雅歌7章 | 聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
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 7章では、4章と似たような内容で、再び花嫁の美しさが語り尽くされていますが、単純な繰り返しではなく、4章とは違ったテーマのもとに語られています。どちらも花婿目線での評価という点では同じなのですが、4章の時点では花嫁の現状は未熟で、花婿のことばは現実となっていないところがあります。なので、花嫁に対して「あなたはわたしの目にはそう映っているよ」という励ましや、「そう見なされているのだから、このようでありなさい」という勧めの意味が強いです。一方、7章では、5章:悔い改め ⇨ 信仰告白 ⇨ 6章:交わりの回復 ⇨ 教会携挙を経た時点でのことなので、完全なものと変えられた花嫁の姿を語っているものと思われます。

*1節を読みましょう。

 「高貴な」とは、地位の高さや裕福さのことではなく、道徳的、人格的に優れていることを意味します。そして「高貴な人の娘」とは、高貴な人の娘に “変えられた”(高貴な者の家族とされた)という意味で、花婿によって与えられた新しい身分(立場)であることを示しています。そもそも、花嫁はぶどう園を営む農家出身でしたね(1:6参照)。

 これは、キリストに贖われた者たちが神の子どもとされたことを表しています。本来は、神から遠く離れた “よそ者” だったのに、神の子どもとされたのです。

ヨハネ1:12 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」

ガラテヤ3:26 「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」

 さらに、「サンダル」を履いている状態は奴隷ではないことを示します。キリストに贖われる以前は、罪人として生まれ、“神から遠く離れた者” というだけでなく、“罪の奴隷” であった、それが私たちのもともとの立場でした。しかし、キリストの身代わりの死という代価が払われて、罪から解放されたのです。

ローマ6:17「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えに基準にこころから服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」

 「神の奴隷」(神に仕える者)とされた者は、平和の道を歩みます。

エペソ6:15 「足には平和の福音の備えをはきなさい。」

 「足はなんと美しい」とは、“美脚” という意味ではなく “働いている” 状態を示します。自分の受けた救いの素晴らしさを伝えている、生き生きとした花嫁(教会)の姿が描かれているのです。

イザヤ52:7 「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる』とシオンに言う者の足は。」

「丸みを帯びたものは名人の手で作られた飾りのよう」

 ここの「もも」とは、“腰” とも訳せる語で、どちらにしてもしっかりと立つために体を支える部分のことです。ちなみに、“腰” に帯を締めるという表現は “心構え” や、“旅立ちの準備” などの意味があります。

 そのような意味では、花嫁としての心構えや、新生活への準備ができている様子を語っているのかもしれません。

エペソ6:14 「では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め」

Ⅰペテロ1:13 「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みをひたすら待ち望みなさい。」

 「名人の手で作られた飾り」とは、“名品”、“傑作品” を意味し、花嫁(教会)が神の作品であり、その造り主の素晴らしさを表す作品であることを示しています。また「飾り」とは、作り手のサインが刻まれていることや、作り手の個性が表現されていることを意味します。これは私たちが、目に見えない神の存在を知らせるための視覚教材のような存在であることを示しています。

 そして、「もも」が “傑作品” であるとされているように、私たちが「創造主の素晴らしさを表す傑作品である」と自覚して歩む(=証しの生活)ときこそ輝く(神の栄光を現す)ものであるということです。

エペソ2:10 「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」

2節を読みましょう。

「あなたのほぞは、混ぜ合わせたぶどう酒の尽きることのない丸い杯」

 「ほぞ」とは “へそ” のことで、からだの “中心” を意味します。教会はキリストの花嫁であるだけでなく、キリストのからだでもありますが、その “中心” は「ぶどう酒」に表されるキリストの贖いの血です。教会に集うクリスチャンたちは、キリストの血によって集められ、結び合された “お互い” であることを示しています。なので、赦し合い、仕え合い、愛し合うことが命じられているのです。

 また、「尽きることのない丸い杯」とは、“豊かに注がれ続ける”、“常に満たされている” 状態であることを意味します。

ヨハネ7:37~38 「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」

「あなたの腹は、ゆりの花で囲まれた小麦の山」

 「腹」とは “満足” を求めるところの象徴です。そして「ゆりの花」とは、2章でも登場しましたが “選ばれた者” の意味で、「小麦の山」とは“豊かな実り”や、“恵み” を意味します。これらから、花嫁(教会)は、キリストの “選びの愛” と “恵み” によって満たされる者であると語っています。

*3~4節を読みましょう。

 3節については4:5を参照してください。

あなたの首は象牙のやぐらのようだ」

 「首」は、頭とからだを結ぶ要所であり、いのちの要所でもあります。

 教会のかしらであるキリストと、そのからだである私たちをつなぐものは “いのち”(キリストの血)であるということです。

エペソ5:23「キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられる」

エペソ2:23「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」

 「象牙のやぐら」とは、象が犠牲になることや、その加工品は非常に高価な商品になることから、犠牲のもとに出来上がった美しい作品を意味し、キリストの犠牲によって誕生した教会の姿を現わしています。

「あなたの目は、バテ・ラビムの門のほとり、ヘシュボンの池」

 私たちの身近には汚くて生臭い匂いのする池が多いので、「あなたの目は池ようだ」と言われても嬉しくないと思いますが…、この「ヘシュボンの池」とは、実在するとても澄んだ美しい池だそうです。

「あなたの鼻は、ダマスコの方を見張っているレバノンのやぐらのようだ」

 「鼻」という器官は、匂いを感じるだけでなく、腐敗していないか、変なものが混じっていないかなど、良い物と悪い物を判別するという意味での “かぎ分ける” 器官でもあります。

 「ダマスコの方」とは “北” の方角を意味し、敵が来る方角の象徴で、「やぐら」は、敵の来襲をいち早く見つけるための見張り台のことなので、ここでの「鼻」は、危険を “かぎ分ける” ことを意味します。花嫁(教会)が、罪の誘惑に妥協するのでもなく、わなにはまるのでもなく、警戒し、常に備えている(聖さを保っている)様子を示しています。

*5節を読みましょう。

 「カルメル山」は、“実り豊かな地” という意味の地名です。「乱れた髪」とは、ぼさぼさの状態のことではなく、“垂れ下がった” という意味で「ふさふさした」と同じです。

 「髪」は4章でも見たように、力や献身、聖別の象徴です。そして、「とりこになった」とは “つながれる” という意味なので、教会がキリストにつながる(キリストの内にとどまる)ことが “献身” であり “聖別” であるということ。さらに、キリストの内にとどまる時、豊かな者とされるのです。

ヨハネ15:5「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」

同7~8節「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです」

*6節を読みましょう。

 「慰めに満ちた愛」とは、「人を喜ばせる愛」「私を喜ばせる愛する人」などと訳している聖書もあります。そして、ここでの「愛」は “選びの愛” という意味で、よく登場する無償の愛や契約の愛とは異なりますが、このように「愛」にも様々な意味があるのは、神の愛は人間の考える愛とは異質のものであることを知ることができます。

 もし、契約の愛だけなら、人は「愛」として受け取ることが難しく感じるでしょう。人間社会では「契約」=“縛りがある” と捉えたり、「契約」=“義務を果たす” という応答になるのが自然だからです。…そうかといって、人間の愛は条件付きで、感情が伴うのが自然だと思っているので、無償の愛も確信が無く、不安になるのです。なので、“選びの愛” という神ご自身の意思をもって愛してくださっていることを示してくださったのです。選びの愛を示されることで、一人一人に対する使命と期待や責任をも明確にされます。また、選ばれた事実は正しい誇り(真価を見出す)を与え、これが人生の目的、生きている意味を指し示すものとなっているのです。

*7節を読みましょう。

 「なつめやし」は、“美しい” という意味があり、聖書にはたびたび登場します。その特徴は、結実までに40年位かかる遅咲きの植物ですが、一旦実のらせ始めると150年は結実を続け、枯れる前の年まで結実するという珍しい植物です。また、背丈もあり、遠くからでも目立つ「なつめやしの木」は、旅人にとって “近くに水辺がある” という目印でもありました。このような特徴から、花嫁(教会)の成熟した姿、自分が受ける者ではなく与える者へと成長し、周囲に ”いのち” を指し示す存在となっていることを表現しているものと思われます。

*9節を読みましょう。

 「良いぶどう酒」は、いやしや回復のための “薬” としても用いられていました。

 「眠っている者のくちびるを流れる」は、「眠っている者のくちびるを開かせる」と訳しているものもあり、これらから、人をいやし、回復を助けることばを語り合うことを示していると思われます。

へブル10:24~25 「互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」

*10節を読みましょう。

 さて、ここからは花嫁のことばですが、ここまでの花嫁の変化をまとめますと・・・

❶ 2:16 ⇒ 自分が満たされることを求めていた自分本位な愛 

❷ 6:3 ⇒「私は主のもの」という自覚と献身の愛  

❸ 現在「あの方は私を恋い慕う」⇒ 自分を知られている、共にいてくださることの確信。そこから来る信頼と平安がある状態が見られます。

*11節を読みましょう。

 「さあ」と、花嫁の方から誘っています。今までは花婿始動だったことを振り返ると、大きな成長です。

 「ヘンナ樹」は2章でも出て来ましたが、“贖い” を意味すると受け取ります。そして「過ごしましょう」は、“宿る・泊まる” の意味なので、キリストの贖いの愛の内にとどまることを慕い求めている姿を示していると思われます。

*12節を読みましょう。

 「私たちは~行き」と、花嫁はひとりで暴走しようとしているのではなく、花婿と共に働くことを始めています。これは1章での姿(花婿の手伝いをするよう勧められていたのに、その時は応じなかった)と比較すると大きな成長です。

「芽を出したか、…花が咲いたかどうかを見て」

 花嫁(教会)が花婿(キリスト)のうちにとどまって実を結んでいるか、自己吟味をして礼拝をささげている様子です。また、やがて花嫁(教会)が花婿(キリスト)と顔と顔とを合わせてまみえる日には、この世の旅路の中での結実を報告し、喜びを分かち合い、すべての栄光を帰します。その時を待ち望んで、備えている様子でもあるでしょう。

*13節を読みましょう。

 「恋なすび」は、花婿と花嫁の関係をより一層親密にするものの象徴で、それが「かおりを放ち」とは、夏の初めの頃(小麦の収穫後)になっていることを示しています。つまり、収穫の喜び

を分かち合うこと、互いの喜びを共有するという交わりを楽しんでいる様子と言えるでしょう。

 「新しいのも、古いのも」とは、いろいろな解釈がありますが、私は以下のみことばから、教会がキリストの花嫁であるだけでなく、キリストの弟子となる姿を見いだしたいと思います。

マタイ13:52 「だから、天の御国の弟子となった学者たちはみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」

 まだまだ不完全で、失敗も多く、自分で自分が嫌になる時もありますが、そんな自分の姿にがっかりするばかりでなく、キリストの内にとどまり続けることで変えられ、満たされる約束をしっかりと握り、自分の力ではなくキリストの力に期待して歩んでいきましょうスター 

 

*では、7章を読みましょう。

 ・・・最後にお祈りしましょう。