❖前回のおさらい
~心を閉ざす、開くとは
Ⅱコリント6:11~7:4より
"心を閉ざして(狭くして)いるもの"
というテーマを取り上げました。
その最後の項目は
●心を開く(広くする)とは
1.逃げずに向き合う
2.束縛 ⇨ 解放する
3.関係の見直し
4.ささげる、与え合う
今回は、この項目
をもう少し詳しく
具体例を挙げて見ていきます。
弟子たちの心の動きとイエスさまの関わり
ヨハネ20~21章を開いてください。
1. 復活当日(21:19~23)
v19「その日」とは・・・
v18マグダラのマリヤが「主にお目にかかりました」と ”弟子たちに告げた” 日
つまり、復活の知らせを聞いた後の弟子たちの様子です。
② イエスさま:戸を開けることなく入って来られた
v19「平安があなたがたに」 ※「あるように」は補足で、原文にはありません。
*「平安」とは= 神との親しい関係における幸いな状態のこと
単に気分の穏やかさなどを意味しているのではありません。
③ 弟子たち:イエスさまに再会し喜んだ(v20)
恐れと不安の中にあった弟子たちは、実際にイエスさまに再会したことで喜びました。
しかし、この喜びは感情的なものでした。
④ イエスさま:責めることなく使命を与えられた(v21)
イエスさまは、弟子たちに裏切られ、見捨てられたことなどを責めることもなく、
それを話題に持ち出すこともありませんでした。
イエスさまが、弟子たちのところへ姿を現わされたのは、彼らの罪を責めて追い詰め、
復讐するためではなく、立ち直らせ、使命に生きるようにするためだからです。
使命に生きる力は「平安」(神との親しい関係にある状態)によってが与えられます。
なので、わざわざ「平安があなたがたに」と言われたのです。
2.翌週(20:26)
① 弟子たち:閉じこもっていた(v26)
*理由 ⇨ 恐れと後悔
② イエスさま:戸を開けることなく入って来られた(v26)
デジャヴかな?と感じるような・・・まったく同じ状態が繰り返されました
ここまでのまとめ
❶ 弟子たちの “喜び”(v20)は一時的なものだったことがわかる。
⇨ 日曜日にしかイエスさまに会っていないし、日曜日しか喜んでいない
(サンデークリスチャン的な状態)
❷ 戸を開けることなく入って来られたイエスさま
⇨ 復活のからだの性質を表すだけでなく、“鍵を開ける”という行為は弟子たちがするべき応答だったから。・・・それが21章の出来事
ここまでは「逃げずに向き合う」機会を与えられたイエスさまのかかわり
3.さらに翌週 ガリラヤでの再会(21:1~14)
① 弟子たち:ガリラヤ湖で漁をした
理由 ⇨ 不安と後悔
(どのような不安であったかは後ほど・・・)
v2 ペテロ、トマス、ナタナエル、ヤコブとヨハネ、他ふたり
=7人 ⇨ 全員ではなかった。
一致していない状態での行動。
v3「私は漁に行く・・・私たちもいっしょに行きましょう」
おそらく漁師出身の弟子が湖へ行った?
漁に出かけた理由は不安を払拭するため
⇨ 今後、どのように生きていくかを考えた時、魚を捕るという得意としている技術を生かそうと考えた。(彼らの不安は生活・将来の不安)
*自分で考え、自分で決め、自分で自分の生活の安定と安心を得ようとしている。全く神に頼っていない状態です。
② イエスさま:岸辺に立ち、語りかけた(v5)
*かつてのように水の上を歩いたり、船の中に現れることはなかった。
v5「食べる物がありませんね」
これは文字通りの質問ではなく、弟子たちの “求めているもの” 、“心配していること” を明らかにする(自覚させる)ための問いかけです。
③ 弟子たち:問いかけに素直に応じる(v5)
しかし、”現状” を認めただけで、自分の無力さという問題の ”本質” には気付いていない
④ イエスさま:問題解決の手引きと約束を与える(v6)
⑤ 弟子たち:指示通り行動し、大漁に驚く(v6)
ここまでのまとめ
❶ 二つの奇蹟と祝福
v3「その夜は何もとれなかった」のも奇蹟であり祝福。
私たちは祝福=豊かさ、満たされる と思い込んでいるふしがある。
しかし、望んでも ”与えられない” という祝福もあるのです。
❷ ガリラヤへ行った理由は ⇨ マタイ28:10
弟子たちはガリラヤで何をすべきだったのか・・・
⇨ イエスさまとの再会を待つ
… 漁師に戻る、魚を捕るためではないのです。
❸ 何も取れない ⇨ 取れないはずの条件下で大漁は ルカ5:1~11の再現
かつて弟子たちは似たような体験をしました。
しかもそれは、ペテロが弟子として召された時でした。
*この体験は、あの時の召命と決意を思い起こさせ、立ち返らせるための再現だったのです。
ここまでは「束縛⇨解放」する機会を与えられたイエスさまの関わり
4.食事の後 踏み込んだ関わり(21:15~)
① イエスさま:「この人たち以上に、わたしを愛(アガパオ―)しますか」(v15)
ペテロ:「私があなたを愛(フィレオ―)することは、あなたがご存じです」
競争心と自信の強かったペテロは、かつてこのような大胆発言をしていました。
マタイ26:33「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」
・・・あの時の自信は本物だったのか?
熱意だけではなかったか? …と心を探らせるための問いかけです。
…ちなみに
*「この人たち以上に」とは … “これらよりも” という意味。(人を示してはいない)
⇨「漁師として生きることよりも、主を愛するか」という問い掛けともとれる
② イエスさま:「あなたはわたしを愛(アガパオー)しますか」(v16)
ペテロ:「私があなたを愛(フィレオー)することは、あなたがご存じです」
すっかり自信を無くしていたペテロに、誰と比較するでもなく「あなたは」どうかと再度問われました。
ペテロの返答の意味
ここまで「アガパオー」に対して「アガパオー」で答えず(答えることができず)
「フィレオー」で答え続けたペテロ
►「アガパオ―」は、一方的な、犠牲的な愛。神の愛を指します。
►「フィレオ―」は、友情、友愛、双方向の愛。
互いに愛が釣り合っていることで成り立つ愛。
ペテロが「フィレオ―」にこだわったのは、
双方向なら = イエスさまが愛してくださるなら、愛します。私の内に愛が無いことはイエスさまがご存じですから、という心情が現れている返答なのです。
③ イエスさま:「わたしを愛(フィレオー)しますか」(v15)
ペテロ:心を痛め・・・「私があなたを愛(フィレオー)することを知っておいでになります」
三度目にはイエスさまも「フィレオ―」で問いかけています。これは…
イエスさまが「フィレオーでいいよ」と、ペテロの弱さに寄り添い、そこから始めるよう召されたということです。
それじゃだめだとは言われなかったのです。
へブル4:15~16「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。…ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
ここまでのまとめ
❶ ペテロの自信の無さは “後悔と不安”
【後悔】・・・ イエスさまを三度否んだこと
【不安】・・・ 赦されるだろうか
⇨ もう弟子として戻れないのではないかとの思いから自信を無くしていた
❷ 三度繰り返された同じ問い
ペテロが三度否んだことを思い起こさせる繰り返し
…しかし、これは嫌味や当てつけなどではありません。
三度繰り返すことでその踏み直しをさせたのです
また、ペテロ自身が自分を赦せれない思いを手放すためにもこの対話は必要でした。
"誰か" に対しても "自分" に対しても ”赦すことのできない思い" を持ち続けるなら、
それも ”復讐” していることと同じなのです。
ローマ12:19「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」
*「任せなさい」・・・“場所を空ける” の意味。
何の ”場所" を ”空ける” のかというと、どのようなさばきを下すかを「自分が決める」という決定権を持つこと(=権威の座)を降りて、主なる神に明け渡す(譲る)ことです。
心を開くというのも、この「任せる」ということが関係してきます。
❸ なぜ「愛しますか」⇒「わたしの羊を飼いなさい」だったのか?
ルカ5章の召命「人間になる漁師にしてあげよう」を思い起こさせ、決心を新たにするため
⇨ “関係の回復” と “元に戻す” ことが目的の対話だった。
あるべき位置に戻すことが “赦し” だから。
ペテロにとっては、「わたしの羊を飼いなさい」というすでに与えた使命を確認する
招きのことばは、「赦します」ということば以上に ”赦し” を確信するものだったのです。
参考)ルカ15:11~24に記されている放蕩息子の話にも、この原則が示されています。
父親は帰って来た息子に対して「赦す」ということばは使っていませんが、「雇人のひとりにしてください」と願った息子に、”息子”として戻しました。
その ”立場の回復”、”関係の回復” が ”赦し” だからです。
逆に、ことばだけ「赦す」と言っても、相手を "立場(関係)の回復" を実行しないなら、相手は赦してもらえた実感はわかないでしょう。
ここまでは「関係の見直し」する機会を与えられたイエスさまの関わり
④ しかし年を取ると…(v18~19)
21:3「私は漁に行く・・・私たちもいっしょに行きましょう」という生き方を捨てる決心への促しです。
⇨ 今後、どのように生きていくかを考えた時に、魚を捕るという ”得意分野” や ”身に付けた技術” を活かす道を選ぶのではない。それは自分の力に頼ることだから。
自分で考え、自分で決め、自分で自分の生活の安定と安心を得ようとする生き方ではない
人生を歩むことこそ、みこころとして示された道だと教えて下さったのです。
これは、自由が無い窮屈な人生がまっていることを意味するのではなく、むしろ・・・
老年になってもなお主の証人であり続けることの約束
神の栄光を現す者となるという約束
…でした。失格者だと落ち込んでいる者へのこれ以上ない慰めと励ましなのです。
⑤ あなたに何の関係がありますか(v21~22)
ペテロがこの時、どのような心境からヨハネのことを尋ねたのかわかりませんが…
人のことばに振り回されず、自分を見失わずに主に従うには、主との関係を深めることが大事であること、
主との関係に誰も入り込むことはできない …例)人を介した信仰
さばく
…これらのことを教えるために、厳しいことばを告げられたのです。
ここまでは「ささげる」者になる決心を促されたイエスさまの関わり
むすび
1.心を閉ざす原因の一つに “赦せない心” がある
① 誰かに対する赦さない思い
② 自分を赦せない思い
2.赦す基準を自分で定めている
① ルカ17:3~4を読みましょう。
v3「戒めなさい」⇒「そして悔い改めれば、赦しなさい」
・・・ここから、悔い改めたら赦す、と解釈する人もいます。
では、悔い改めなければ赦さなくていい、ということでしょうか?
もちろん、そうではありません。
v4「『悔い改めます』と言って」
⇨ 悔い改めた態度(実績)を確認してからではなく「言った」つまり “告白” の時点で赦すのです。
v4「七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい」
そんな告白だけじゃ信じられない、と思うかもしれませんが、なぜ「言った」時点で赦さなければならないのかというと…
「来る」のは、“関係” があるからこその行動だからです。相手はあなたとの関係の修復と継続を願っているから「来る」のです。
② マタイ5:23~24を読みましょう。
赦すことができない思いを握りしめたままで、礼拝をささげることはできません。
なぜなら、キリストの贖いによって、神と私の間の隔ての壁が取り除かれただけでなく、私と他者との間の隔ての壁も打ち壊されたからです。(エペソ2:14~22を参照してください)
あなたは “あるべき場所” に戻っているか?
赦すことのできない思いはありませんか?
❐自分に対して
過去の失敗を思い返して、いつまでも自分を責め続けていませんか?
"悔い改め" ではなく"後悔" しつづけていることはありませんか?
❐誰かに対して
過去の事をいつまでも根に持っていませんか?
関わりを断つという方法で "赦す" ことから逃げていませんか?
被害者意識を持ちすぎていませんか?
これらの思いがあるなら、この機会に心を整頓しましょう。
次回へ続く