伝道者7章 | 聖書が読みたくなる学び

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 6章の最後は、「だれが知ろうか。…何が人のために善であるか」という問い掛けで終わっていましたが、7章では、その “問い” に対しての解答を得るためのヒントが語られています。

*1~4節を読みましょう。

 ここでは、「死」について、忌避せずに向き合って考えることの大切さを語っています。

 日本では、“死人” を連想させるものとして、“4”という数字を使うことを避けたり、ナンバープレートの仮名文字も “し” は使われていないように、“死” は “忌まわしいもの” として特別視する傾向があります。

 しかし、伝道者の書でも繰り返し語られているように、“死” は必ずやってきます。しかも、それがいつ起きるかを知らないのです。いつ起きるか分からない、という意味では、常に “死” について正しい理解を持ち、備えをすることが大切なのです。そのためには、人がことさらに避けたがる「死の日」「喪中」といったタイミングを通して深く考えることは「生まれる日」「祝宴」の場で喜び楽しむことよりも優ることなのです。

*5~9節を読みましょう。

 次は、人が避けたがるもう一つの嫌な事である「叱責」に対しても、耳をふさがずしっかりと聞く(受け留める)ことへの勧めが語られています。

 「愚かな者の歌」とは、“へつらいのことば” や “誉めことば” などを意味し、「愚かな者の笑い」とは、“お世辞” などを意味する語です。これらは、私たちが日常的に聞いて “悪い気はしないことば” であったり、お世辞と分かっていても “喜んでしまうことば” のことです。誰でも、叱られるよりも褒められたいと願い、嫌われるよりも好感を持たれたいと願うと思うので、自分にとって心地よいことばはありがたく受け取り、恥をかかされることばは拒絶しようとするのです。褒めて伸ばす教育も悪くはないですが、褒めることでは伸びないものもあるのです。優しくすることや相手に喜ばれることをしてあげることが “愛” なのではなく、叱責や懲らしめを適切に行うことも “愛” の姿なのです。叱責については、以前学んだ箴言にたくさん記されています。

箴言15:31「いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る。訓戒を無視する者は自分のいのちをないがしろにする。叱責を聞き入れる者は思慮を得る。主を恐れることは知恵の訓戒である。謙遜は栄誉に先立つ。」

 ここにあるように、愛を動機とした建設的な批判は「いのちに至る」のです。そして「叱責」は、語る(叱る)側にも聞く(叱られる)側にも「謙遜」を教え、その「謙遜」こそが人を変え、成長させるのです。

*10~14節を読みましょう。

 この段落の冒頭にある「昔のほうが今より良かった」という、過去と現在を比べて過去に思いを馳せる(懐かしむ / 後悔する)セリフはよく聞きます。しかし、「このような問いは、知恵によるのではない」とキッパリ言い切られていますが…なぜでしょう?

 過去は、戻ることも変えることもできません。それなのに、過去ばかりに目を向けて “過去に生きる” ような囚われ方は健全ではないのです。ここでは、過去に限らす “変えることのできないもの” に、こだわり続けることへの空しさを語っているのです。

 では、“変えることのできない” もの(事実)に対して、どう考えればよいのでしょう?

 まずは、「神のみわざに目を留めよ」です。肉眼で見ることのできない「神」を、どのようにして目を留めるのかというと、すべての出来事の内に、「神のみわざ」つまり、神さまが意味をもって与えられたことであると受け留める、ということです。…どういうことかとうと、“曲がっている” ものを見て、「気に入らないから」と真っ直ぐにしようとするのではなく、そのまま受け入れなさいということ。なぜなら、「神が」意図的に「曲げたもの」だからです。自分を取り巻く状況や、自分と他人との違いなど、日々ストレスを感じると、それらを自分好みに換えたい(そうすることでストレスを無くしたい)と思ってしまうことがありますが、そうすることが良いとは限らないのです。では、どう応じればいいのか?

「順境の日には喜び、逆境の日地には反省せよ」

 「順境」とは、13節の「まっすぐ」を指していて、自分にとって好ましい状況などを意味します。「逆境」とは、13節の「曲げた」を指していて、自分にとって嫌な状況など意味します。

 うまくいった時、成功した時、成果が上げられた時などは、変に謙遜ぶったり恐縮したりする必要はなく、素直に「喜び」なさい、ということです。反対に、うまくいかなかった時、失敗した時、何の成果も上げられなかった時などは、ふてくされたり失望したり、責任転嫁などで誰かに怒りをぶつけたりするのではなく、静まって「反省」し、次に活かす学びとしなさい、ということです。

「これもあれも神のなさること。それは後のことを人にわからせないため」

 「順境」「逆境」も、神さまがその人の必要に応じて与えてくださるものなので、意味(理由)がわからなくてもそのまま受け取ることが求められているのです。

多くの宗教は、神に対して “幸福” や “豊かさ”、“成功” ばかりを求めますが、なぜ神さまは「順境」だけでなく、「逆境」をも与えられるのでしょう? ・・・もし「順境」ばかりなら、高慢になって神を忘れるようになるし、「逆境」ばかりなら、失望して神を呪うようになるからです。

*15節を読みましょう。

 人は、無意識に報いを期待しているところがあります。本来は、神への畏れと、神の前にも人の前にも裏表なく誠実でありたいという願いが動機となって、真面目に正しく生きることを心掛けるべきなのですが、「日の下」という神無き(神を無視した)世界においては、そのような動機ではなく「真面目に生きていれば報いられるはず」という “報いを受ける” ことが動機となっています。なので、「正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある」という、実績に対して報酬が合わないと感じる出来事を目の当たりにすると、真面目に生きることが馬鹿らしく思えて、「正直者がバカを見る」なんて言葉が生まれるのです。

 しかし、これらは「順境」「逆境」も正しく受け止めていない心から出て来る価値観なのです。

*16~17節を読みましょう。

 ここは、15節のこの世の “理不尽さ” を考える時の注意点を語っているのですが、正しさも悪も追及しないで適当でよい、と言っているのではありません。

 「正しすぎてはならない。知恵があり過ぎてはならない」とは、「自分は正しい、知識がある(わかっている)」と主張しすぎないで、自分の正しさや知恵にも欠けがあるという自覚を持つことへの勧めです。人はこの世にある間は、完璧な正しさや完全な知恵を持つことはできません。すべてを知り、すべてを理解できるわけでもないのに、わかったような振る舞いをしてはならないのです。

 「なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか」

  人間が罪あるものとなった起源は、「あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」(創世記3:5)という誘い文句に乗せられて、神との約束を破ったという出来事です。しかし、結果は・・・神のようになることはなく、賢くなることもありませんでした。しかも、神と共に生きるものであったのに、神から離れて死ぬものとなってしまったのです。

 また、「自分は知恵がある」、「わかってる」と思う人は、神さまにも人にも聞くことができなくなります。そういう意味でも、「正しすぎる」ことも「知恵がありすぎる」ことも、聞き入れる(聞き従う)ことを拒み、自らを滅ぼしてしまうことになるのです。 

 「悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない」とは、悪すぎなければ多少の悪は赦されるということではありません。これは、悪や愚かであることを開き直ることは危険であるという意味で、「どうせ、私は…なんだから」と開き直るなら “自分を滅ぼしてしまうことになる” ということです。

 また、「神のかたち」に造られたすべての人には良心があり悪いことをしたら心が痛みますが、悪いことが習慣化してしまうと、心の痛みにも鈍感になってしまうのです。

 *18節を読みましょう。

 ここは16~17節のまとめです。

「一つをつかみ、もう一つを」「一つ」は、「正しすぎる / 知恵がありすぎる」生き方と、「悪すぎる / 愚かすぎる」生き方、それぞれを指しています。

 「神を恐れる者」は、「この両方を会得している」とは、16~17節のような極端な生き方をしない、ということです。人の心には、良心もあれば欲の心もあります。人を愛する心もあれば憎む心もあるのです。そのような弱さも強さも持ち合わせているのが人間なのです。それを理解し、完璧にはなれないことを認め、完璧さを自分にも他者にも求め過ぎないことが大切です。なぜなら・・・

*20節を読みましょう。

「この地上には、善を行い、悪を犯さない正しい人はひとりもいないから」

 人との比較の中で「正しい人」(正しいと見える人)はいても、「善を行い、悪を犯さない」という、善においても悪においても基準を満たしている人など一人もいないからです。

*21節を読みましょう。

 「聞かないためだ」とは、“耳を貸すこともない”、“聞き流していられる” という意味です。つまり、聞かないですむ、知らないですむ、ということではなく、耳にしても “それに振り回されない” ということです。

  人の心無いことばに傷ついたり、そこから心を病んでしまうほど悩む人もいるでしょう。そこまでではなくても、人のことばや視線を気にする人は多いと思います。しかし、聖書は「いちいち心に留めてはならない」つまり “人の言動に影響されてはいけない” と言っています。なぜなら、人のことばはいつも真実を語っているわけではないからです。ウソかもしれないことを信じて傷つかなくてもいいのです。

 また、「いちいち心に留めてはならない」と言われているもう一つの理由は、自分も同じことをしているからです。

*22節を読みましょう。

 「知っているからだ」とは、“あなたの心はよく知っているはずだ” という意味です。つまり、自分の心を探るなら、自分も同じことをしていることに気が付くでしょう、ということです。人のことを気にしているうちは、自分のことに気が付かないものです。しかし、人のことよりも自分はどうか?ということに注目するなら、人のこと言えないな…と思えるはずです。自分も同じことをしていることに気付かされ、悔い改めることも知恵の一つです。

 ※ “悔い改める” とは、”反省” や “後悔” という意味ではなく、“向きを変える” という意味です。“人・自分・罪” に向いていた自分の心を “みことば・神” に向き直すことです。それは “従う” ということでもあります。

*23~24節を読みましょう。

 人間は、いつの時代も “知者” 、“賢者” となることにあこがれを抱いてきました。それは、先ほども書いたように最初の人間もそうだったのです。

  しかし、賢くなること、知恵をもつことにあこがれたものの・・・「それは私の遠く及ばないことだった」という現実が待ち構えていました。願っても、求めても、“神のようになる” という賢さを得ることができていない自分の現実を思い知るのです。なぜならば、正しく生きるための知恵は、人間を造られた神だけが知っておられ、神が示してくださらなければ人間は知ることができないからです。

コリント1:21「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。」

*25節を読みましょう。

 しかし、人間は諦めきれないので「賢く生きたい」と願い、あらゆる手段にすがります。

 ここでの「道理」とは、“物事の正しい筋道”、“人として行うべき正しい道”のことです。

*26~28節を読みましょう。

  ここには、探求した中間報告が記されています。

「私は女が死よりも苦々しいことに気がついた。女はわなであり、その心は網、その手はかせである」

 伝道者の書の著者とされているソロモンは、多くの妻を得ていました。それは、単に女好きということではなく、外国の女性をめとることでその国の要人と姻戚関係を結び、自国に利益をもたらすため、また、防衛のための政略結婚でした。ソロモンは知恵を使って、そのような方法で繁栄させようと考えたのです。

 しかし、外国との交流が進めば、外国の文化や宗教も入ってきます。関係が近くなればなるほど、相手との関係の影響を気にして、排除できない問題、妥協しなければならない問題も多く起き、結果的には得た多くの富と外国を真似た軍装備などに頼り、異国文化から入り込んだ偶像や異教を歓迎するようになり、次世代から国は分裂しました。これが人間の知恵の結果です。

  ソロモンは身近な「女」によって惑わされ、“知恵” を正しく用いることをせず、国民にも罪を犯させるような失敗をしてしまったのです。それは「これくらい」という罪の誘惑に対する「好奇心」と油断が招いたことでした。これで賢く富を得ることができるかもしれない、これで賢く強国になれるかもしれない…そんな「好奇心」は、賢さを与えるどころか「苦い経験」という後味の悪い物を遺すことになったのです。

*29節を読みましょう。

 そして結論です。「私が見いだした次のこと」として、ふたつのポイントを挙げています。

 一つ目は「神は人を正しい者に造られた」という事実です。

 「正しい者」とは、“真っすぐな者” の意味で、それは、“人は神のかたちに似せて創造された” ことを示しています。

創世記1:26~27「神は仰せられた。『さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。』…神は人をご自身のかたちとして創造された」

 「まっすぐ」とは、“向き合う” 関係にあります。本来、人は、創造主なる神と顔と顔とを合わせて親しく交わる(=まっすぐ・向き合う)存在として造られたのです。しかし、人が求めたものは何だったか?

 「人は多くの理屈を捜し求めた」、これがもう一つの見出したことです。

 ここでの「理屈」とは、“複雑な考え方” の意味です。

 人は、“神に似せて”、“神に向き合う者” として創造されたので、神を求める霊が与えられ、神を知り、神に頼り、神に教え導かれて生きる者であったのに、人が求めたものは「多くの理屈」でした。

 神から離れた人間は、すべてを自分で答えを見いだそうとして、人の存在の意味や目的、死やいのちの問題について “複雑な考え方” で捉えるようになったのです。複雑な考えこそ、知者の思考だという勘違いもこの誤りを加速させたと思います。

 

では、7章を読みましょう。  

   ・・・最後にお祈りしましょう。