ルカの福音書6:40~42 | 聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
…時に苦く、時に甘く、時にしぶい内容を自由に書き込みます

 先回は、“導く人” の必要性を学びましたが、その続きです。

*40節を読みましょう。

「弟子は師以上には出られません」 

 「弟子」は、自分の知恵や力だけではなく、「師」(導き手)の手引きによって成長するものであることを示しています。教えを受けたからといって、導きが不必要になることはないということです。

「しかし、・・・自分の師ぐらいにはなる」

 しかし、「師」(導き手)を越えることはなくても、「師」の下で「十分訓練」されることによって「師」に近づく(もしくは並ぶ)ことはできる、ということも示しています。

 ここで大切なことは、「できる、わかっている」と自信過剰になって、導いてもらうことを拒絶するのではなく、へりくだって教えを乞う姿勢です。この間違った自信が「私は盲目ではない(つまり、罪人ではない)」という態度であるからです。

*41~42節を読みましょう。

「兄弟。あなたの目のちりを取らせてください」

 37~40節までで語られた内容のまとめとして、一つのたとえ話をされました。ここには、「目」の中に「ちり」「梁」が入っている人が登場します。

 「ちり」とは、“とても小さいごみ” のことです。それを「取らせてください」との発言は、親切心からではなく、37節で取り上げられていた “人を罪に定める” 行為のことです。

 私たちは、他者の些細な言動が気に入らなかったりすると、それを指摘して非難したりします。そして、相手に変わってもらうことを願い、期待しますが、それが本当に矯正しなければならないような悪いことなのか?、改めなければならない悪習慣や罪であるのか?…までは考えようとしません。単純に、「自分は嫌だから」という個人的な感情や好みで非難したり、批判したりするのです。これが “さばく” ということです。

 そのような人に対して、イエスさまはこう言われました。

「偽善者たち。まず自分の目から梁をとりのけなさい。」

 「梁」とは、“太い丸太” のことです。そんなものが「目」の中に入っているというのは、“視界が完全にふさがれている” こと、“全く見えていない” ことを意味しているのです。これが39節で「盲人」と たとえられていた、自分のこともわかっていない罪人の姿です。

 そして、このたとえ話が、「弟子」「師」のたとえ話に続いて語られたのは、「師」から教えを受けた「弟子」が、その教えを "他の人に" 適用させようとするとき、「あなたの目のちりを取らせてください」という、間違った行動に出てしまうことがあるからです。受けた教えは「まず自分」に適用させなければならないのです。それが40節で言っている「十分訓練を受け(る)」ということです。なので、「まず自分の目から梁を取りのけなさい」と、自分を見つめ直して自分の弱さや愚かさを知り、改めなければならないところを見出したなら、「師」(導き手)に頼りながら、自分を変えていくことに努めることが大切だ、と言っているのです。

 先回、学んだように、私たちを正しく導いてくださるのはイエスさまです。そのイエスさまから倣い、教えを受ける時、つまり、聖書を読んだり、メッセージを聞いたりするとき、「これはあの人にぴったりだ。あの人に聞かせたい」などと、誰かに当てはめて考えるのではなく、自分のこととして聞き入れ、自分に適用させようとして受け止めることが大切なのです。

 40節の「訓練を受ける」とは、“直す”、“整える”、“本来の姿にする” という意味です。聖書は、知識を増やすためや、心や意志を強くするためのものではなく、むしろ、その人の弱さや欠点、短所などに気付かせるための "自分の本当の姿を映し出す鏡" のようなものです。しかし、同時に "神さまが私たちに期待しておられる姿" をも見せ、その姿に成っていくように私たちを変えて、成長させてくれるものでもあります。

 そのような意味でも、「まず自分」を見つめ直し、「まず自分」が変えられることを願い求めましょう。

Ⅰペテロ5:10「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」

 

*お祈りしましょう。