箴言14章 | 聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
…時に苦く、時に甘く、時にしぶい内容を自由に書き込みます

*1節を読みましょう。

 一行目は「女の知恵は自分の家を建てる」という意味なので、ここでは「知恵のある女」「愚かな女」の比較と言うよりも、人は「知恵」「愚かさ」の両方を持ち合わせているので、「知恵」を働かせるなら「家を建てる」ことができるけど、「愚かさ」に従うなら「こわす」ことになる、ということを言っているのだと思います。

 「自分の家を建て」とは、建築するということではなく “建て上げる” ということです。バラバラな状態にある “個々” を、組み合わせ、ひとつの姿にしていくことです。凸と凹を組み合わせるように、互いの弱さを補い合うこと、受け入れ合うことを助けるのが “建て上げる” という働きです。そして、これこそが “愛”(神を愛し、人を愛すること)なのです。

Ⅰコリント8:1「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」

 逆に「こわす」とは、築き上げ、組み合わせたものを崩して、再びバラバラにしてしまうことです。これは “高ぶり” のなす行為です。

*2節を読みましょう。

 「まっすぐに歩む者」とは、確かな基準を持っている人を指します。例えば、何の目印もない白紙に真っ直ぐな線を引きたければ、定規に添って線を引けばいいのです。同じように、曲がっていない基準(=聖書のみことば)に自分を合わせて生きる時、私たちは「まっすぐに歩む」ことができます。自分の考えや思いに合うみことばを捜そうとするのではなく、自分にとって難しいと感じるみことばにも「神さまがそう言っておられるから」と、神さまの主権を認めて従うことなので、その人は「主を恐れ」る “知恵ある人” なのです。

 「曲がって歩む者」は、ものすごく反抗的ではみ出し者のことを言っているのではなく、みことばに自分を合わせる(従う)ことを拒否する人のことです。それは、みことばを退けているのではなく、「主をさげすむ」ことなのです。自分も含めて、全ての人がみことばに対する抵抗感や拒絶感を持っています。「主をさげすむ」ことをやめて、「主を恐れ」ているか、みことばに親しんで「まっすぐ」生きたいと願っているか、自分の心を確かめましょう。

*3節を読みましょう。

 ここでの「若枝」とは、“むち”、“杖” の意味を持つことばです。一般的に、“むち” や “杖” は、親が子どもを躾け、教育する時や、羊飼いが羊を世話する場面で登場するように、相手を矯正したり、整えたりするために使う道具です。それを踏まえて、この節を読むと…「愚か者」は、「自分が教えてやろう」とばかりに、相手を矯正したり教育するつもりで偉そうに語るけど、その内容が(おそらく)的外れであるために、ただ “むちで打つ” という、相手を苦しめ痛めつけるだけになっている、ということでしょう。

 一方、「知恵のある者」は、これまで学んで来たとおり、自身の心を見張り、くちびるを制しようと心掛けて “余計な一言” を言わないように気を付ける、ということです。

*4節を読みましょう。

 ここでは、仕事などの “やらなければならないこと” をすると、面倒なことや問題が生じるし、すべてが自分にとって都合よく動いてくれるわけではないことを示しています。

 人間関係における摩擦やストレスなどは避けたいと思いがちですが … 避けることができないことの方が多いものです。しかし、摩擦力で車輪が前に進んだり、ブレーキがきいたりするように、私たちが前進する体力と勇気をつけるため、踏みとどまる忍耐力を養うために必要な試練でもあるのです。嫌なことは避けるの一択ではなく、その中で学ぶ者となりましょう。

*6節を読みましょう。

 「あざける者」とは、神を「あざける」人のことです。知恵をつけたい、賢くなりたいという思いは、人間の根本的な願望ですが、「知恵」とは、「主を恐れる」(主を知ること)ことであり、「知恵」は “キリスト” そのもの(コロサイ2:3)ですので、「知恵」である主なる神を「あざける者」「知恵を・・・得られない」のは当然です。捜している場所が間違っているのですから。

*8節を読みましょう。

 「自分の道をわきまえ」とは、あらゆる状況を想定して準備を整えておくことを示しています。一方、「自分を欺く」とは、大丈夫だろう、うまくいくだろうと自分に言い聞かせて自分を安心させ、安易に構えた結果、思いがけない状況に陥った時に対処できなくなる人のことです。ポジティブであることが称えられがちな世の中になっていますが、人間は、自分にとって好都合な状況(結果)に変える力は持っていません。へりくだって、すべてを知り、すべてを支配しておられる神さまに頼ること(=これが「知恵」)があらゆることに対処する秘訣なのです。

*10節を読みましょう。

 「苦しみ」「喜び」も、究極的にはその人本人にしかわからない、ということです。

ローマ12:15「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」

 上記のみことばにあるように、苦しむ人に寄り添って慰め、喜ぶ人を心から祝福してあげることは大切なことです。しかし、場合によっては「何でそれくらいのことで泣いているの?私はもっと辛いことを経験したよ」などと、辛く当たったり、さばいてしまったり … と、間違った “励まし” をしてしまうことがあるのも事実です。そのような失敗から互いを守るためにも、この箴言を心得ておくべきでしょう。

*11節を読みましょう。

 「悪者」「正しい者」が対比されているだけでなく、「家」「天幕」も対になっています。「家」は、この世に軸を置く生き方、この世に望みを置く生き方をしていることを象徴しているので、ここでの「悪者」とは、神を知らない人、神を認めようとしない人のことです。犯罪者という意味ではありません。そして、「天幕」とは、テント(仮小屋)のことなので、天に望みを置く生き方、この世は天への旅路の通過点だと考えている生き方をしていることを象徴しているので、「正しい者」とは、いつものように “神との関係が正しい者” のことです。

 「滅ぼされ」「栄える」は、この地上においてのことではなく、この地上での歩みを終えて、いのちと人生を与えてくださった創造主なる神のもとに帰った時の “報い” の違いを述べています。そして、死後の永遠の世界をどこで、どのように過ごすかは、生きているうちに備えなければならないこともを語っているのです。

*12~14節を読みましょう。

 「人の目に まっすぐに見える道」とは、一見、良さそう、成功が約束されていそうな選択肢のことです。しかし、注意深く読むなら「まっすぐに “見える” 道」とあるので、そう見えているだけで、実際には “まっすぐではない” ことを示しています。よく考えず、自分を過信したり、あるいはその時の “感覚” や “流れ” で選んでしまうと、13節のように、顔で笑って心で泣いてというような、強がって生きることになり、それも長続きせず、遂に隠しきれない悲しみがあふれ出すようになるのです。

 14節二行目の「彼から離れる」は、“上から得る” とも訳せることばなので、「善良な人」は、“上” つまり “天(神)” に導きと助けを求める人のことです。

 「心の堕落している人」は、自分が人生の主導権を握って全てを決めるので、自分で人生の全責任を負うことになります。しかし、当然のことながら責任を果たしきれないので、大切な選択を迫られている時にも妥協して「甘んじる」のです。

*15~16節を読みましょう。

 「わきまえのない者」とは、“単純な者” という意味で、いろんなことに確信がないために、人の意見に振り回されたり、人の真似をすることで安心しようとする人のことです。なので、人から影響を受けやすかったり、だまされ易いという意味で「何でも言われたことを信じ」てしまうのです。

 16節の「用心深く」は、“恐れている” という意味のことばで、主を恐れ、主に身を避けることを示します。結果、「悪を避け」ることができる(悪い影響を受けない)のです。

*23節を読みましょう。

 「勤労には利益がある」から「おしゃべりは欠損を招く」と続くと、「口ではなく手を動かしなさい」と言われているようにも受け取れますが、ここでは、ただ議論ばかりを重ねて何も行動を起こさないなら、その議論は何の利益も生み出さない(生産性が無い)のでムダである、ということを言っています。

*26~27節を読みましょう。

 人生には二つの生き方しかありません。一つは、主を恐れ、主に頼る生き方。もう一つは、人を恐れ、人に頼る生き方です。主に信頼することは、人生の危機に対して「避け所」(避難所、シェルター)を持つことに値し、人を恐れるなら「死のわな」にかかるのです。同じ箴言に次のようなことばがあります。

箴言29:25「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」

*28節を読みましょう。

 主権、領域、国民の三要素が揃って “国家” と認められる通り、“主権” や “領域” だけ立派でも、そこに居住する人々がいなければ国家として成り立ちませんし、国民の数は国家の力にも比例するほど大切です。しかし、独裁国家においてみられるのは、主権を保つために行われる粛清です。このような行為がいかに間違っているかをこの箴言は語っています。しかし同時に、この箴言はそのような “権力者” だけに語っているものではありません。私たちも自分の体裁を守るため、保身のために、自分と意見の合わない人などを排除しようとしたり、拒絶したりするなら、それは自分を守るどころか「滅び」を招くことになりかねないのです。自分で自分を守るため、自分にとって不都合な存在や意見を消そうとすることはやめましょう。自分を守りたいなら、神さまに身を避けましょう。

詩篇46:1「神はわれらの避け所、また力。苦しみとき、そこにある助け。」

*30節を読みましょう。

 「穏やかな心」とは、“さばかない心” のことで、「激しい思い」は、“さばく心”、“赦さない心” のことです。自分で悪を暴いて成敗しようとするのではなく、神さまの “さばき” と “報い” に委ねることです。なぜなら、人間は自分で確認した一部の真実しか知り得ませんし、偏見から間違った判断をすることもあるからです。隠された真実をご存じで、正確なさばきと報いをなす方は、神おひとりだけです。人の悪に対してもやもやむかむかすることがあるかもしれませんが、それ以上の思いを抱く所から “あなたの罪” が始まります。そのような意味でも、さばきたい心は手放し、さばき主であり救い主である神さまに委ねることが、あなたのからだと心を健全に守ることになるのです。

*31節を読みましょう。

 箴言の語る「知恵」、すなわち “主を知り、主を恐れる” ことは、神との関係だけでなく、人との関係にも大きな影響を及ぼします。聖書は、隣人を愛すること、憐みの心をもつこと、互いに愛し合い、仕え合うことなどを命じています。そのベースにあるのは、一人一人は “神によって造られたから尊い” という創造主なる神さまの絶対評価がある、ということです。なので、目の前の人を蔑んだり、傷つけることは「自分の造り主をそし(る)」ことになるのです。

*32~33節を読みましょう。

 「死の中にものがれ場がある」とは、現実逃避の手段として死を選ぶことを勧めているわけではありません。そのような間違った選択をしてしまう人もいます。それは、「死」をもってすべてが終わる(終われる)、現状から解放されると思い込んでいるからです。しかし、「死」の先があるのです。

 「死」とは、“分離” を意味することばで、「死」によって二つの “分離” が起きます。一つは、肉体と霊魂が分離すること、もう一つが、神と分離されることです。一つ目の分離はすべての死者に起きる分離です。肉体はこの地上に置いて、霊魂だけが創造主なる神のもとへ帰るのです。何のために帰るのかと言うと、神によって人生の総清算が行われるからです。

伝道者12:7「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」

伝道者12:14「神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」

 もう一つの分離は、罪の問題を解決しないまま地上での人生を終えた人が体験するものです。罪の赦しを受けていないなら、自分で自分の罪の責任を負い、さばきを受けるのです。それによって受ける刑罰が、永遠に “神と分離される” というものです。

 罪はだれでも持っています。そういう意味では、すべての人が滅びに向かっているのです。しかし、罪の問題を解決し、罪の赦しを頂いて「死」の先に希望を持つことができる人もいます。それは、人間の努力や鍛錬によるものではなく、ただキリストによって成し遂げられた救いを受け取るだけでよいのです。

ローマ3:23~24「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

ローマ6:23「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

 

*では、14章を読みましょう。

    ・・・最後にお祈りしましょう。