箴言12章 | 聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
…時に苦く、時に甘く、時にしぶい内容を自由に書き込みます

*1~2節を読みましょう。

 「訓戒」とは、“訓練” や “懲らしめ” などを意味し、その人を鍛えたり、強めたりするためのもので、聞く人に益を与えるものです。しかし、自分のために言ってくれているとわかっていても「叱責」されることを嫌う人は多いものです。なぜなら、変化を嫌い、このままの自分でいたいと思うからです。とはいえ、そういう人も「今の自分が最高」とは思っていないのですが…。

そのように「叱責を憎む者」は、変わるきっかけがあるのに変わることができないので、ある状態からずっと停滞し続け、成長(成熟)しないままになってしまうので「まぬけ」だと言われているのです。

 2節「善人」は、罪の無い完全な人のことではなく、神さまに罪を赦された者のことです。それは、努力や善行によって得た “赦し” ではなく、むしろ、自分の罪深さや愚かさ、弱さ(無力さ)を認め、神さまのあわれみにすがることによって与えられた罪の赦しです。なので、その人は「主から恵みをいただく」のです。

 3節「正しい人」は、“神との関係が正しい人” のことで、その “正しい関係” は、罪の赦しと共に与えられるものです。その人の「根はゆるがない」とは、しっかりと根を張って水分や養分を吸収して青々と生い茂っている大木のように、力といのちに満ちたりると告げ、対する「悪をたくらむ者」は、自分自身の行いによって滅びることを告げています。

*4節を読みましょう

 「しっかりした妻」「しっかり」は、 “力強い” “堅固” などを意味することばで、“勇士” などと訳すこともでき、女性に対して使うには勇ましすぎることばなのです。でも、忠実な勇士の姿を想像すると、どんな「しっかり」具合なのかが見えてきます。上官に従い、全体に仕え、弱い者を守り、仲間を思いやり、時には自分を犠牲にすることもいとわずに戦う…どうでしょう? 妻、母としての女性の姿が見えて来ませんか?

 それに反して、夫を尻に敷き、かかあ天下と言われる女性は「恥をもたらす妻」で、男性が夫、父として振舞うことを妨げてしまうので、結果的に家庭を壊すことになるのです。

*5~7節を読みましょう。

 ここでは「正しい人(者)」「悪者」の、対人関係における振る舞いの “動機・目的・結末” の違いが語られています。

 「正しい人(者)」は、くどいですが “神との関係が正しい者” のことなので、行き当たりばったりや思い付きで行動せず、「公正」をもって「計画」を立てます。「公正」とは、聖書に従って正しいことをすることを意味しますが、特に、聖書に示された神のあわれみに従って隣人に関わることを指すので、ここでの「計画」は、“自己中心” や “自己利益” のためのものではなく、他者に配慮したものであることがわかります。一方、「悪者」は、目先の利益や自己都合を優先させるので、その言動に一貫性が無く、隣人を犠牲にして自分が得すること、栄えることを行うことさえします。しかし、その “報い” は必ず受けなければなりません。一見、成功しているように見える「悪者」でも、神によるさばきと自分の行いの当然の報いを受けて、最期には「くつがえされ、いなくなる」という逆転が起こることを覚えておかなければならないのです。

*8~11節を読みましょう。

 ここでは、勤勉であることの大切さを語っています。

 8節「思慮深さ」とは、よく考えて慎重に行動することですが、特に、目的意識や計画性をもって考えて行動することを意味します。思い付きや感覚で行動しない、ということでしょうかね。そのような “目的意識” や “計画性” をもつことは、人を勤勉にします。

 「高ぶっている人で食に乏しい者」とは、プライドが高い故に職業を選びすぎて定職に就かない人や、楽をして生きることを考える人で、結果的に乏しい生活をしている人のことです。社会が正常に回り、多くの人が快適に生活するために「汚い」と言われる仕事も誰かがしなければなりませんが、多くの人はそのような仕事を嫌います。また、便利に利用できるために、あらゆるサービスが提供されているのに、それに対して軽々しくクレームをつける人もいます。これらの根本にあるのは “高ぶり” です。“高ぶり” は、主の忌み嫌われるものの筆頭に挙げられていますし(箴言6:16~17)、他にも以下のような警告のことばがあります。

箴言16:18「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」

 10節の「正しい者は、自分の家畜のいのちに気を配る」とは、動物愛護の話ではなく、働く者に報酬を与えることは正しいことだ、ということを言っています。例えば、以下のようなことばがあります。

Ⅰテモテ5:18「聖書に、『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない』、また『働き手が報酬を受けることは当然である』」

*13、21節を読みましょう。

 「正しい者は苦しみを免れる」とは、まじめに生きていれば “苦しみに遭わない” という完全な保護を約束しているのではありません。「正しい者」とは、“神との関係が正しい者” のことです。そのような人は、たとえ辛いことや困難に遭遇しても、「悪人」の仕掛けた「わな」(儲け話のような悪い誘い)にかかることがない、不正に得る富の誘惑に惹かれないから、と言う意味での「苦しみを免れる」のです。

 そして21節「正しい者は何の災害にも会わない」も同様で、「苦しみ・災害」には会うけど、辛いことや困難を「災難だ」「最悪だ」と悲観的にしか捉えないのではなく、自分にとって喜ばしくない出来事も、神さまには何か目的がある…例えば、自分を変えるため、成長させるため…などと、益をもたらすために与えられたと受け取ることができるので「苦しみ」で終わらないということです。逆に「悪者」(神を認めない人)は、神の “みこころ” や “目的・意図” という発想がないので「災い」としか受け取れないのです。つらいよね。

*15節を読みましょう。

 「自分の道を正しいと思う」とは、“彼にはまっすぐに見える” という意味で、かなり自信をもっている様子が伺えます。なので、人からの助言は必要としていない、聞く耳を持たないという意味で「愚か者」なのです。

 「知恵のある者」は、頭のいい人ということではなく、自分の弱さや危うさを認め、主を知り、恐れ、主に頼る人のことで、そのような人は自分は “足りない” ことを自覚しているので、人からの「忠告を聞き入れる」のです。

*16節を読みましょう。

 「自分の怒りをすぐ現す」とは、二行目の「はずかしめを受けても黙っている」と対応していることを考えると、短気や怒りっぽい人のことではなく、自分が否定されていると感じた時に「怒り」とい手段で訴える人のことです。人は誰でも自分なりの正義やプライドを持っていますが、自分の意見を否定されたり、正されたりすると、自分自身が否定されたように感じて「怒り」という対応によって相手に反撃しようとしたり、自分を守ろうとすることがあります。しかし、そのような小さな復讐はするべきではないのです。そこから次の罪が始まり、自分を守るどころか、ダメにしてしまうことにもなるからです。

 「はずかしめを受けても」とは、誤解されたり不当に扱われても、ということです。そんな時、どうしますか?自分の無実を晴らしたい、絶対に誤解を解きたいと思うでしょう。しかし、それをやってしまうと一行目の「愚か者」になってしまうのです。「利口な者」(本当に賢い人)は「黙っている」のです。これは沈黙するということではなく、人は誤解しても神さまはすべてを知っておられる、という事実に目を向けて、自分で相手に復讐しようとしないで、相手への悪い感情を手放すことです。私たちは正しく人をさばくことはできません。甘やかしたり、やりすぎてしまったり…感情によって対応が変わってしまうのです。そして何より、さばくことはあっても救うことは絶対にできません。だから神さまに委ね、神さまの正しいさばきと報いに任せることが大切なのです。

*17~18節を読みましょう。

 箴言には “ことば” を用いる際の注意点がたくさん記されています。ここでは「正しいこと」を告げるということと、「軽率」な発言に気を付けるべきことが語られています。これは、語る “内容” と “目的” のどちらも大切であることを示しています。例えば、正しければ何を語ってもいいわけではありません。伝え方にも気を配らなければならないし、その人に告げるべき真実かどうかも吟味する必要があります。“事実” であったとしても、相手を傷つけてしまう “一言” であるならば、「軽率」に話してはいけないのです。慎重に「愛をもって真理を語る」(エペソ4:15)ことが大切です。

*25~26節を読みましょう。

 ここでは私たちの心が元気を失い沈むとき、どんなこと大切かが語られています。それは、「親切なことばは人を喜ばす」「正しい者はその友を探り出し」とあるように、友人の励ましや関わりが必要だということです。別の見方をすれば、自分の意思の強さだけで気落ちしないように努力することや、ストレスを避けることで自分を守るといった方法では「不安」「(心の)沈み」を解消することはできないということです。他にも聖書は ”孤独・孤立” の危険と ”関わり” の大切さを語っています。

創世記2:18「人が、ひとりでいるのは良くない。」

伝道者4:9~10「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。」

 しかし、人は一緒にいる人の影響を多分に受けるように、どのような”関わり”をするかが重要です。「親切な」とは、単純に ”良い” という意味なので、物腰柔らかく、優しいことばであるとは限りません。”良い” とは、神さまが ”良し” とされることなので、「愛をもって真理を語る」(エペソ4:15)ということば掛けのことと言えます。

 そして、ことば掛けだけでなく、不安を共に担い、共に主を見上げる助けをするような関わりをすることが大切です。これこそ自分ひとりではできないことだからです。

 

*では、12章を読みましょう。

    ・・・最後にお祈りしましょう。