(ネタバレあり)
ドラマは西暦997年から998年になります。

藤原為時(岸谷五朗)は紙漉きの見学のためまひろ(吉高由里子)を連れて農家を訪れました。
紙の納入枚数と朝廷への送付枚数の違いに気が付き、
今までの越前の国守の不正に気が付く為時ですが、
それを正そうにも紙漉きの村の村長には理解されず、
為時は「自分は世の中が見えていないようだ」と悩みます。

宣孝からはたびたびまひろに文が届きます。

都の屋敷に帰るとまひろの弟・藤原惟規(高杉真宙)といと(信川清順)が迎えてくれました。

年が明けると安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)が一条天皇(塩野瑛久)に新年の挨拶をしたときに、晴明は道長に「凶事が続く」と告げます。
さらに「お宝をお使いなされませ」と意味深なことを言って、帰っていきます。
(娘を入内させろということか?)

伊周(三浦翔平)は隆盛を取り戻そうと考え、ききょう(ファーストサマーウイカ)に「枕草子」を書き進めるよう命じます。

道長は一条天皇から鴨川の堤の修繕許可を得ようとしますが、思うようになりません。

そうこうしていると、道長が案じていたことが起きました。
大雨で鴨川の堤が大きく崩れたのです。
(史実でも大水害が起きています)

職御曹司では枕草子の『二月つごもりごろに』の話に花を咲かせているところに、
道長は大水の被害は自分のせいだと、辞職を申し出ます。
3度にわたって道長は辞表を提出しますが、一条天皇は受理しませんでした。

突然宣孝が道長を訪ねてきて、まひろとの結婚を報告します。
その言葉に道長は衝撃を隠しきれませんでした。

その後まひろの元に道長からの大量の婚礼祝いが届けられました。
道長直筆ではない手紙をもらい、まひろは二人の終わりを悟ります。
不実の女と言いながらついに宣孝とまひろはチョメチョメをします。



【朱仁聡(ヂュレンツォン)という宋人】
Wikiによると、永延元年(987年)以降たびたび来日し、長徳元年(995年)9月に林庭幹ら70人余りとともに若狭国に来航した、となっている。
林庭幹はその後記録にないため、宋にもどったものと思われる。
朝廷はその時点で既に宋人らの対応は越前国と決めていたため、一行も越前に移ることになる。
996年閏7月17日に唐人が鵝・鸚鵡・羊を献じて入京したというのもこの一行と思われる。(二十二回放送)

997年10月28日には若狭守源兼澄に対して狼藉をはたらいたと福井県史に記録されている。

二十四回放送で、一条天皇が定子のために宋から化粧品などを購入するよう命じるが、その代金が未納だと、1000年8月24日に訴えを起こしている。

この役を、ドラマでは浩歌(ハオゴー)さんが演じている。ちょっと前までは矢野浩二さんとして、日本のドラマの中国人役には必ずと言っていいほど出ている人。「ブギウギ」にもでていたし、「ドクターX」など出演多数。中国では一番有名な日本人だとも言われる。


【長徳の変の史実】


故藤原為光邸での出来事で、ドラマでは花山院の輿(こし)に矢を放ったことになっている。
しかし、輿に矢を放ったと記録されているのは『日本紀略』だけ。
『大鏡』と『栄花物語』では、花山院の衣の袖を弓で射抜いたとなっている。
『小右記』の逸文では、単に乱闘があり花山院の従者の童子二人を殺害しその首を持ち去ったと記されている。
どれが正しいのか?
ただ、『小右記』によると、伊周と隆家が配流となった罪名は、「花山法皇を射た事」、「女院(詮子)を呪詛した事」、「太元帥法を行なった事」の三つであったことが記されている。

花山院に矢を放ったことは史実のようだ。


次回7月7日(日)は都知事選投票日のためお休みとなります。
さらに8月11日(日)もオリンピック中継のためお休みです。

 

「光る君へ」の時代を考察する(第二十四回)