箴言13章 | 聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
…時に苦く、時に甘く、時にしぶい内容を自由に書き込みます

*1節を読みましょう。

 ここでの「叱責」とは、“鼻息の荒い厳しい” 叱責を意味します。これは、子どもをしつけ、教育することがいかに大変であるかを表しています。

*2~3節を読みましょう。

 ここでは、私たちが普段どんな “ことば” に聞き従うかについての注意点が記されています。ことばは単なるコミュニケーションツールではなく、力のあるもので、ここでは「実」「暴虐」と表現されています。

 「実」とは、それを食べる人に力や回復を与えるものなので、“みことば”や“みことばに添った教え”のことを指します。「暴虐」とは、“自分さえよければいい”という自己中心や、目先の利益を追求するために手段を選ばない振る舞いのことなので、“偽りのことば” や “悪へ誘惑することば” などのことでしょう。

 そして悲しいことに、私たちは “良いことば” だけでなく “悪いことば” をも食べてしまうことがあり、“良いことば” だけでなく “悪いことば” も発してしまうことがあるのです。だから、何より必要なことは「自分の口を見張る」ことなのです。

*4節を読みましょう。

 夢や願望があり、そのための計画を立てたとしても、それを実行しなければ達成することはできません。このように、あれこれ考えるだけで行動に移さない人のことを「なまけ者」と呼んでいます。大切なことは、夢や願望を持つだけでなく、それが本当に追い求めるべきものか祈って、慎重に考えること。そして、どのような準備が必要なのかと具体的に考えて予定・計画を立てるときにもよく祈り、神さまに頼りながら行動し始めることです。それには時間がかかりますが、聖書はこう語っています。

へブル10:36「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

 「なまけ者」の一番の問題は忍耐が無いことです。何かを達成するために問題が生じたり、乗り越えるべき壁が立ちはだかるのは、神さまが私たちの忍耐を養うために与えてくださった恵みの試練であるのです。

*5~6節を読みましょう。

 「正しい者」とは、何度も登場している “神との関係が正しい者” のことです。その人は「偽りのことばを憎む」のです。なぜなら、神さまが偽りを忌み嫌っておられるからです。

 ”神との交わり” とは、神の愛するものを愛し、神の忌み嫌うものを忌み嫌い、神が喜ばれることを自分の喜びとし、神が悲しまれることを自分の悲しみとすることでもあります。そのために、神さまがどのようなお方であるのかを知る必要があり、この “神を知る” ことが箴言の語る「知恵」なのです。

*7節を読みましょう。

 「富んでいるように見せかけ、何も持たない者」とは、見栄を張って生きている人のことで、「貧しいように見せかけ、多くの財産を持つ者」とは、倹約家(悪く言えばケチ)で、お金を持っているのにあまり使わないようにしている人のことです。

 「見せかけ」ということばが鍵で、人間は見かけに騙され、目に見えるもので間違った判断(評価)をしてしまうこともありますが、「見せかけ」が真実を表しているわけではないことを覚えておくべきです。

*12節を読みましょう。

 私たちが失望する原因の一つは、間違った「期待」を持つからです。例えば、「この人はこういう人だからこうしてくれるはず」などと、勝手に「期待」します。勝手に期待しておいて、その人が期待外れな行動を取ったら、「こんな人だと思わなかった」と、その人に対して勝手に失望するのです。上司や政府など上に立つ存在に対して愚痴や不満が出て来るのも、間違った「期待」をしているからなのです。このように、間違った期待を持っていると、それが叶えられず「心」「病む」ことにもなるのです。

 もし自分が過剰な「期待」をされたら…困りますよね? 応えることができるかどうかわかりませんし、約束はできませんからね。私たちが「期待」して良いのは、神さまに対してだけです。神さまは、聖書を通してたくさんの約束(ここで言う「望み」のこと)をくださいましたが、それらすべてを成し遂げてくださるお方だからです。「かなう」ことが確定しているから、決して失望することがなく、心配する必要もないのです。

イザヤ55:11「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望むことを成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」

マタイ5:18「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅び失せない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」

マタイ24:35「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」

*13~14節を読みましょう。

 「みことば」「命令」「知恵ある者のおしえ」は同じことを意味し、“聖書のみことば” のことです。「みことば」はなぜ大切なのか? それは「いのち」を得るため、「死のわなをのがれる」ために必要だからです。

申命記30:19~20「・・・私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり・・・」

*20節を読みましょう。

 人は、共にいる存在から多くの影響を受けるので、誰に相談するか、誰と共に過ごすかはとても重要なことなのです。特に、友や人生のパートナーを選ぶ時にはこれらのことを踏まえて考えるべきです。

*21、23、25節を読みましょう。

 ここでは、神さまが必ず報いてくださることと、そこに望みをおいて行動することの大切さを語っています。

 特に23節「貧しい者の開拓地に、多くの食糧がある」とは、たとえ “貧しさ” (=何もない状態・所) からのスタートでも、「開拓」するならやがて収穫を得る、つまり、与えられたチャンス(機会)を十分に生かして用いなさい、という励ましのことばです。「貧しい」ことに悲観的になって、自分は能力がない、体力がない、取り得が無い、環境が悪い…などと言い訳ばかりして、せっかく与えられた機会を台無しにしてしまうなら、「貧しい」ままで終わるのです。その場合、自分で “貧しさ” を選んだことになります。誰のせいでもないのです。

 与えられたチャンスは、“土地を「開拓」する” と表現されているように、時間も力も費やし、困難も多いでしょう。しかし、それらは無駄に終わることはないのです。なぜなら、神さまが必ず報いてくださるからです。

Ⅰコリント15:58「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」

*22、24節を読みましょう。

 13章の冒頭で、親が子を教育することの苦労を語っていましたが、締めくくりも、親が子どもをしつける時の大切なポイントを語っています。

 「ゆずりの地」とは、イスラエル民族が神さまから賜った約束の地のことで、部族毎、家系ごとに割り当てられました。その土地は、子々孫々に受け継いでいくことが定められていたので、「ゆずりの地を残す」とは、神さまの戒めに従って土地を子に相続させることを示していますが、ここでは、子どもに教える以前に ”親自身が” みことばに従うことと、信仰を継承することの大切さを語っています。

 24節「むち」とは、子どもをしつけるための厳しい対応のことです。現代は体罰などが過剰に取り上げられるようになったので、厳しく叱ることも、お尻を叩くといった行為もNG扱いされるような風潮がありますが、ある程度の厳しさは、躾ける(特に罪や悪を教える)ためには必要なことなのです。むしろ、厳しさを一切控えることは “優しさ” のように見えて、実は「憎む者」となっていると言っています。

 わが子を憎んだことなんてない、と多くの親は言うと思います。しかし、本当の正しさ、本当の愛を教えようとするなら、罪や悪に対して曖昧な態度を取ってはいけないのです。これらを曖昧にし、妥協して教えることは “子を愛する親” の姿ではないのです。

「子を愛するものはつとめてこれを懲らしめる」

 「つとめて」とは、“早朝” の意味で、ここでは “まず最初に” や “一番に” などの意味を表します。そして、「懲らしめる」とは、親の怒りの感情をぶつけることでもなければ、折檻することでもありません。この「懲らしめ」は、“親のため” のもではなく “子どもの益のため” に成すものです。なぜなら、次のようなことばがあるからです。

へブル12:10「・・・肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自身のきよさにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」

 そして「懲らしめ」の大前提は、親自身が日ごろから模範を示していることです。それは完ぺきな親になるということではなく、罪や愚かさを隠さず、神さまに悔い改めている姿、弱さを隠さず、神さまに素直に頼る姿、みことばに親しみ、従うことができるよう助けを求めて祈る姿・・・そのような姿を日ごろから見せることです。

 子どものしつけや教育は困難と苦労が多いものですが、神さまに頼る親を、神さまは必ず助け導き、報いてくださいます。

 

*では、13章を読みましょう。

    ・・・最後にお祈りしましょう。