ルカの福音書6:6~11 | 聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
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*6~7節を読みましょう。

 先回に引き続き、「安息日」に起きた出来事で、「安息日にしてはならないこと」をめぐるお話が記されています。

 ここに登場する「右手のなえた人」とは、おそらく生まれつき右腕が短いという身体的特徴をもつ人で、それ故に、不自由な生活を送らざるを得なかった人、と思われます。そのような人が、安息日にイエスさまが語っておられる会堂に集っていたのです。しかし、「イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった」と、律法学者とパリサイ人が良からぬ思いで注目していたことを考えると、イエスさまが説教をする時に合わせて連れて来られたのかもしれません。

 先回の「安息日にしてはならないこと」は、“脱穀” という作業(労働)に相当する、というような言いがかりでしたが、今回の場合は、右手の障害を治したなら、“医療行為” に相当する、と訴えようとしていたのです。医療行為は大切な事なのに、そんなことが律法違反になるの?…というと、当時、急を要しない治療などを施すことは律法違反とされていました。この人のような、生まれつきの障がいは “今すぐ” 直さなければならないものではない、と判断されるので、もし、この人を直すようなことがあれば律法違反者として捕らえることができると機会を伺っていたのです。しかし、医療行為に当たるかどうかなどは律法に明確に示されていることではなく、人間が作ったルールでした。もちろん、聖書に明確に記されていないことは、“原則” から判断することは大切ですが、誰かを陥れるために聖書のことばを利用することは “悪用” であって、神さまの望まれている事ではありません。

*8~9節を読みましょう。

 なので、イエスさまは、あえて右手のなえた人に注目させ、律法学者とパリサイ人たちに “聖書は何を語っているのか” を問い掛けられました。

「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか」

 まず、「安息日」については出エジプト記ではこのように命じられています。

出エジプト20:8「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」20:8

 つまり、「安息日」は、「聖なる日」として過ごすことを命じられているのです。この「聖」とは、“キレイ” などの意味ではなく、“神のものとして取り分ける” という意味があります。「安息日」を、神さまを礼拝する日として、平日とは区別した過ごし方をすることであり、罪の奴隷であった自分はイエスさまの血によって贖われ神さまのものとされた、という事実を認めて感謝し、そのような自覚を持って喜ぶ日であるのです。そのような原点からイエスさまの問いかけを考えてみると、「安息日にしてよいのは、善を行うこと」であり「いのちを救うこと」であるのです。

 この話は、マタイの福音書にも記されていますが、マタイの方ではもう少し詳しいやりとりが記されています。

マタイ12:11~12「イエスは彼らに言われた。『あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値打ちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは正しいのです。』」

 安息日だからといって、穴に落ちた羊を助けてあげることを後回しにする人はいないでしょう。なぜなら、その羊は飼い主にとって大切な存在だから。であるならば、なおさら、辛い思いをしている人を憐れんで、助けてあげることを拒むことはできないはずで、そのようなことは、いのちを守る事であり、なによりも優先しなければならないことだと言っています。

 さらに、イエスさまは “いのちを救う” ためにこの世に来られたことも語られています。

ルカ19:10「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

*10~11節を読みましょう。

 しかし、この時、イエスさまに答えた者はいなかったようです。それは、分からなかったからではなく、正解がわかっていながら答えたくなかったからです。

 そんな彼らに、イエスさまが “答え” を示されました。右手のなえた人に向かって「手を伸ばしなさい」と言われると、「彼の手は元どおりになった」のです。

 手の障がいは、今すぐ直さなければ死んでしまうというようなものではありませんでしたが、この人がイエスさまに出会えたのはこの日が最初で最後かもしれなかったので、安息日が明けてからでは、いやされることがなかったかもしれません。

 聖書は、多くの箇所で「きょう」という日を大切にして生きるように勧めています。それは、「きょう」という日は一度限りで、二度と来ないからです。それ故に、無駄に生きてはいけないのです。

へブル3:15「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」

 「きょう」すべきことは、みことばを見聞きし、それによって探られた心の罪を悔い改め、赦しと救いに感謝することです。それこそ、私たちがささげげるべき礼拝の心です。

 

*お祈りしましょう。