イザヤ書6章 | 聖書が読みたくなる学び

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*1節を読みましょう。

 「ウジヤ王が死んだ年」とは、BC542頃のことです。ウジヤ王治世下は、ソロモン王治世下に次ぐ繁栄をした時代でした。

Ⅱ歴代誌26:6~10(抜粋)「彼は出陣してペリシテ人と戦ったとき、・・・ペリシテ人たちの間に、町々を築いた。…アモン人はウジヤのもとにみつぎものを納めた。こうして、彼の名はエジプトの入口にまで届いた。その勢力が並みはずれて強くなったからである。ウジヤはエルサレムの隅の門、谷の門および曲がりかどの上にやぐらを建て、これを強固にし、荒野にやぐらを建て、多くの水ためを掘った。」

同 15節「さらに、彼はエルサレムで、巧みに考案された兵器を作り、矢や大石を打ち出すために、やぐらの上や城壁のかどにある塔の上にこれを据えた。こうして、彼の名は遠くにまで鳴り響いた。彼がすばらしいしかたで助けを得て強くなったからである。」

 しかし、16歳から52年続いたウジヤ治世は、突然終わりを迎えました。上記の通り、国内外に影響を及ぼすほどの成功をおさめたことにより、ウジヤ王の心は高ぶっていきました。そしてその高ぶりが招いた出来事によって主に打たれ、ツァラアトに冒されたため、死ぬまでの七年間を隔離された場所で過ごさなければならなくなったのです。そのことが上記の聖句の続きに記されています。

 さらに、ウジヤ王とイザヤとの関係についても、Ⅱ歴代誌に記されています。

Ⅱ歴代誌26:22「ウジヤのその他の業績は、最初から最後まで、アモツの子預言者イザヤが書き記した」

 イザヤは、ウジヤ王に近い位置から、王の良い所も悪い所も直接見て知っていた人物です。

 その「ウジヤ王が死んだ年」に、イザヤは預言者として召し出されました。しかし、この時に初めて召しを受けたのではなく、すでに召しを受けていて、預言者としても活動していたけど、改めてここで召命を受けていると考える解釈もあり、私はややその解釈寄りです。

「私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た」

 神さまが幻を示してくださる時には、いつも同じではなく、その時の状況に合わせた現れ方をされます。ここでは、52年続いたウジヤ政権の終わりに落胆するユダの情勢に対して「王座に座しておられる主」という姿を見せることで、人間の王は移り変わるけれど、真の王は永遠に変わらないこと。そして、ダビデ王朝の王たちをも支配する王がおられ、それは主なる神であることを示されたのです。

「そのすそは神殿に満ち」

 ここでの「すそ」とは、“栄光” や “権威” などを意味することばで、幻が現れた時に、神殿が主の栄光で満ちた様子を示しているのだと思いますが、それだけでなく、ウジヤ王が晩年犯した罪が権威の乱用と神殿を汚す罪だったことから、神殿は主のものということを示す意味もあったのではないかと思います。

*2~4節を読みましょう。

「セラフィムがその上に立っていた」

 「セラフィム」(セラフの複数形)とは、「聖なる、聖なる、聖なる」と叫んでいるように “聖め” に関係する御使いで、六つの翼を持っているのですが、「二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んで」いる様子が描かれています。これは、“聖め” を司る御使いが直視できないほど、主なる神は聖いお方であること、あるいは、聖い神の前ではこのように畏れ称えよとの姿勢を示しているものと思われます。

「敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた」

 セラフィムの叫びと共に、地鳴りのような地震のような体感するような振動と、宮中が栄光で満たされる様は、イザヤに畏怖の念を生じさせました。

*5節を読みましょう。

 このような特別な体験をしたイザヤの第一声は「すばらしい!」とか「ハレルヤ!」とかではなく、自分を卑下することばでした。

「ああ。私は、もうだめだ。」

 おそらく、今までは知識の上で知っていた(知っているつもりだった)主の聖さを、この幻によって目の当たりにした時、自分はわかっていなかった…実は何も知り得ていなかった…と思い知らされたのだと思います。

 では、なぜ神さまはこのタイミングでこのような幻を見させられたのか?

 5章まで学んできましたが、イザヤは罪を悔い改めようとしない民に対して毅然とした態度で厳しく語っている印象があります。例えば、涙と共に語るエレミヤのように、罪人に対する深い “悲しみ” や “あわれみ” はあまり感じられず、罪に対する “怒り” や ”正義感” の方が強く感じられる預言者です。罪に対して怒るのは正しい感情ではありますが、それが行き過ぎると “さばき心” となり、いつのまにか自分が罪を犯している・・・なんてことになることもあるのです。

 この幻を見たことで、イザヤはこのように告白しました。

「私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。」

 ここで、「汚れ」の代表として「くちびる」が挙げられているのは、みことばを取り次ぐ者(預言者)として「自分はふさわしくない」という自覚を持ったことを意味しています。神からの御告げを語っているつもりで、いつの間にか自分の感情を載せて語っていたことに気付かされたのです。そして、自分も頑なで神を忘れている民のひとりではないか…と気づかされたのです。 この体験は、イザヤを砕くためのものでした。

 自分も同じ罪人で、ただ主なる神のあわれみによって救われた。だから、神のあわれみに期待してとりなし祈り、憐れんでくださっている内にすがって悔い改めるよう呼びかける。そのような働きをするために、イザヤは神の聖さの前に畏れ、へりくだることを体験する必要があったのです。

*6~8節を読みましょう。

 恥をかいたり、痛い思いをしたことが “失敗” や “失望” で終わるか、“砕かれ”、“へりくだり” となって益とされるかは、その後の対応によって変わります。

 5節の告白の後、イザヤの口に「祭壇の上から・・・取った燃えさかる炭」が触れられました。これは、神殿内でささげられた “いけにえ” の炭です。

「あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた」

 この「炭」「口に触れ」るという体験は、いけにえをささげるという儀式(行為)が人を罪からきよめる(救う)のではなく、主の成し遂げてくださる贖いだけが罪人を救う唯一の方法であり、主を知り、主を恐れる者を、主はきよめてくださるということ、聖めは人の内(意思、意欲、行い)からではなく外(神)から与えられるものであることを教えるためのものでした。

 そして、主の聖さと自分の罪深さと愚かさを思い知らされたイザヤに、改めて救いが告げられたのは、神さまは罪人を滅ぼしたいのではなく、救いたいと思っておられることを知らせるためです。だとしたら、イザヤはここで落ち込んでいてはいけないし、民に対しても “さばき心”から “滅び” を告げるのではなく、“あわれみの心” をもって “救い” を求めるよう呼びかける者となる決心を促すためです。

「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」

 ここはイザヤの召命の場面ですが、イザヤ個人を名指して「あなたを遣わす」とは言っておられないのです。あくまで、イザヤの自発的な決心を求めておられる呼びかけなのです。なので、イザヤはここで呼びかけに応じる or 応じない、どちらの選択もできる状況でした。もし、5節の告白止まりであれば、イザヤは招きに応じることはなかったでしょう。

「ここに、私がおります。私を遣わしてください」

 いつまでも「ああ。私は、もうだめだ」という自覚にとどまり続けることは、信仰でも謙遜でもありません。イザヤのように招きに応じることが、赦しと救いを体験した者としての責任であり使命です。

*9~11a節を読みましょう。

 改めて主の働き人として生きる決心をしたイザヤに告げられたことは、前途多難であるけれど、語り続けなさいという命令でした。

「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。」

 神さまが民に望んでおられるのは「聞き続け / 見続け」ることです。しかし民の反応は「悟る」ことも「知る」こともないほどに、心を頑なにし続ける・・・そのことを主は知っておられる、ということを示しています。10節は、その頑なさがどれほど徹底したものであるかを語っています。

 このようなことを事前に聞かされたら・・・じゃぁ語るだけ無駄じゃないか、という思いに至りそうですが、イザヤはそうではなく「主よ、いつまでですか」と、さらに先には何が待っているのか、もしくは、神さまはいつまで頑なな民に忍耐してくださるのかを尋ねたのです。これは大事なことです。以前にもお話したことですが、伝道に効率性や生産性を求めてはいけないのです。ムダと思われること、無意味と思われることこそ、神さまの方法であったりするのです。この世の賢さを求めるようなやり方ではなく、神さまが何を求めておられるかに従うことが大切なのです。また、やる前からマイナス要因ばかりに目を留めて、やらず終いにするようなこともないようにしましょう。神さまが働き人を必要としておられるのであれば、その働きにおける責任も力も、必ず添えて与えてくださるのですから、何も怖気づくことは無いのです。

*11b~13節を読みましょう。

 「町々が荒れ果て・・・」とは、エルサレムがバビロン軍によって陥落させられることを示し、「人を遠くに移し」とは、ユダの民が捕囚となってバビロンに連行されることを示しています。このようにして「人がいなく」なるので、土地も家も管理されず、荒れ果てるままになるのです。

 「十分の一が残るが、それもまた焼き払われる」とは、バビロン捕囚が段階的に行われることを意味し、一回目の捕囚で免れたとしても、二回目、三回目と続くので、免れることはできないことを示しているのです。この段階を経て実行されるのも、神さまのあわれみなのです。みことばの警告が実現した様を見て、悔い改める時を備えてくださっているのです。だから民がしなければならないことは、逃げ隠れる方法を探ることではなく、主を恐れて悔い改めることなのです。

 そして、このような出来事はバビロン捕囚だけを指すのではなく、AD70のローマによるエルサレム陥落、さらには終末の時代に起こることも重ねて預言されています。…そのような意味で、聖書の記述は歴史の記録ではなく神のことばであり、当時の人たちだけではなく、すべての時代のすべての民族が知らなければならないメッセージなのです。

ローマ15:4「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」

伝道者1:9「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。」

 みことばが、すべての時代のすべての民に必要であるならば、それを語り継ぐ人も必要です。

分裂王国時代と捕囚の歴史は、北イスラエルと南ユダにとっては最も暗い時代でした。しかし、そのような時代にも、神さまは信仰に立つ “残りの民” を備えてくださり、彼らを守ってくださるのです。それが13節の最後で語られていることです。

 

では、6章を読みましょう。 

   ・・・最後にお祈りしましょう。