伝道者5章 | 聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
…時に苦く、時に甘く、時にしぶい内容を自由に書き込みます

*1節を読みましょう。

 「神の宮へ行く」とは、言い替えると “礼拝するとき”(みんなと一緒にささげる礼拝、個人的礼拝:デボーション)のことです。「自分の足に気をつけよ」とは、個人の行動に注意しなさい、ということです。どんな動機で、どんな状態で礼拝しようとしているかを吟味することの大切さを語っています。

 礼拝において大切なことは「いけにえをささげる」こと(=形式的な行い)ではなく、プログラムに沿って受け身でその場に “いる” だけでなく、「近寄って聞くこと」です。まずは静まって聞く、聞き従うことを前提に聞く、ということです。

Ⅰサムエル15:22「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」

*2~7節を読みましょう。

 続いて「神の前で・・・ことばを出す」(=祈りや誓願)の注意点が語られます。

 「軽々しく、心あせって」つまり、軽率にことばを発するのではなく、「ことば数を少なく」するようにと言われています。そのような祈りに対して次のように語られています。

マタイ6:7「また、祈るとき、異邦人(=神を信じていない人)のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」

 「神は天におられ、あなたは地にいるから」とは、人間は神ではなく、小さく無力な存在であることを示しています。人間は自分の願いを叶えてもらいたい一心で神に祈り求めますが、その “願い” が正しいかどうかを見極めようとはしません。”願望” と ”必要” は違います。自分で「これが欲しい、これが必要だ」と思っても、本当の必要を知っておられるのは神さまなのです。

ヤコブ4:2~3「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」

 上記のみことばに照らして、自分の願いや祈りが正しいかどうかを吟味することは大切です。

 そして、祈り以上に慎重でなければならないのは「誓願」です。「誓願」とは、ざっくり言えば “神さまとの約束” です。人間同士でもいろんな契約や約束をしますが、それらすべてを “約束通り果たす” かというと、約束を破ったり、忘れてしまったりすることもあるので、約束に対してそれほど重みを感じていない面がありますが、「誓願」については以下のような厳しいルールが定められています。

申命記23:21、23「あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。あなたの神、主は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。…あなたのくちびるから出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、主に誓願したとおりに行わなければならない。」

 神さまは、約束した以上は “果たす” こと、責任を全うすることを求められるのです。「じゃぁ誓ったら終わりだな…」と、責任を負うことを避けて生きた方が気楽だと思われるかもしれませんが、以下のようなことばもあります。

申命記23:22「もし誓願をやめるなら、罪にはならない。」

 これは、誓ったものの “果たすことができない” と分かった時、それを認めて悔い改めるなら、罪に問われないということです。誓っただけで果たさないなら、その誓いは偽りになります。神さまは偽りを嫌われ、正直であることを求めておられるので、間違いをごまかしたり言い訳したりする(←6節)のではなく、素直に認めるなら赦してくださるのです。

 7節は1~6節のまとめです。

 私たちが軽率な発言をするのは、“聞く” ことを怠って “語る” ことを優先している時です。慎重に、正直に歩むための秘訣は「ただ、神を恐れよ」、これに尽きるのです。

*v8~9節を読みましょう。

 「国の利益」「王」一人で生み出せるものではありません。広大な国土があっても、“土地” が利益をひとりでに生むことはありません。そこに働く人がいて、労働と報酬(賃金)を管理する人がいて、耕す農地が準備されて初めて産業が成り立ち、利益が生じるのです。そのような相互関係を無視して、自分の利益だけを追求する「上役」がいたらどうでしょう? 無報酬で働かされる労働者は力を発揮できなくなり、産物は減り、国益が下がれば国が衰退していくのです。そうしたら、威張っていた「上役」「王」も自分の身に滅びを招くことになります。そうならないために、「王」は賢く振舞い(民の労働力に感謝し、人事を監督する)、最高権威者であっても自分をも治める “王の王” である “主なる神” がおられることを覚えてへりくだる必要があります。そして民は「私たちのおかげで利益がある」とおごり高ぶったり、不平不満を訴えるのではなく、「王」が労働環境を備えてくれていることに感謝し、正しい政治を行えるよう祈ることが大切です。

*10~17節を読みましょう。

 ここでは「富」のむなしさについて語られています。

 「金銭を愛する」「愛する」とは “重んじる” や “執着する” という意味です。このことばが示すように、人間は「金銭」に生活の安定や将来の保証を期待しがちです。経済的に不安定になると、精神的にも余裕がなくなり、過度な “心配” は生活全般に影響を及ぼします。逆に、思いがけない臨時収入があったりすると、気が大きくなったりするものです。

 さて、人間がそれほどまでに信頼を置く「富」ですが、それがむなしさを与えるとはどういうことでしょう?

 まず、どれだけ収益があっても「満足しない」と言っています。これが執着心です。少し長いですが、ひとつ聖句を紹介します。

Ⅰテモテ6:6~10「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」

 上記にあるように、本当の意味での「利益」や “満足” を得るには「敬虔」がなければならないのです。「敬虔」とは、すべては神の恵みであるとへりくだり、恵みの神に愛と感謝を表すこと、そして従うことを意味します。逆に、「満足しない」のは、「自分の手でこれらを得た」と自分の力や運などを過信して誇っている時です。そのような人は、不足を感じた時には自分でどうにかしないといけないと思うので不安になるのです。

 二つ目は、「富」は、安心よりもむしろ不安を与えると言っています。

 11節では、裕福である故に、人々からたかられたり、お金目当てで近寄ってくる人が増えるので、警戒心が強くなって落ち着かない様子が記されています。そして、そのような警戒心や心配から、安心して眠れない様子が12節に記されています。しかも、どんなに警戒(心配)して守ろうとしても、突然起きた「不幸な出来事」によって「富」を失い、遺産として子どもに遺すものもなく、何のために蓄えてきたのかと失望するようなことに見舞われることもあるのです。

 15節のことばは、ヨブ記にも似たような表現が出て来ましたが、この地上で蓄えたものは “地上のもの” なので、置いて行かなければならないのです。いくら棺桶に入れたとしても、死後の世界へ持って行くことはできないのです。…ということは、究極的には “自分のもの” にならない、ということです。それが「金銭を愛する」ことの “むなしさ” です。

*18~20節を読みましょう。

 では、何を喜びとして、何に拠り頼んで生きるべきなのか? 最後の段落では「よい / 好ましい」生き方について語られています。

 まずは前提として、人生とは「神がその人に許されるいのちの日数の間」であると認めることです。3章で語られていたように、すべての「はじまり」「おわり」は、主なる神によって定められているので、何(健康、地位、富etc)を得ようとも、それらによって長くすることも深くすることもできないのです。ただ “はじめ” と “おわり”「の間」の過ごし方については、それぞれに自由と責任が与えられているので、愚かにならないで大切に過ごすことを求めるべきです。

 次に大切なことは、人生には「日の下で骨折るすべての労苦」があることを受け止めることです。苦しみから逃れようとしたくなりますが、通らなければならない苦しみはあるのです。しかし、それは “不幸” や “災難” ではなく「しあわせ」をもたらすものでもあるのです。この辺の受け取り方次第で、困難に対する向き合い方が変わります。そして最後は「食べたり飲んだり」というごく日常の当たり前のことも「人の受ける分」(=神からの恵みと報い)であることを認めること、それが「しあわせ」を見いだすことでもあるのです。

 単純(シンプル)でありながらも、これらのことを覚えて過ごす人は、「自分の生涯のことをくよくよ思わない」と言われています。過去を振り返って、いろんなことを後悔していませんか? 無い物ねだりをしていませんか? そのような「くよくよ」を手放し、神によって「心を喜びで満たされる」日々を生きませんか?十字架キラキラ

 

では、5章を読みましょう。  

   ・・・最後にお祈りしましょう。