つ。
パンはあらかじめ切らないで、その場で裂くようにしている。
すると、当然、パンの大きさに違いが出るのだが、
人によって、大きいものを選ぶ方と、小さいものを選ぶ方がいるのは、興味深い。

別に、取るパンの大きさに、正しい間違いはないのだが、
私としては、大きい方を取ってもらいたい。
なぜなら、その方が、
自分の罪深さを認め、より大きな神の恵みを求めているように見えるからだ。

もちろん、小さい方を取る方がそうでないということではないし、
大きなパンの方が、そういう「効果」があるということもない。
しかし、信仰には、必ずその表れがあるのであって、
本当に今言ったようなことを思う方であれば、
大きな方を取るのが普通ではないかという気がする。

そして、それこそが本当の意味での謙遜なのだ。

小さな方を取るのは、人の前での謙遜、
大きな方を取るのは、神の前での謙遜
である。

教会が教会を批判する。
真理が明らかになるためには、ある程度仕方がない。
しかし、絶対に言ってはいけないことがある。
それは、よく調べもしないのに「あの教会は異端だ」ということである。

人はその犯すどんな罪でも赦される。
たとえ、イエス・キリストに逆らっても赦される。
しかし、たった一つだけ赦されない罪があるという。
それは、「聖霊を汚す罪」である。
そして、「聖霊を汚す罪」とは、
聖霊のなさったことなのに、「悪霊のしわざだ」と言うことである。

「あの教会は異端だ」
言い換えれば、あの教会は悪霊が建てたものということである。
本当にそうであれば仕方がない。
しかし、それが普通の教会であればどういうことになるか。
普通の教会なら、それは聖霊が建てたものだ。
だとすれはそれは、
聖霊のわざを悪霊のわざと言うことになり、
「聖霊を汚す罪」を犯すことになるのではなかろうか。

もちろん、直接そう言うわけではない。
しかし、「異端」なのだから、実質そう言っていることになる。

教会を批判する時は気をつけなければならない。
特に、異端などという言葉を軽々しく使ってはならない。
それは、下手をすれば、
永遠に赦されない罪を犯すことになってしまわないとも限らないのだ。

教会をくるくる替える人がいる。
または、くるくる替えられる時代になっている。
私はそれを、教会のテレビ化と思っている。

テレビを見る人はきまぐれだ。
気に入る番組が見つかるまで、チャンネルを回し続ける。
そして見つかればしばらく見ているが、
またすぐに替えてしまう。
そして、だめなら消してしまう。

教会を替える人もこれと同じで、
自分に合う教会でなければ、すぐに去っていく。
そして自分の気に入るところを見つけるまで、さまよい続ける。
そして見つからなければ、行くこと自体やめてしまう。

ならば、気に入った教会が見つかったらどうなるか。
そこで語られるメッセージに忠実に生きるかというと
そうでもない。
面白い番組も、終わってしまえば消してしまうように、
そしてすぐに忘れてしまうように、
家に帰れば帰ったで、すっかり忘れてしまう。
結局はテレビなのである。

しかし、それもまたぜいたくだ。
迫害されている人たちは、
説教を聞くことはおろか、聖書を読むこともできない。
それに比べたら、いくらでも聞くことのできる、
また読むことのできる私たちは、
なんと恵まれていることだろうか。
にも関わらず、話し方一つで不満をこぼすなら、
それをもって聖霊を悲しませると言う。

そういうわけで、
教会内の問題で不平不満を言うのはぜいたくである。
それだけを見れば一理あるかも知れないが。
以上のように考えてみたら、そこには正義はない。

不満を感じたら考えてみて欲しい。
もし、
くだらないことでつまずいている自分の姿を
家族共々牢に入れられた時代の人たちが見たら
どう思うだろうかと。
つまらないことで「傷つけられた」と言っては、
教会を去ろうとするその様子を
殉教者たちが見たら、どう思うだろうかと。