伝道者6章 | 聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
…時に苦く、時に甘く、時にしぶい内容を自由に書き込みます

 5章で、「富」のもたらす “むなしさ” と「しあわせ」とは何かについて語られていましたが、それらが問われるのが「死」を迎えた時です。

*1~3節を読みましょう。

 ここには二人の人が登場します。一人目は、「富と財宝と誉れ」を与えられ、「彼の望むもので何一つ欠けたもののない人」と紹介されています。誰もがうらやむ人で、「こんな人生だったら幸せだろうなぁ」と多くの人が思うような人生を歩んでいる人です。でも、「しかし」と、“そうでもなかった人生” が待っていたことを告げています。この人は、自分が手に入れたと思っていた「富と財宝と誉れ」や何不自由のない生活を「楽しむことを」許されなかっただけでなく、「外国人」(=赤の他人の意味)がそれらを楽しむという屈辱的な結末を身に受けたのです。

 二人目は「百人の子ども」に恵まれ、長寿であった人です。昔から、子孫繁栄と長寿は神に祝福されているしるしと考えられてきましたので、客観的には “祝福されている幸いな人” と見られている人のことです。では、主観的にはどうだったのでしょう?

 「彼が幸いで満たされることなく」「彼」とは、直訳では “彼のたましい” となっているので、彼の心(内心)は満たされることがなかった、ということを示しています。その理由は、おそらく家庭内にあったようです。

 「墓にも葬られなかった」とは、彼が近親者から尊敬されることも慕われることもなく過ごしてきたことと、亡くなっても偲ばれることがなかったことを示しています。家族が多い分、孤独の寂しさは大きかったでしょう。

 このような “人の目” から見た印象は、当人の現実とはかけ離れている場合があるのです。富を持たない人は富があれば幸せだろうと考えますが、富があっても幸せとは限らない・・・持っていても持たなくても “むなしい”。この現実に、伝道者は思わずこうつぶやきました。「死産の子のほうが彼よりましだ」

*4~6節を読みましょう。

 「その子」とは前節の「死産の子」のことです。「死産」の場合、母体の中で亡くなってしまった胎児を、出産同様に生み出す必要があります。母親は産みの苦しみを体験するのですが、誕生の瞬間に産声を聞くことは無いないのです。それが分かっていても苦しまなければならないので「むなしく生まれて来て」と表現されているのです。人間的には「かわいそう(不幸)」と思われる「死産」ですが、伝道者は、多くの子どもたちがいながら長い人生のほとんどを孤独に過ごし、偲ばれることなく亡くなった3節の人よりも「まし / 安らか」だと考えるのです。そのような人生は、長生きした分、“むなしさ” も比例して長くなるからです。そして、すべての人が「死」という結末を迎えることを考えると、人生の長さは「死」までの時間の長さに過ぎないではないか。だとしたら、“むなしさ” を味わう時間は短いほうがいい、いやむしろ味わわない方がいい…などと感じたようです。

しかしこれは「日の下で」(神無き世界)の考えである、という点に注意してください。

*7節を読みましょう。

 ここでの「労苦」とは、労働の辛さや悩み、苦しみを意味し、「自分の口のため」とは、“食べる” ことを意味します。つまり、人は “食べる” ことのために “辛い労働に耐えている” ということです。

 人はなぜ働くのか? ――それは食べるためだ。なぜ食べるのか? ――それが生きることだからだ。という単純な問答の繰り返しはむなしいですよね。でも、人生の目的が無いならば、これが人生の本質になってしまうのです。しかも、食べてもまたお腹はすくように、“満たす” ことを常に求めているのです。…食欲に限らず。

*10~12節を読みましょう。

 「すでにその名がつけられ…どんなひとであるかも知られている」とは、存在するすべてのものは「力のある者」(=神)によって定められ、すべてを知られている、という意味です。

 そして、「力ある者と争うことはできない」とは、「日の下」という神がいない世界観を作っても、人間は神のようにすべてを知ることはできず、すべてを手に入れることもできないことを示しています。

 「日の下」での世界観で考えるなら、人の一生は「影のように過ごすむなしいつかの間の人生」に過ぎないのです。

 創造主である神は、“私” と言う存在を、個性豊かな比類ない存在として造り、尊いいのちを吹き込み、人生の目的と意味を与えてこの世に誕生させてくださった方です。その創造主を排除した世界は、ひとりひとりに与えられた価値も、生きている目的や意味も「無いのだ」と結論するに等しいことだから "むなしい" 人生になってしまうのです。

 「日の下」では、自分中心で、自分の判断で生きなければならないのに、人は自分にとっての最善も、明日起こることを予知することも知らないのです。

 しかし、創造主なる神は、聖書を通して私たちがどのような存在であり、どんなことを望まれているかを語っておられます。

 「日の下」での世界観に惑わされず、あなたのいのちの価値と存在している意味を知り、真に満たされますように。

 満足とは心の問題なので、何かを手に入れることによって得られるものではなく、空しさも心の問題なので、何かを失うことによってそうなるのではないのです。まずは、この辺の誤解を解くことから始めましょう。

 

では、6章を読みましょう。  

   ・・・最後にお祈りしましょう。