5章では、ペテロがイエスさまの弟子となっていく様子が記されています。本編に入る前に、ここまでのイエスさまとペテロとの出会いと関りの流れを確認しましょう。
①出会い(ヨハネ1:40~42)
もともとペテロはバプテスマのヨハネの弟子でしたが、ヨハネの紹介によって、イエスさまに関心をもつようになりました。
②個人的な奇跡の体験(ルカ4:38~39)
まだ漁師の仕事をしながら、イエスさまに興味関心を寄せていた頃、自宅に訪れたイエスさまに、義母(妻の母親)の病気をいやしていただきました。
…そして、今回の場面です。
*1~3節を読みましょう。
先ほど書いた通り、この時はまだ漁師として生きていました。彼らの仕事場であるガリラヤ湖で、漁を終えて片付け仕事をしている最中に、イエスさまと群衆とが押し寄せてきたのです。そこで、イエスさまはペテロに頼みごとをします。自分を船に乗せて、陸から少し離れてほしいと。これには、二つの理由があります。一つ目は、聴衆がイエスさまの声を聞くことができるように、群衆との間に距離を取りたかったということ。二つ目は、ペテロと個人的に向き合うためです。そして二つ目の理由が本命です。片付け仕事をしながら、群衆に紛れてイエスさまの話を聞き流すのではなく、しっかりと聞き、自分のこととして当てはめ、決心する機会を与えるためだったのです。
*4~7節を読みましょう。
群衆への話が終わると、イエスさまは「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を取りなさい」と言われました。それに対して、ペテロは最初、少し不満げな返事をしました。なぜなら、もう片付け仕事をして帰宅するような時間帯であり、この日は一晩中の努力も報われず、不漁という結果に終わっていました。しかも、漁師としてキャリアのある自分の方が魚のことはよくわかっている(つまり、釣れない)と思ったのです。
「でも、おことばどおり、網をおろしてみましょう」
一旦は不満を述べたものの、ペテロはイエスさまのことばに従う応答をしました。すると、ペテロの予想に反してたくさんの魚が獲れ、仲間に応援依頼をしなければならないほどの大漁になったのです。
イエスは、なぜここで漁をするように求められ、大漁という奇跡を味わわせたのでしょう? ご自身の力を知らしめるためでしょうか? 自分についてくるなら、こんな豊かになれるよ(ご利益があるよ)と知らせたかったのでしょうか? そうではありません。イエスさまは、全く不可能と思われる状況で、人の思いを超えることを成さる方であること。また、人は無力で有限な存在ですが、神は全知全能であることとを示されたのです。さらには、ペテロが ”古い自分” に可能性を見出す(頼りにする)生き方をやめて、イエスさまに従い、頼る人生を選択させるためであったのです。
ペテロはイエスさまと出会い、バプテスマのヨハネによって「待望していた救い主」であることを聞かされていたのに、興味関心を持ちつつも、漁師として生き続けていました。ある意味、中途半端な信仰のままで自分の生活を変えようとはしていなかったので、”沖に出た船” という、逃げ場のない場所で向き合う機会が与えられたのです。
*8~9節を読みましょう。
「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」
“昼間” の ”湖の深みで大漁” という体験は、自分の常識を超えたものであったので、恐れと恥ずかしさから「離れてください」と言っていますが、ここにはペテロの信仰告白が含まれています。
まず「主よ」と呼びかけていることばです。5節では「先生」と呼んでいます。ペテロは、今まで、イエスさまのことを “律法の専門家” という意味での偉大な先生くらいに捉えていたのです。しかし、ヨハネが言っていた通り、本当に私たちが待ち望んでいた約束の救い主なのだ、と理解し、「主」と呼んだのです。
そして、自分自身のことは「罪深い人間です」と、告白しています。イエスさまに出会い、初めて自分の罪深さを知ったのです。しかし、もっと重要な信仰告白は「私のようなものから離れてください」という部分です。自己卑下な表現にも見えます(そういう面もあります)が、自己卑下だけなら、その場から逃げるなど "自分から" 離れて行ったはずです。このことばには、自分からは離れたくない、しかし、罪深い私をイエスさまが退けられるなら、それを受け入れます、という心の葛藤を表わしているのです。だからこそ、イエスさまはこのようにお答えになられました。
*10~11節を読みましょう。
「こわがらなくてもよい」とは、イエスさまは罪人を救うために来てくださった救い主であることを示しています。さらに、イエスさまは離れて行くことがないだけでなく、これから後、いつも共にいるとの約束をしてくださったのです。
*お祈りしましょう