教会内の問題で、いろいろ不平不満をこぼす人がいる。
気持ちは分からないでもないが、私に言わせてもらえば、

そんなのはぜいたくだ。

考えてもみて欲しい。
今私たちの国では、礼拝に来たからと言って、問題は起きない。
世界には、また歴史を見れば、それだけで捕まったり、村八分にされたり、殺されたりする国もあった(ある)。
しかし、日本では、多少家族に文句を言われるぐらいで、社会的地位を失うわけではない。
だとしたら、ちょっとのことで不満を持つのは、ぜいたくな話なのだ。

説教についてもそうである。
説教者にはいろいろなタイプがあり、中には、原稿を作って語る者もいる。(私もそうしている。その理由は、大事なことを言い忘れないため、また、文章にしておけば、その場にいない人にも読ませることができるためである。)
しかし、聞いている側としては、原稿なしの方が説教らしく、また聖霊に導かれているらしく聞こえるようで、実際、原稿を読むタイプの説教について、「説教を聴いている気がしない」と言う人は多い。

<つづく>

なぜ牧師のブログにこんなことを書いたのか。
それは、この「自分の頭で考える」ことは、
信仰生活を送る上で、とても重要だからである。

そもそも、神様を信じることも、
自分の頭で考えたからこそできたことである。
よく、神様を信じること=自分の頭で考えなくなることのように言う人があるが、これは逆である。

神を信じた人が、考えていないのではなく、
信じない人が、考えていないのだ。

特に日本のように、神を信じないことが一般的な国ではなおのことである。
信じた人は、周りに流されず、自分で考えて信じることにした。
信じない人は、周りに流されて、自分で考えることなく信じようとしない。
どちらが、自分の頭で考えたのか。

信じてからも同じである。
信仰生活は結局、神と自分の一対一の関係であり、
人にどう思われるかではなく、神様にどう思われるかが重要だ。
そしてそのためには、自分一人が神の前に立ち
自分の頭で考えなければならないのだ。
これができない人は、
決して、神との正しい関係を持つことできない。
そして、そういう人の集まった教会も、
神との正しい関係を持つことはできない。

今の世の人たちが、
クリスチャン、ノンクリスチャンに限らず、
しっかりと、自分の頭で考えられる人たちになって欲しいと願う。

“また、なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。”ルカ12:57


ある子供向けの絵本がある。
なんでも、皇室でもそれを使っているらしく、
そのおかげでその本は、すばらしい本ということで、
よく売れているらしい。

ということで、
私のうちにもそれがある。
で、見てみたのだが、
もちろん悪い本ではない。
しかし、ごく普通の絵本を超えるものではない。
なのに、世の若い親たちは、
それがものすごく良い本であるかのように評価している。
なぜか。

皇室で使っているからである。
ただそれだけで、良い本のように見えているのである。

本当に良いものかどうか、自分の頭で判断することなく、
ただ有名人が使っているということで、良いものに見えてしまう、
心理学で「○○効果」などという用語がありそうである。

そして、そういう親に限って、子どもには言う。
「自分の頭で考えなさい!」

<つづく>