イザヤ書7章 | 聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
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*1~2節を読みましょう。

「ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと」

 6章は「ウジヤ王が死んだ年」の出来事でしたが、そこから数年経過した時のことが記されています。

 ついでに・・・この辺りの年代の、南ユダの王の歴史をⅡ歴代誌からたどりますと、以下のようになります。

26:3「ウジヤは16歳で王となり、エルサレムで52年間、王であった。」(BC783~742頃)

27:1「ヨタムは、25歳で王となり、エルサレムで16年間、王であった。」(BC742~735頃)

28:1「アハズは20歳で王となり、エルサレムで16年間、王であった。」(BC735~715頃)

 ※年代は一般的なものを掲載しました。資料によっては、数年のズレがあったりします。また、南ユダ王国は、父子での共同統治期間を持った王が多いのですが、その辺りも考慮していない年代になっています。

「アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めた」

 この出来事の詳細がⅡ列王記16章とⅡ歴代誌28章に記されています。簡単に復習しますと・・・

Ⅱ列16:5「このとき、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに戦いに上って来て、アハズを包囲したが、戦いに勝つことはできなかった。」

 アラムと北イスラエルの連合軍が南ユダに攻め入って来ることになったきっかけは、アラムと北イスラエルがアッシリヤに対抗するために、南ユダにも協力を求めたのですが、南ユダはその誘いを断りました。それに腹を立てた両国が、南ユダに攻撃を仕掛けて来たのです。しかし、これも表向きの理由であって、本当の理由は、

Ⅱ歴代誌28:5「彼の神、主は、彼をアラムの手に渡されたので、彼らは彼を打ち、彼のところから多くのとりこを捕らえて行き、ダマスコへ帰った。彼はイスラエルの王の手にも渡されたので、イスラエルの王は彼を打った」

同 9節「主がユダに対して憤られたため、主はあなた(=北イスラエルのこと)の手に彼らを渡された」

 ・・・とあるように、主の道に歩むことをせず、むしろ異教の風習や偶像崇拝を取り入れたアハズ王を懲らしめるために、主なる神が「アラム」「イスラエル」を用いられたのです。しかし、アラムとイスラエルは “やりすぎて” しまった(Ⅱ歴代誌28:6~8)ため、彼らも、その罪を問われることになったのです。以下は、北イスラエルに対して、預言者オデデが語っていることばです。

Ⅱ歴代誌28:9~11(抜粋)「ところが、あなたがたは天に達するほどの激しい怒りをもって彼らを殺した。…しかし、実はあなたがた自身にも、あなたがたの神、主に対して罪過があるのではないか。今、私に聞きなさい。…主の燃える怒りがあなたがたに望むからです。」

 そして、この時のアハズはどう対応したのかというと、アッシリヤの王に「私はあなたのしもべです」とひれ伏し、「主の宮と王宮の宝物倉にある銀と金」を贈って、「私を救ってください」と懇願したことがⅡ列王記16:7~9に記されています。

 さてさて、背景についてまとめますと…人間目線からは形勢が二転三転しているように見えるのですが、実は、アラム、北イスラエル、南ユダのそれぞれの罪に対する神さまの取り扱いが展開されているのです。しかし、3国がいずれも警告を受けておきながら聞き従っていない、という状況の中で起きた“二転三転”であり、決して人間の側の作戦の成功などではないのです。⇦これ、覚えておいてください。

*3~6節を読みましょう。

 動揺する王アハズに、イザヤを通して御告げが語られます。その際、イザヤの息子「シェアル・ヤシュブ」を連れて行くよう指示されています。「シェアル・ヤシュブ」とは、“残りの者は帰る” という意味で、これも重要なメッセージのひとつになっています。

 この時アハズは「上の池の水道の端」にいました。なぜ、ここにいたのかというと、「上の池」とは、エルサレム城内につながる水道の水源“ギホンの泉”で、敵が水源を断つことを警戒していたからです。慎重を欠いた行動に、動揺っぷりが現れています。

「気をつけて、静かにしていなさい」

 ここでの「気をつけて」とは、自分自身(自分の判断、行動など)に注意することを求めることばです。この時のアハズが「気をつけて」いたことは、敵の動きでした。敵に注目し、敵の考えそうなことを考えて先手を打つことで、必死に自分を守ろうとしていました。しかし、神さまは自分自身に気をつけなさいと言われました。それは、アハズ王の判断、行動が適切でないなら、アハズ自身も民全体も被害を受けることになるからです。アハズはアッシリヤにひれ伏して「救ってください」と全面的に拠り頼んでいましたが、その判断は間違いでした。主なる神にひれ伏し、悔い改めて「救ってください」と信頼するべきだったのです。それが「静かにしていなさい」ということばに示されています。「静かにしていなさい」とは、“黙る” ことを求めているのではなく、“主のなさることを黙って待つ” ことを命じているのです。このことばは、不安と恐怖に慄く民に、昔から神さまが繰り返し告げられたことばです。

出エジプト14:14「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」

哀歌3:25~26「主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。主の救いを黙って待つのは良い。」

詩篇46:10(口語訳)「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」

 そのような意味では、主とはどなたであるかを冷静になって知ることが、この時のアハズにとって最も必要な行動だったのです。

「心を弱らせてはいけません」

 アハズは、アラムと北イスラエルを怒らせて、敵に回してしまったことに怯えていましたが、アラムと北イスラエルの怒りは、神の目には「二つの木切れの煙る燃えさし」(もうすぐ消える)程度でしかないので、恐れなくてもよいと告げられたのです。人の目には大きな問題に見えて「もう駄目だ」「手に負えない」と恐れたり落胆したりしますが、自分の目に見えているものがすべてではないと気づくと、思い煩いを手放すことができます。先ほども書きましたが、すべての出来事の背後には神がおられるのです。神に知られずに起きていることはひとつもないのです。このときも、人が知り得ないアラムと北イスラエルの悪企み(南ユダを傀儡政権にして治めようとしていたこと)を神はご存知でした。

*7~9節を読みましょう。

「そのことは起こらないし、ありえない」

 主なる神は、すべての情報を知っておられるだけでなく、その結末も知っておられるお方です。だからこそ人は「気をつけて、静かにして」いなければならないし、そうすることが正しい選択なのです。

 そして、「起こらないし、ありえない」理由をも告げてくださいました。

「六十五年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民ではなくなる」

 まずは、北イスラエルについてです。※「エフライム」は北イスラエルのこと。

 「もう民ではなくなる」とは、北イスラエルがアッシリヤによって首都サマリヤは陥落し、民の 一部は捕囚になりますが、国土が植民地化されるので、残された民も雑婚によって民族性を失っていくことを示しています。しかもこのことが「六十五年のうちに」と、具体的な年代を示して告げられています。

 エズラ記には次のような記述があります。

エズラ4:10「名声高い大王オスナパルがサマリヤの町と川向こうのその他の地に引いて行って住まわせた民たち」

 このオスナパルとは、アッシュル・バニパル(在位:BC668~631/627年頃)のことで、彼の在位から65年遡ると、ちょうどアハズ王の在位期間(今日の箇所の時代)になります。

 ここまで見てきた通り、神さまは曖昧さや抽象的な表現をせず、具体的に告げられました。それを聞いた上でどう応じるのかと、神さまはアハズ王に決断を迫ります。

*10~11節を読みましょう。

「あなたの神、主から、しるしを求めよ」

 聖書には、以下の様なみことばがあります。

申命記6:16「あなたがたの神、主を試みてはならない」

 しかし、ここでは神さまご自身が、アハズ王に対して試みるよう求めています。これは、神よりも外国の力に頼ろうとしていたアハズに、本当に信頼できる存在は外国の王なのか? 主なる神なのか? それをはっきりさせて、信頼すべきものを信頼するようにと、求めているのです。

 かつて、ギデオンがみことばの約束の確かさを確認したいために主を試み、しかも二度も求めたことが士師記6章に記されていますが、その時、神さまは「なぜ疑うのか」などとは仰らずに、その求めに応じて “しるし” となる奇跡を表してくださいました。そのように、信じたいけど信じられない…という “弱さ” に対して、神さまは確信を得ることができるように寄り添ってくださるのです。なので、ここでの「しるしを求めよ」と言われたアハズは、揺れ動きつつも、しるしを求めるべきだったのですが・・・

*12節を読みましょう。

「私は求めません。主を試みません」

 これ、一見、信仰的な返答に聞こえますが・・・神さまが「しるしを求めよ」と言われていることに対して「求めません」と拒んでいるので、信仰的ではなく不従順ですよね。

*13~17節を読みましょう。

 アハズが「求めません」と答えたにもかかわらず、神さまの方から「一つのしるし」を与えると告げられました。それが有名な「インマヌエル」の約束です。

「見よ。処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」

 この箇所は、イザヤ書当時に成就する約束と、将来に成就する約束とが二重に預言されている箇所です。 まず、この時代に成就する約束の内容を見ていきます・・・

 「処女」とは、“若い女性” とも訳せる語で、ここではイザヤの妻である「女預言者」(8:3)のこと。「男の子」とは、この後誕生するイザヤの息子「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」(8:3)のことです。

 問題は次です。「インマヌエルと名づける」とあるのに、息子の名は「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」(8:3)です。一体どっちなの? と混乱するかもしれませんが、「インマヌエル」については8章でその示す意味が明かされています。詳しくは8章で。

 「悪を退け、善を選ぶことも知らないうちに」とは、誕生した「男の子」が “2~3歳になるまでに” という意味で、「あなたが恐れているふたりの王」つまり、アラムの王「レツィン」と北イスラエルの王「レマルヤの子ペカ」が2~3年以内には滅びることを示しています。

 そして、二人の王だけでなく、アラムと北イスラエルの「土地」「捨てられる」(侵攻される)時が来ることも告げられました。しかも、それは「アッシリヤ」によって実行されると。

 このように、明確な救いの約束を告げてくださり、アハズが確信を持って主に頼ることを求められたのです。

 ここまではこの時代の約束ですが、先ほども書いたように、将来の約束についても重ねて預言されています。

 「処女」とは、文字通りの処女を指し、それはマリヤです。

 「男の子」とは、イエス・キリストを指し、「産み」とあるように、神が “人の姿” をとってこの地上に来られることを示しています。

マタイ1:22~23「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」

 南ユダ アハズ王の時代の “救い” は、アラムと北イスラエルからの救いでしたが、究極的(根本的)な救いは罪の奴隷となっている状態からの救いです。それが成し遂げられるのは、この預言が語られてから約700年後のことです。

 さて、話を戻しますと・・・

 アハズ王が「私は求めません」と拒んだ理由は、神に頼らなくても自分なりに考えた計画があり、その計画に期待していたからと思われますが、その計画とは ”アッシリヤに助けてもらう” という方法でした。

 …ということを考えると、ここでアッシリヤによってアラムと北イスラエルが倒されることを明かしてしまうと、「やっぱりアッシリヤに頼って正解だ!」と、アハズに間違った確信を与えてしまいかねませんよね? それについてもしっかりと釘を刺されます。

*18~25節を読みましょう。

 このまま南ユダが主なる神に立ち返らないなら、南ユダにもさばきが下されると告げられます。

「主は、エジプト・・・、アッシリヤ・・・に合図される」

 しかも、南ユダが頼っている「エジプト」「アッシリヤ」が、神のさばきの道具として用いられると告げられるのです。イスラエル民族にとって、神は私たちだけの神であり、異邦人の神ではないという考えが根強かったので、神が異邦諸国をも用いられるということは、考えられないことだったのです。

「頭と足の毛をそり、ひげまでそり落とす」

 これは、アッシリヤが少しの妥協もせずに攻めてくることを示しています。それによって、多くの人々が命を落とすため、「ひとりの人が雌の子牛一頭と羊二頭を飼う」ほど、人手不足となることが告げられます。

 22節は、人口が減少するため、食料が余るようになる様子を描いたもので、豊かな生活を描いたものではありません。

 23~24節も、人口が減ることで起きる弊害について語っています。ぶどう畑も農地も、管理、手入れする人がいないため「いばらとおどろ」が覆い尽くし、そのようにして全土が荒れ果ててしまうので、人々は仕方なく「弓矢を持って」食料となる獲物を狩猟するようになる様子が描かれています。カナンの地は豊穣な土地であるはずなのに、地の産物を得ることができなくなるのです。

 しかし、すべてを失ってしまうまで、人々は「これがダメならあれがある」と、その場しのぎの生き方を止めることはせず、悔い改めることもしないのです。

 

では、7章を読みましょう。 

   ・・・最後にお祈りしましょう。