ルカの福音書6:39 | 聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
…時に苦く、時に甘く、時にしぶい内容を自由に書き込みます

*39節を読みましょう。

「盲人に盲人の手引きができるでしょうか」

 これは “罪人” の状態を「盲人」に例えて教えられている場面です。

 私たちが “罪人” と言った時に想像するのは、いわゆる “犯罪者” であったり、“人の道を外している人” などでしょう。しかし、聖書は「盲人」のようなものだと教えています。どんな点が似ているのでしょう?

① 目が見えない = 自分の本当の姿を知らない

 生まれつき盲目の方は、自分の顔を鏡や写真で見ることができないので、自分の顔を知りません。それと同じように、人間は、自分のことを知っているようで知らないのです。しかも、そのことに気付いていません。自分で思う自身の長所や短所と、他の人があなたを見た時の長所や短所は違っているものです。そして、なにより知らないことは、自分が神の前に罪人であるという事実です。そこそこまじめに生きてきた、誰にも迷惑かけていない…など、自分は完ぺきではないけれど、最悪でもないと思い込んでいる人は多いのです。しかし、神さまの罪人の基準は “0か100か” ではなく、“0か1か(有るか無いか)” なのです。

② 目が見えない = 自分が暗やみにいることを知らない

 生まれつき盲目の方は、自分の周囲の環境がどんな世界であるか知りません。それと同じように、罪人は、自分を取り巻く環境が “暗やみ” であることを知りません。人は、罪人として生まれてくるだけでなく、罪の世界に生まれ育っていきます。目が見えないので、暗やみの世界に生きていることを認識できませんし、暗やみだから目が見えないことも認識できない、という状況。それが罪人の姿です。

③ 目が見えない = 正しい道を歩めない

 生まれつき盲目の方は、環境がわからないので、自分一人で行動することができません。先が見えず、危険も察知できないからです。それと同じように、罪人は、確実な将来がわからないので不安になり、危険を回避する力が無いので罪に陥るのです。ここで「手引きができるでしょうか。ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか」と言われているのは、自分の人生さえ不確かなのに、他者を偉そうに導くことなどできないし、むしろ、共倒れしてしまう、という意味です。

 このことは、私たちが “目の見える方” によって手引きされ、教えられなければならない、という根本的な必要があることを教えています。その “目の見える方” とは、イエスさまです。

 では、イエスさまはどのように導いてくださるのか、先ほどの①~③を振り返りながら見ていきましょう。

① 本当の自分を教えてくださる方

 聖書によって初めて知らされる事実があります。代表的なものを挙げますと…

   a「あなたは、創造主である神によって造られた」という事実。

 b「あなたは、神の目に高価で尊い、とても価値のある存在」という事実

 c「すべての人は神の前に罪人である」という事実

   d「神はすべての人が救われることを望んでおられる」という事実

② 暗やみの世界に唯一の光として来られた方

 世の中には華やかで楽しそうに見えるものもあふれていますが、そこに本当の満足は無く、その実態は、罪のあふれる “暗やみ” の世界なのです。しかし、私たちは罪人として生まれて来たので、その暗さがわからないのです。その事実は、キリスト(あるいは聖書)という “光” に照らされて初めて知らされるのです。

 暗やみで罪を楽しむ生活を送っている人間は、その事実を知らされることを嫌います。次のみことばにある通りです。

ヨハネ3:20「悪いことをする者は光を肉に、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。」

 しかし、イエスさまは、暗やみの世界で空しく一生を終え、滅んでしまう結末ではなく、光に照らされることで示された罪を認め、悔い改め、罪の赦しと永遠のいのちを頂いて、光の中を生きることを望んでおられます。

ヨハネ8:12「イエスはまた彼らに言われた。『わたしは世の光です。わたしに従う者は決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』」

 そして、いのちの道を生涯共に歩んでくださる導き手なのです。

 

*お祈りしましょう。