“老い”を考えるシリーズですが、イースターが近いので、イースター的な内容を含めた「番外編」をお届けします。
キリストの十字架~復活
まずは、キリストの復活に至るまでの経緯を、当時のユダヤ暦と共に確認しましょう。
※現在の太陽暦と当時の暦(下表の【 】で表示)ではズレがあるため、両方記してあります。
参考)ヨハネ19:31~42より
*v31「備え日」・・・安息日の前日
*v31「大いなる日」・・・過越の期間(種なしパンの祭りの間の安息日)
*v40「ユダヤ人の埋葬の習慣」・・・申命記21:22~23
ちょこっと豆知識
❶ “罪状書き”は、後には〇〇に・・・
キリスト磔刑の絵画には、その頭上に下記のようなプレートが取り付けられている作品が多く見られます。
マルコ15:26「イエスの罪状書きには、『ユダヤ人の王』と書いてあった」
マタイ27:37「これはユダヤ人の王イエスである」
「ユダヤ人の王 ナザレのイエス」のラテン語「IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM」の頭文字を取って「INRI」と書かれているのですが・・・これが日本では「イナリ」=稲荷神社の由来になっているのです。
ちなみに、神社の赤鳥居は、過越の時に門柱と鴨居に小羊の血を塗る習慣を模ったとも言われています。
❷ “息を引き取る”の意味深さ
マルコ15:37「息を引き取られた」
ルカ23:46「イエスは大声で叫んで『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。」
ここでの「息を引き取る」の直訳は “霊を出す” です。つまり、単に死亡したということを伝えているのではなく、キリスト自ら(ご自身の意志で)死なれたことを意味するのです。
殺されたのではなく、自ら死を成し遂げられた。まさに、死ぬ(贖いを成し遂げる)ために来られ、その目的を果たされた瞬間だったことを示すことばなのです。
ピリピ2:8「(キリストは)自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」
❸ 百人隊長の証言の重み
キリストが処刑された様の、一部始終を見ていた百人隊長が言ったことばが聖書に記されています。
マルコ15:39「イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『この方はまことに神の子であった』と言った。」
このことばの注目ポイントは、ローマ人である百人隊長が「神の子」という表現を使ったことです。なぜなら当時のローマでは、皇帝を「神の子」と呼んでいたからです。また、「まことに神の子」という表現は、「皇帝ではなくこの人が」という意味や、「これぞ本物の」というような意味を含んでいるようにも受け取れます。
異邦人である彼が、どこまで理解していたかはわかりませんが、少なくとも「このような方は今までにみたことがない」という思いが溢れている表現なのです。
埋葬をしたふたりの弟子
さて、ここからキリストを埋葬する場面から“老い”について学びましょう
聖書箇所はこちら
マタイ27:57~60、マルコ15:42~46、ルカ23:50~54、ヨハネ19:31~42
1.アリマタヤのヨセフ
まず一人目はアリマタヤのヨセフです。彼がどのような人物であったのか。
みことばを拾ってみました。
① マタイ27:57「金持ちで、イエスの弟子になっていた」
「弟子になっていた」とありますが、十二弟子のように寝食を共にする弟子や、時々行動を共にする弟子、伝道に遣わされた70人の弟子などの「弟子」だったわけではありません。
単純に「イエスをメシヤと信じていた」というような、信仰をもっていたことを示す表現です。
② マルコ15:43「有力な議員であり、自らも神の国を待ち望んでいた」
「神の国を待ち望んでいた」という表現は、ユダヤ人として正当な信仰を持っていたことを示しています。
③ ルカ23:50「議員のひとりで、りっぱな、正しい人」
「議員」とは、サンヘドリンの一員であったことを示しています。
サンヘドリンとは、ローマ帝国時代にユダヤを治めていた宗教的・政治的自治組織のことで。ユダヤ議会。現代で言うと国会議員のような感じです。
④ ルカ23:51「議員たちの計画や行動には同意しなかった」
イエスさまの裁判は、逮捕から間もなく、夜中に不正な形で行われました。その時の様子がこちら・・・
マルコ14:64「あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。」
イエスさまに対する死刑判決は全会一致で異論はなかった様子が記されています。…となると、ルカの「同意しなかった」という記述に矛盾を感じますが・・・これは、この裁判の場にヨセフは居なかった(あえて出席を放棄した)のだろうと考えます。
⑤ ヨハネ19:38「イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」
*隠していた理由は?
ヨハネ12:42~43を読みましょう。
「会堂から追放される」とは、一時的に追い出される程度のことではなく、“除名される”という非情に思い処分を受けることを意味します。議員であれば失業を意味するのです。
2.ニコデモ
二人目はニコデモです。アリマタヤのヨセフは埋葬の場面しか登場しませんが、ニコデモは以下の三か所に登場します。
ヨハネ3:1~15、7:45~53、19:39
① ヨハネ3:1「パリサイ人・・・ユダヤ人の指導者」
② ヨハネ3:2「夜、イエスのもとに来て言った」
人目につかない夜に、個人的にイエスさまを訪問した。
③ ヨハネ3:2「先生、私たちはあなたが神のもとから来られた教師であることを・・・」
3:4「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか」
ニコデモは律法に詳しいパリサイ派に属していたにもかかわらず、イエスさまがどなたであるのか、そのメッセージや御業(奇蹟など)をどう捉えたらいいのか、どのように救いを得るのかなど、高齢になってもなお分からないことばかりでした。しかし、分からないままにしておくのではなく、“真理” を知りたい、得たいと求めていたので、秘密の訪問を試みたのです。
④ ヨハネ7:50~51 ニコデモの弁明
この時すでに、議会はイエスさまを捕えようと企てていましたが、そのやりとりの中で、ニコデモだけが「まずは尋問をすべきだ」と、議会のやり方に抗議し、イエスさまを弁護しているかのように見えます。
しかし、ここでニコデモが言っていることは最もな“正論”であって、信仰を表明しているわけではありません。
・・・とはいえ、3章から19章までのどこかで信仰をもったことは事実なので、この時点でも信仰を持っていたけど、議会から除名されることを恐れて正論を述べるに留めたのかもしれません…。
ふたりの共通点
1.高齢者であった
ヨセフ
…マタイ27:60「岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた」
自分用の墓を準備してあったところを見ると、若者ではなく、人生の終盤を見据えた年齢であったことが想像できる。
ニコデモ
…ヨハネ3:4「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか」
ニコデモの場合は、はっきりと「老年になっていて」と言っているので高齢者であった。
① 高齢故の弱さ
二人とも、信仰を隠していましたが、それは弱さゆえの自衛でした。
先ほども述べた通り、イエスさまが神、もしくは救い主と告白するなら、議会から除名され、社会的にも大きな制裁を受けることになります。
年配者であればあるほど、知識や経験に富み、築き上げた信頼と地位も軽くはないので、常に人の視線を気にしながら生活していたと思われます。しかしそれ故に、陥るワナがあるのです。
それは、“失うこと” への恐れや、世間体を気にするあまり “正しい行動ができない” ・・・などです。
つまり、「何が正しいか」よりも、「人はどう思うか」が判断基準になってしまうのです。
② 高齢故の強さ
マルコ15:43「アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き・・・」
ここの「思い切って」は、「大胆に」、「勇気を出して」と訳している聖書もあります。このことばに、今までのヨセフには “勇気がなかった”(信仰よりも保身が強かった)ことが表れています。
遺体の下げ渡しを申し出ることは、「キリストの仲間だ」とバレてしまう行為であり、下手をしたら自分も捉えられてしまうかもしれないような場面です。実際、弟子たちはユダヤ人を恐れて、逃げ隠れていましたからね。
安息日の始まる日没までのタイムリミット(息を引き取られたのは三時)のある中で、手際よく遺体を引き取り、簡単に処置を施した上で墓に埋葬するには、ふたりの高齢信仰者の行動力が必要でした。
一部始終を見ていた女の弟子たちだけでは、この通りにはいかなかったでしょう。
ふたりの豊富な経験と、富と地位があったからこそ、ピラトの許可を得ることができ、すぐに墓を準備(提供)することができたのです。恐れていた者が勇気を出す時、大いに用いられるのです。
2.用いられた
① 預言の成就
もしも、ヨセフとニコデモが遺体の下げ渡しを申しでなければ、キリストの遺体は受刑者専用の共同墓地に投げ捨てられるはずでした。しかし、刑場近くの墓地(おもに議員たちが所有していた)にあったヨセフ自前の墓に葬られることになりました。このことは、イザヤ書に預言されていることです。
イザヤ53:9「彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。」
② 復活の証明
ヨセフの墓に葬られたことで、キリストが復活したことがより明確に知れ渡ることになりました。
もし、共同墓地であれば、キリスト復活を否定したい人たちが、他の遺体を担ぎ出してきて「ここにある」と偽証することもできてしまいます。
また、個人所有の墓であったからこそ、番兵をつけることができたという敵側のメリットだけでなく、空の墓を確認することができたという弟子側のメリットも生じたのです。
③ 弱さ
ヨセフとニコデモは、ユダヤ社会においての立場を維持するために、信仰を公にすることができなかった “弱さ” を持つ信仰者でした。しかし、最後の最後でリスクを恐れずに、信仰をもって行動しました。その代わり様は、意志の強さや感情の高まりなどではなく、悔い改めたからでしょう。
そんな彼らの弱さは、受難と復活をつなぐ埋葬という地味なようで重大な段取りを進める中で用いられたのです。私たちも、時に情けなく思うこと、保身ばかりの自分が嫌になることもあるでしょう。しかし、その弱さも丸ごと明け渡す時、弱さの中に働いてくださり、用いてくださるのです。
Ⅰコリント12:22~24「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。」
次回へ続く