*1~3節を読みましょう。
7:14で告げられた “しるし” としての「男の子」が誕生します。この子は、7章では「『インマヌエル』と名づける」と言われていましたが、ここでは「『マヘル・シャラル・ハシュ・バズ』と呼べ」と言われています。…あれ? 言っていることが変わっているじゃないか…と思われたかもしれませんが、もちろんそうではありません。「インマヌエル」も「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」も、ユダに対する “メッセージ” です。しかも、それぞれのことばの意味は、一方は幸いを示し、もう一方は災いを示します。どちらを選ぶのかは、ユダ次第なのです。
*4節を読みましょう。
「この子がまだ『お父さん。お母さん』と呼ぶことも知らないうち」とは、7:15に出て来た表現と同じで “2~3年の内に” という意味です。
「ダマスコ」はアラムの首都、「サマリヤ」は北イスラエルの首都です。その両国がこの2~3年の内に「アッシリヤ」によって侵略され、財宝を略奪されると告げています。これが「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」(速やかな/分捕り品/急速な戦利品)の示す意味です。
アラムと北イスラエルに対抗し、アッシリヤと手を組む南ユダにとっては好都合な喜ばしい御告げに聞こえたでしょう。しかし、このさばきは南ユダの姿勢を肯定するものではありません。南ユダも、神に立ち返ることをしないでアッシリヤに頼り続けるなら、さばきを免れることはできないことを告げられます。
*5~6節を読みましょう。
「この民」とは、南ユダのことを指し、その罪が指摘されます。
「シロアハの水」とは、ギホンの泉からシロアムの池にまで続く水路のことで、エルサレム住民の生活を担っている大事な水源ですが、その流れは「ゆるやかに流れる」と表現されている通り、それほど目立つ存在ではありませんでした。ここでは、日常生活、特に毎日の “いのち” を支えるほど重要であるのに “目立たない” という「シロアハの水」の特徴を、主なる神の恵みになぞらえて、民はそれを「ないがしろに」したという表現をもって、神を求めず、違うものに頼ることは、“いのち” に関わる重大な過ちを犯すことだと告げているのです。
しかし、なぜ南ユダは神に頼ろうとしないで、アッシリヤに頼り続けようとするのかというと…
「レツィンとレマルヤの子を喜んでいる」
「レツィン」は、アラムの王のこと、「レマルヤの子」は、北イスラエルの王ペカのことで、この二国がアッシリヤに侵略されている様を見て「喜んでいる」。つまり、自分たちの判断は間違っていなかったと確信し、神を「ないがしろにして」、アッシリヤに頼り続けようとしたのです。
*7~8節を読みましょう。
「それゆえ」と、南ユダの悔い改めの無さゆえに起こるさばきが告げらます。
「見よ、主は、あの強く水笠の多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と・・・彼らの上にあふれさせる」
ここでは、大河ユーフラテスを大国アッシリヤに見たてています。その大河が氾濫し、土地を飲み込んでしまう様子を描写して、味方と思っていたアッシリヤが、なんと南ユダをも攻略しようと押し寄せてくることが告げられます。「首にまで達する」とは、アッシリヤの侵略行為が情け容赦のないものであることを示しています。
しかし、ここで「インマヌエル」の約束が語られるのです。
「インマヌエル」とは、“神が私たちと共におられる” という意味ですが、危機的状況下においても主は共におられることを示す約束です。これは、アッシリヤ侵攻による “さばき” は、ユダを滅ぼすためのものではなく、悔い改めて立ち返るための “懲らしめ” であることを示しているのです。
この「インマヌエル」の約束は、ヒゼキヤ王治世下に成就しました。その時、エルサレムはアッシリヤに包囲され、連日、アッシリヤ軍による脅迫の演説が繰り返されていました。王と民は、心理的に追い詰められていましたが、その中でヒゼキヤ王は主に立ち返って助けを求めたのです。
Ⅱ列王記19:19「私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知りましょう。」
すると神は祈りを聞かれ、アッシリヤの手からユダを救い出してくださったのです。
Ⅱ列王記19:20、35「アモツの子イザヤはヒゼキヤのところに人をやって言わせた。イスラエルの神、主は、こう仰せられます。『あなたがアッシリヤの王セナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた。』・・・その夜、主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で十八万五千人を打ち殺した。」
アラムと北イスラエルの敗北を見て喜んでいたアハズ王は、このインマヌエルの約束を体験することなく亡くなりました。その結末を反面教師として、主に立ち返ることを「ないがしろ」にしないようにしたいです。
*9~10節を読みましょう。
ここでは、アラム、アッシリヤを含む諸外国がどんなに綿密に計画してユダを攻めたとしても、決して滅ぼし尽くされないことが語られます。それこそが「インマヌエル」の約束なのです。なぜならば、「インマヌエル」とは、敵国からの救出ではなく、罪からの救いを与える救世主がユダから起こされるという約束だからです。
イスラエルとユダに起きる滅びの危機は、この時限りのことではなく、この後も何度も起きました。人間的には滅亡したように思われた時もありましたが、どの時代にも必ず残りの民が備えられ、再建を果たしているのです。そして、この時から約700年後に、真の「インマヌエル」を意味するキリストが誕生するのです。
※10節の「神が、私たちとともにおられるからだ」とは「インマヌエル」と同語です。
*11~13節を読みましょう。
ここからは、イザヤに対する主の語り掛けです。
「この民の道に歩まないよう」にと、戒めを与え、具体的に離れるべき「民の道」について語られます。
「この民が謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな」
民は、罪を指摘し、さばきを告げ、悔い改めを迫るメッセージを語るイザヤの行動を「謀反」を起こしていると考えました。なぜなら王は、神ではなく外国に頼ることで国を守ろうとしていたからです。それを真っ向から反対し断罪することは、王への反逆と受け取られたのです(伝承では、イザヤはユダの王によって処刑されて殉教死しています)。しかし、そのような世間の批判に負けてはいけないと、神はイザヤを励ますのです。
「この民が恐れるものを恐れるな。おののくな」
民が恐れていたものは “人” です。敵を恐れ、王を恐れ、世間体を恐れたので、正しい判断ができず、流されることを選んだのです。人を恐れることの危険を、聖書は次のように語っています。
箴言29:25~26「人を恐れるとわなにかかる。しかし、主に信頼する者は守られる。支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし人をさばくのは主である。」
「万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、・・・おののきとせよ」
「聖なる方とし」とは、“他と区別する” という意味です。このように言われているのは、アッシリヤの王がヒゼキヤ王に対して語った非礼極まりない内容を見ると、よく意味が分かるでしょう。
Ⅱ列王記19:10「おまえの信頼するおまえの神にごまかされるな。おまえは、エルサレムはアッシリヤの王の手に渡されないと言っている。おまえは、アッシリヤの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを聞いている。それでも、おまえは救い出されるというのか。…その国々の神々は彼らを救い出したのか。」
当時のアッシリヤの勢いはすさまじく、周辺諸国を次々と侵略しては支配下におき、領土を拡大していました。その戦果を誇り、どの国にも崇拝する神々がいるが、どの神々もアッシリヤから救い出すころはできなかったことを挙げて、ユダ(ヒゼキヤ王)の信仰する神も同様にアッシリヤの前には無力だろう、と嘲笑している場面です。要するに、主なる神を異教の偶像たちと同様に見なしてののしっているのです。このアッシリヤの罵りに、ユダの民も慄いていたのですが、「イザヤ、あなたはそうであってはならない」と戒めと共に励ましているのです。
*14~15節を読みましょう。
「そうすれば、この方が聖所となられる」
「そうすれば」とは、“主を恐れる” ならば、ということで、「聖所」とは、一般的には “エルサレム神殿” のことを指しますが、もともとの意味は “主がおられる(臨在する)所” を意味します。
「この方が聖所となられる」とは、“神殿” が失われることと、神殿を失っても主は臨在されるということを示しています。では、どこに臨在されるのでしょう? …主を恐れる者の中に臨在される(共にいてくださる)というのです。
これは素晴らしい約束なのですが、イスラエル・ユダの民にとっては「つまずき / わな / 落とし穴」となるのです。
「イスラエルの二つの家」とは、北イスラエルと南ユダを指し、その中でも特別に「エルサレムの住民」が名指しされているのは、神殿のある町だからです。彼らにとって “神がおられる場所” である神殿とエルサレムは決して滅ぼされないと考えていました。しかしそれはある意味 “神殿” に対する信仰であり、間違った信仰でした。なので、神さまは彼らの拠り所としていた “城壁” と “神殿” を崩壊されたのです。それはイスラエル・ユダの民、特にエルサレムの住民にとって「うそでしょ…」と、信じがたい出来事だったのです。
*16節を読みましょう。
再び神さまがイザヤ個人に成すべきことを語り告げます。
「このあかしをたばねよ。このおしえをわたしの弟子たちの心のうちに封ぜよ」
「このあかし」とは、教え聞かされたことを意味し、“イザヤが聞いた御告げ” のことで、「このおしえ」とは、みことばを意味するので “昔から語り伝えられてきたこと” (この時点での聖書)のことです。
「わたしの弟子たち」とは、後の時代の人々を指し、この約束(預言)がイザヤの時代だけでなく将来にも関係するものであることを示しています。
「たばねよ」、「封ぜよ」とは、みことばを “覚える” ことや “心に蓄える” ことなどを意味し、すべての時代において、人のことばや思想ではなく “みことば” に根拠をおくことを命じています。 この命令を受けて、イザヤが応答します。
*17~18節を読みましょう。
「私は主を待つ・・・私はこの方に望みをかける」とは、イザヤの信仰告白です。12節で人々の声や世間の反応に惑わされないようにと警告されたことを受けて、このように答えているのです。
「ヤコブの家から御顔を隠しておられる方」とは、今後起こる “わざわい”(さばき)は、人間の側からは、“主はいなくなってしまった”、あるいは “主に見捨てられた” と感じるようなショックな出来事(エルサレム陥落・神殿崩壊)であるけれど、その最中でも、主は “主を恐れる者” と共にいてくださるので、主に「望みをかける」と決意を表明しています。
「主が私に下さった子たちとは、・・・イスラエルでのしるしとなり、不思議となっている」
「私に下さった子たち」とは、イザヤの息子「シェアル・ヤシュブ」と「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」のことです。それが「しるしとなり、不思議となっている」とは、その息子らの名に示されたこと “残りの者は帰る”(シェアル・ヤシュブの意味)、つまりイスラエルの回復と “速やかに略奪される”(マヘル・シャラル・ハシュ・バズの意味)つまりアラムと北イスラエルは滅ぼされるというメッセージは、必ず成就する預言(信じるべきことば)であるということを示しています。
*19~22節を読みましょう。
ここでは、16節で「あかしをたばね・・・おしえを・・・心のうちに封ぜよ」と命じられていたことの意味が語られています。
当時の人々は、“みことば” ではなく「霊媒 / さえずり / ささやく口寄せ」といった占いやオカルト的な手段で未来を予知しようと試みることが普通に行われていたようです。しかし、その背後にはサタンの働きがあります。サタンは人を神から引き離すために懸命になっているので、人々にとって真実を告げるはずがなく、むしろ人々が喜ぶことや、受け入れやすいことを告げ、だまします。また、尋ね求める側の人間も、自分にとって都合の良い回答を求めるので、需要と供給が合致すれば・・・それを受け入れてしまうのです。しかし、信じたいものを信じたからといって、その事が成るわけではありません。だからこそ、「おしえとあかしに尋ねなければならない」と言われているのです。
そもそも、さばきが告げられているのは、イスラエルとユダが神の前に罪を犯したからです。原因は人間の側にあるのに、神さまは悔い改めを呼びかけ、関係の回復(和解と救い)を備えてくださり、それを選び取るようにと招いてくださっているのです。そのメッセージは「おしえとあかし」(=みことば)の中に示されているのです。だからこそ「おしえとあかしに尋ねなければならない」のです。しかし、「おしえとあかし」(=みことば)を軽んじるなら、「その人には夜明けが無い」と言われているように、滅びを身に受けるのです。しかしここで「その人には」と言われている点は重要で、各々、自分の罪の責任を負うのであって、他人の罪を負うことはできないし、負わせることもできないのです。・・・という意味では、「〇〇に属しているから大丈夫」とか「みんなやっているから大丈夫」ということではなく、個人的に応答することが必要であることを示しています。信仰と救いは個人的なものであり、神との関係も個人的なもの(誰かを介したものであってはいけない)のです。
では、8章を読みましょう。
・・・最後にお祈りしましょう。