ヨブ記19章 | 聖書が読みたくなる学び

聖書が読みたくなる学び

いのちのパンに添えるコーヒーのような
…時に苦く、時に甘く、時にしぶい内容を自由に書き込みます

*1~3節を読みましょう。

 エリファズ同様、ビルダデも、ヨブを悪者と決めつけ、さばきが待っていることを告げましたが、ヨブはそのような批判のことばに惑わされて気に病んでしまうことはありませんでした。むしろ、毅然とした態度で自身の確信について話します。

*4節を読みましょう。

「もし、私がほんとうにあやまって罪を犯したとしても、私のあやまって犯した罪が私のうちにとどまっているだろうか」

 ヨブは、罪人であるけれど、友人たちが指摘しているような “隠し持った罪” は無いと言っています。これは最初からの変わらない主張です。しかし、自分で自覚していないために、“告白していない罪” があるかもしれない、という思いもあるのです…が、だからといってその “告白していない罪” によって自分がさばかれてしまうのではないか、との不安は持っていないことを述べているのが4節のことばです。

 ヨブのこの確信は、これまでの信仰生活で築かれてきたものです。

 下記のみことばにあるように、ヨブは罪から離れようと意識して生活していたし、罪を自覚した時には、そのままにしておかないで、神さまの前に告白して悔い改め、いけにえをささげるという神さまの示された “罪の赦し” の方法を行ってきたのです。自分なりのやり方であれば、本当に赦されたのかどうか怪しいものですが、神さまの示された方法を文字通り行ってきたので、解決が与えられていると確信することができたのです。

1:1「この人(ヨブ)は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」

1:5「ヨブは彼ら(子どもたち)を呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全章のいけにえをささげた。ヨブは、『私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない』と思っていたからである。ヨブはいつもこのようにしていた。」

 ヨブの時代(族長時代の頃)は、律法が与えられる以前だったのですが、罪を自覚していけにえをささげることはしていました。これは創世記3章に記されている、アダムとエバが罪を犯した時、神さまご自身が動物をほふり、罪が赦されるためには犠牲が必要であることを示されたことを、アダム夫妻から子々孫々へ語り継がれ、その伝承に従って守り行っていたものと思われます。ここでの動物の犠牲も、後に与えられたいけにえの儀式律法も、キリストによる贖いによる救いを “型” として示されたものなので、その “原則” は、律法が与えられる前も後も、律法時代が終わり、教会時代に代わってからも変わりません。“原則” は以下のみことばの通りです。

エゼキエル18:4「罪を犯した者は、その者が死ぬ。」

へブル9:22「血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはないのです。」

 さらに、ヨブがここで言っていることは、持論や思い込みではなく真理なのです。

Ⅰヨハネ1;9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

 上記のみことばで注目していただきたいのは、神さまは告白した罪 “だけ” を赦し、告白していない罪に関しては執行猶予状態にしておられるのではありません。なぜなら、「すべての悪から・・・きよめてくださいます」とあるからです。どうして告白していない罪まで(すべて)赦してくださるのかというと…私たちはすべての罪を覚えていないし、自分で罪だと認識していない罪もあるので、すべてを告白することは不可能だからです。もし「すべての罪を告白する」というたった一つでも条件がついてしまえば、誰一人として救われることができないのです。

 寄り道が長くなりましたが、再び本文へ戻りましょう。

*5~6節を読みましょう。

 ヨブは、友人たちがヨブを責め続けているのは、神さまが理由なく苦しみを与えられることを知らないからだ、と言っています。理由のない苦しみとは、罪や悪に対する報いとしての苦しみという因果応報に当てはまらない苦しみのことで、それは神さまの側には理由と目的があるが、人間の側には明かされていないという意味で“理由が無い”と思える苦しみのことです。ヨブは、自身の苦しみをこのように理解していると語ったのです。

*7~20節を読みましょう。

 そして16~17章同様に「神が」「神は」と、自身に降りかかっている苦しみは、神さまに拠って引き起こされていることを述べます。理由がわからないからこそ苦しい。しかしヨブは、苦しみの中に神さまの姿を見ていたので、このような確信を持つことができたのです。そして、ここにもやはりヨブの苦しみとキリストの苦しみがリンクして語られています。

 7節「暴虐」とは、“神さまの正しさに反すること”、“神によってさばかれるべきこと”、を意味し、「『暴虐だ』と叫(ぶ)」とは、不当な扱いを受けて苦しむ人が神に助けを祈り求めることを示します。これは、ヨブがずっと神さまに訴え続けているけれど、応答がなく辛い思いをしていることを表現していますが、キリストもこの世の罪に悲しみ、父なる神に祈りをささげていました。

 8節「神が私の道をふさがれたので、私は過ぎ行くことができない」とは、普通に歩くことができないことを意味しますが、歩行の困難さを示しているのではなく、ヨブに突如降りかかった困難によって、それまで順調だった人生が一変したという意味での “歩みが妨げられた” ことを表しています。

 キリストは、様々な妨害や迫害に遭ったと言う点で “歩みが妨げられた” こともありましたが、究極的には、夜通し受けた不当な裁判と暴行によって傷ついた体で、重い十字架を背負い、沿道には惨めな姿を一目見ようとして集まった人々に罵倒されながら、ヨロヨロとゴルゴタの丘の上へ歩みを進める姿は、まさに「道をふさがれた…過ぎ行くことができない・・・通り道にやみを置いておられる」状態でした。

9節「神は私の栄光を・・・私の頭から冠を取り去られた」

 苦しに遭う以前のヨブの人生は、順風満帆であったと思われます。しかし、人からうらやましがられるような生活が一瞬のうちに失われました。それにより、今まで慕っていてくれた人々は離れ、侮辱的な扱いを受けている、そのような現状を表していますが、キリストは文字通り「栄光」「冠」を取り去られました。しかも、ご自分の方から、です。

ピリピ2:6-8「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」

 11節でヨブは、神さまに呼びかけても応答がない “神の沈黙” を「怒りを燃やし…敵のようにみなされる」と表現していますが、キリストは私たちの身代わりとして、つまり“罪人そのもの”と成り代わって十字架にかかられたので、十字架上では“神と敵対する者”としての扱いを受けられました。なぜならば、その十字架によって成し遂げられた贖いによって、私たちと神との敵対関係を取り去るためです。

エペソ2:15「敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。」

エペソ2:16「十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」

コロサイ1:21「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」

 13節以降でヨブは、親しい者たちから誤解され、孤独と苦悩の中にあることを語っていますが、キリストも家族から理解されず、親しい者たちからの裏切りや見捨てられ体験を味わわれました。

 17節「私の息」とは、“呼気”のことではなく“いのち”のことで、「妻にいやがられ・・・きらわれる」とは、2:9のことを言っているのでしょう。キリストも、「十字架につけろ」と要求する声がピラトを圧倒するほど、死を望まれました。

20節「私の骨は川と肉とにくっついてしまい、私はただ歯の皮だけで逃れた」

 すべてを失ったことと、わずかに残されたものは、病に侵されて衰弱した身体だけであることを告げています。

 *21~22節を読みましょう。

自身の苦しい現状を告白したヨブは、再び友人たちに向かって呼びかけます。

「あなたがた私の友よ。」

 友人たちがヨブのことを「悪者」「彼」という代名詞を使い、友人というより、関りの浅い第三者的な扱いに代わっていったのとは逆に、ヨブは三人のことを「私の友」と呼んでいます。ここにもキリストを思わせる共通点があります。

そしてヨブは友人たちに一つのお願いをします。

「私をあわれめ、私をあわれめ。」

 敵対心をむき出しにし、責め続けるのではなく、あわれんでほしいと願ったのです。その理由は「神の御手が私を打ったからだ。」と言っています。ヨブは、この苦しみが、罪の罰やさばきではなく、神さまからの特別な取り扱いであると理解していました。だからこそ、自分がこの試練に耐えられるようにあわれんでほしい。具体的には、寄り添い、励まし、祈って欲しい、ということです。

 これは、同じ神を信じる “信仰の友” にしかできないことなので、「私の友よ」と呼びかけ、お願いしているのです。また、それと同時に、ヨブは彼らとの関係回復も願っているのでしょう。

 神さまからの試練であるならば、逃げるのではなく、その中で学ぶべきことを学び、変えられるべきことを変えられるまで耐え忍ぶ必要があります。ヨブはそのような理解に至っていたのでしょう。

 22節は、友人たちが、神でもないのに「神のように」なって、ヨブを罪に定めて責め続けていることと、ヨブの苦しむ姿を見ても「満足」せずに、責め続けるという愚かなことはやめるよう訴えています。

*23~24節を読みましょう。

 これは、ビルダデの語ったこと(18:17)に対する応答です。ビルダデは「消え去る」と言いましたが、ヨブは、自分のことばが永遠に記録されることを願っています。そして、願望で終わらず、これは実現するのです。今、私たちが読んでいる聖書がその実現したものです。

*25~27節を読みましょう。

 「私は知っている」とは、知識として既知であるということではなく、“神によって知らされた” ことを意味し、この苦しみの中で教えられたこと、ということでしょう。

 この箇所を、聖書が完成した教会時代の私たちが読むと、文字通りに受け取ってしまいますが、ヨブの時代はここまでの理解はなかったと思われます。“奥義” としては与えられていても、それが明かされてはいなかった時代ですので。もちろん、結果的にキリストを指すことが明かされたのですが、この時点ではヨブ記の流れから解釈する必要があります。

 「贖う方」は “弁護してくれる人” を意味するので、今までヨブが希望的に語って来た「証人、保証してくださる方」(16:19)「とりなし」(16:21)「保証する者」(17:3)の言い換えです。そして「生きておられる」とは、“存在する”という意味なので、「確かにおられる、必ず存在する」というヨブの確信を語っています。

「後の日に、ちりの上に立たれることを・・・私は私の肉から神を見る。」

 「立たれる」とは、復活用語なので、キリストの復活の預言として読んでしまいますが(結果的にはそうなるんだけど…)、ここでは「必ずお会いすることができる」というヨブの確信です。また、「私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ」とは、“待ち望んでうめいている” ことを意味します。

 ちなみに、26節の「見る」は “肉眼で見る” ことを意味し、27節の「見る」は “心の目で見る” ことを意味します。自分の思いの中だけで「見る」のではなく、確かに現実の世界でも「神を見る」と、ヨブは信仰告白をしているのです。そして、これも42章で実現するのです。

*28~29節を読みましょう。

 自身の信仰からの苦しみの受け留めを語ったのち、友人たちに戒めのことばを語って締めくくっています。

 もし、ヨブをあわれまずに責め続けることをやめないなら、あなたがたは自分の語ったことばによってさばかれることになる、と。厳しいことばのようですが、これはヨブが “友人” として友人たちに送った “あわれみ” の警告なのです。 

 

*では、19章を読みましょう。  

   ・・・最後にお祈りしましょう。