ヨブ記20章 | 聖書が読みたくなる学び

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 二巡目の三番手ツォファルの弁論ですが、ツォファルは20章以降登場しないので(発言していないだけで、同席はしている)、これが彼にとって最後の弁論となります。

*1~2節を読みましょう。

 「いらだつ思い」「心あせる」と言っているように、ツォファルはヨブのことばにかなり立腹しているようで、感情を抑えられない様子が伺えます。20章でのツォファルの発言は、これといった新しい視点はなく、これまでの繰り返しです。どちらかというと、言い返すことばが見つからない悔しさを、ただ攻撃的なことばを並べてヨブを撃退しようとしているような、イタチの最後っ屁感があります。

*3節を読みましょう。

 ヨブは、自分のことを「悪者」呼ばわりし、責め続ける友人たちに対して、理解してもらえない辛さを覚えながらも、「私の友よ」と呼び、彼らが根拠としている人間の「知恵」の限界を告げ、同じ主を信じる者として苦しむ自分をあわれんでほしいと願いましたが、ツォファルには「侮辱となる訓戒」に聞こえたと言うのです。

「私の悟りの霊が私に答えさせる」

 「私の悟りの霊」とは、“自分の知識を根拠とした考え” のことです(ここでの「霊」は “人間の精神” の意味)。つまり、ツォファルは人間の知恵の限界を認めず、あくまで「自分の考えは正しい」という考えを貫く意思表示をしたのです。そして、その “自分の考え” が「私に答えさせる」と言っています。これは、“自分が自分に命じて語らせている” というような奇妙な表現ですが、自分が自分の意思で(つまり、誰にも頼らず)語ることを意味しているのです。

 ヨブは友人たちの目を神さまに向けさせ、神さまを交えて語りたいと願ったのに対し、ツォファルは神さま抜きにしてヨブと対抗しようとしています。この違いが、双方の分かり合えない溝をつくり出しているのです。ヨブと友人たちの対話がずっと平行線で、決して交じり合わないのはこのためです。

 私たちも、相手がクリスチャンであろうとなかろうと、神さま抜きに自分の考え(経験や知識)だけで相手と向き合うなら、この友人たちのように、最初は良かったのに段々ヒートアップして的外れなことを言ったり、高ぶってさばいたりしてしまう危険があります。自分の言い分を感情のままに吐き出すことは、その時は気分が良くても、後に良い実をもたらすものではありません。相手がクリスチャンであれば、共に主を見上げることを心掛け、相手がノンクリスチャンであれば、キリストを証しする機会となるように、自分と隣人との間に仲保者であるイエスさまに入っていただくことをいつも求めましょう。

*4~5節を読みましょう。

 ツォファルがどんなことを大事にしていたかが、「昔から、地の上に人が置かれてから」という語り出しのことばに表れています。まず、「昔から」と、やはり “伝統的な教え”、“経験” から学んだ知識を重んじています。そして、ヨブが「よみ」ということばを用いて “この世の人生の先(死後・永遠の世界)” を語ったのに対し、「地の上に人が置かれてから」と、あくまで “地上の人生” だけに目を留めて語っています。そのような意味では、彼らの語った因果応報論の “幸・不幸” は、現世利益を受けるか受けないか、という視点なのかな…と感じます。

 それが6節以降のツォファルのことばに表れています。

*6~9節を読みましょう。

 ここでは、高ぶる者の愚かさについて語っています。彼は、一時的に繫栄しても、それは長続きせずに必ず「滅び」、繁栄していた時の輝かしい姿は後世に忘れ去られるというはかない終わりを語っています。

*10節を読みましょう。

 高ぶりによって一時的に繁栄したものの、滅ぼされ、空しく世を去った後に遺された子孫は、貧しい者たちに物乞いをしなければならないほど惨めな人生を送るという、悪の副産物を生み出すことを語っています。

*12~23節を読みましょう。

 ここでは、高ぶって滅ぼされた者の富、あるいはその子孫が譲り受けた富が、なぜ滅ぼし尽くされ、彼らが物乞いまでしなければならないほどにまで落ちぶれるのかについて語っています。

 それは「悪」によって、人々を「踏みにじって」、他人のものを「かすめて」奪ったことによって得た “悪銭” だからだ、と言っています。

 そのような汚い富を「コブラの毒」と表現し、その富で贅沢な生活を楽しんでも、それを飲み込んだ時から、その人のさばきが始まると告げています。普通、生きるために食べますが、その食べたもの(悪銭で買った物)で死ぬという、壮絶なしっぺ返しがあると言っているのです。

 「悪銭身に付かず」ということわざがありますが、箴言にもそのような意味を持つことばがあります。

箴言13:11「急に得た財産は減るが、働いて集める者は、それを増す。」

箴言21:6「偽りの舌をもって財宝を得る者は、吹き払われる息のようで、死を求める者だ。」

 「急に得た財産」は、ギャンブルや宝くじで当たったお金などのことで、「偽りの舌をもって(得た)財産」は、詐欺などだまし取ったお金などのことですが、どちらも “正当な収入” ではないので簡単に失われるものであることを教え、簡単に富を手に入れる方法を試したり、金銭に囚われ過ぎる生き方に警告を与えているみことばで、ツォファルの言い分とも一致する点もありますが、ツォファルが言っているのは “一般論” としての教訓ではなく、「ヨブは悪銭で一時的に栄えたが、その悪が明らかになり、さばかれてすべてを失った」と、ヨブへの当てつけのことばなのです。そのような意味では全く間違っているのです。

*24~28節を読みましょう。

 23節の“神の怒りとさばき”から免れ得ない様子を語っています。

 24節「弓」と25節「矢じり」は、おそらく、ヨブがかつて語ったことばを引用したのでしょう。ヨブは自身の苦しみをこのように表現していました。

ヨブ16:12~13「神は私を打ち砕き…私を立てて自分の的とされた。…私の内臓を容赦なく射抜き、私の胆汁を地に流した」

 ヨブは、神によってさばかれているというではなく、神に知られている苦しみ、神の許しの下に起きている苦難であり、自分にはわからないが、神には目的と意味がある、という意味で告白したことばでしたが、ツォファルは「あなたは自分でこう言っていた。この苦しみは神からのさばきだ、それが答えだ」と、自分の考えに合わせて解釈して語ったのです。神さまに目を向けなかったことが、このような誤解を生みだしてしまったのです。

*29節を読みましょう。

 ツォファルの結論は「不幸な現実は悪者の受け取る報酬だ」という、一見、納得してしまいそうな “有りがち” なものでした。しかし、この結論には致命的な問題があります。

 “苦しみ” が “悪者” の結末だというのなら、十字架で死なれたキリストは “悪者” だということになるからす。たしかに、キリストは呪われた者として扱われました。

ガラテヤ3:13「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。」

 しかしそれはキリストご自身の罪の故ではなく、私たちの罪の故です。キリストは “私たち自身となって” 十字架にかかられ、私たちが受けるべきだった苦しみを味わわれ、私たちが死ぬべきだったのに、身代わりに死なれたのです。しかし、罪のない方であるからこそ、よみがえられたのです。罪があるから死ぬのであり、罪がないなら、死につながれることはないからです。

使徒2:24「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」

 自分の愚かさから間違った選択をし、苦しむことも確かにあります。だからといって、すべての苦しみを因果応報論で片付けてしまうことは、神を無視した考えでもあるのです。

 苦しみの中でもがく時、私たちのすべての罪を負って苦しみまれたキリストに思いを馳せましょう。

 

*では、20章を読みましょう。  

   ・・・最後にお祈りしましょう。