ルカの福音書6:43~45 | 聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
…時に苦く、時に甘く、時にしぶい内容を自由に書き込みます

*43節を読みましょう。

 “実” も “葉” もない幹と枝だけの木は、どれも同じように見えますが、芽吹いて “葉” や “花”、さらには “実” が実ると、その木がどんな木であるかがわかります。同じように、人間も見た目(外見)だけでは、その人がどんな人であるのかを知ることは困難です。しかし、親しくなってみると「こういう人だったんだ」と、イメージとは違う顔を発見したりします。

 人は外側を作ることができます。…というより、人目を気にして外づらを良くしようとします。特に、日本人は江戸時代の五人組制度の名残で、人に迷惑をかけてはいけないという精神が染みついているため、人の目を気にします。また、“恥の文化” が罪の抑止力になっているところがあります。しかしそれは、バレない状況下や匿名であれば悪いことをする…ということでもあり、本当の抑止力ではありません。単に、人からどう見られるかに恐れをもっているだけなのです。しかし、その人の本性は隠しきれないものです。それがここで言っている「悪い実」「良い実」ということです。

 ここで「悪い実」と言われているのは、42節に出て来る「偽善者」の言動のことを指します。

 「偽善」ということばは、“俳優” を意味する単語がもとになっていることばで、“良い人ぶる” ことや、良い人を “演じる” 人のことを指します。特に、イエスさまから「偽善者」と名指しされていたのは、パリサイ人や律法学者たちでした。彼らは、律法の専門家であり、国会議員のような立場でもありましたが、それ故に、人から尊敬と称賛を得ることを強く求めていました。

本来であれば、誰よりも神を畏れ、みことばに従って、神にも人々にも仕える者であるはずなのに、自分が高められ、称賛されることばかりを求めていたので、イエスさまに対しても嫉妬心を燃やし、殺意を抱くようにもなったのです。また、人々に対しても、聖書を正しく教えるべき立場にいながら、一般庶民を「無知な人」として見下し、自分たちだけが神に認められている正しい者だと自認していたのです。そのような彼らの本音と実際の言動の不一致を「立派な人を”演じている” が、内面は自己愛と高ぶりでいっぱいだ」という意味で「偽善者」と称されたのです。

*44節を読みましょう。

 人々は、律法学者たちの “外面” に惑わされていましたが、イエスさまは「実」によって、その人が「良い」「悪い」かを判断しなさいと教えられました。

 ぶどうの木には、生涯 “ぶどう” の実だけが成り、他の果実は決して実りません。それは、その木が “ぶどう” だからです。同じように、人間の性質も生涯変わることがありません。だから、どんなに良い人を演じても、うっかり仮面がずれて正体がバレてしまうものなのです。

*45節を読みましょう。

 「倉」のたとえも同じ真理を教えています。ここでは、人間の “心” を「倉」にたとえて、良い物が収められている心ならば “良いことば” や “良い考え” が出てきますが、悪い物が収められている心ならば “悪いことば” や “悪い考え” が出て来るのです。

「なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです」とあるように、とっさの一言や、感情的になって吐いたことばなどは、“うっかり失言” ではなく “本音” が現れているものです。そのような言動から、その人の本性が明らかになるのです。

 「悪い実」を結ぶのは「木」そのものが「悪い」からで、「良い実」を結ぶためには「木」そのものが「良い」ものでなければなりません。根こそぎ変わる必要があるのです。根こそぎ変えるとは、その木が “死ぬ” ことを意味します。

 それが私たちの受けた救いなのです。

 本来であれば、私たちが自分の罪の代償に “いのち” を差し出さなければならなかったのに、私たちは一つしか “いのち” を持っていないので、“いのち” を差し出した瞬間にさばきと刑罰が始まってしまうのです。そこには救いはありません。しかし、神さまは私たちを救いたいと願われたので、ご自身が身代わりとなって(私たちに代わって)いのちを捨ててくださったのです。このことによって、私たちは “一度死んだ” 者とみなされたのです。この救いによって罪を赦されただけでなく、罪の支配からも解放されたのです。これが “根こそぎ変わる” ということです。 

 

*お祈りしましょう。