ヨブ記21章 | 聖書が読みたくなる学び

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 20章のツォファルのことばを受けて、ヨブが答えます。

*1~5節を読みましょう。

 21章は、二巡目の締めくくりになりますが、その冒頭で、ヨブは友人たちとの感覚の違いを指摘し、一つの “お願い” をしています。

2節:「あなたがたは、私の言い分をよく聞け。これをあなたがたの私への慰めとしてくれ」

 友人たちは、ヨブに自分なりの分析結果を語り、ヨブに納得させることが「慰め」になると思って、ここまで語って来ましたが、ヨブにとっては全く慰めになっていないと語っています。語るのではなく、むしろ黙って話を最後まで聞いてほしい、それが真の「慰め」だと語っています。

3節:「私が語って後、あなたはあざけってもよい」

 しかし、自分だけが一方的に語り、他の誰も発言させないとは言っていません。ヨブは自分の独白が常に正しいとは思っていませんし、友人を通して気付かされることもあるので、友人たちの声も聞く準備があることを告げていますが、まずは自分の話を最後まで聞いてほしい(途中で遮らないでほしい)とお願いしています。

4節:「私の不平は人に向かってであろうか。なぜ、私がいらだってはならないのか」

 ここでの「いらだって」とは、イライラしている感情のことではなく “なぜ?という問い掛け” を意味します。友人たちがヨブに同情し見舞いに来た時、七日日間、彼らはただ黙ってヨブに寄り添っていました。それがヨブにとっては慰めになったので、胸の内に仕舞い込んでいた思いを吐露し始めたのが3章のことばです。

 しかし、それはヨブの独白であって、友人たちに向けたものではありませんでした。なのに、友人たちはそれに対して「答えなきゃ!」という使命感をもってしまい、次々に熱く語り出したのです。それがここで言っていることです。ヨブが弱音を吐いたのは「人(=友人たち)に向かって」ではない。「なぜ、私が “神に苦しみの意味を問い掛けて” はならないのか」ということです。

 これは私たちも気を付けなければならないことです。誰かが、悩みや心配事を打ち明けてくれた時、「答えなきゃ」という使命感をもって語ってしまうことがあります。または、最後まで聞く忍耐を切らして「つまり、こういうことでしょ」というような感じで勝手に要約してしまったり、話を遮ってしまったり、更には、語り過ぎて失敗してしまうこともあります。ここでヨブが言っているように、話を聞いてほしいだけというケースも多いのです。そうでなくても、まず相手の話を黙って聞くこと(傾聴)はとても大切です。そういう意味では、神さまがずっと沈黙しておられたのは “傾聴” の良い模範です。ヨブは、神さまが応えてくださらないことに辛さを感じていましたが、ヨブのここまでの変化を見ると、神さまの沈黙がヨブの慰めになっていたことがわかります。

*5節を読みましょう。

 「私のほうを見て驚け」と言っているのは、おそらく病気によって醜く変わったヨブの姿を、友人たちは直視できず、目をそらしながら語っていたのでしょう。ヨブは、しっかりと自分の方を向いてほしいと言っています。しっかり向き合うことから逃げておいて、語調強めに語るのは「慰め」ではないですよね。

*7~15節を読みましょう。

 ここからは、ツォファルの語った「悪者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみはつかのまだ」(20:5)との原則に当てはまらない人生を送っている悪者もいる、という現実を語っています。

7節:「なぜ悪者どもが生きながらえ、年をとっても、なお力を増すのか」

 いつの時代にもこのような現実は普通に見られます。悪いことをして裕福な生活をしている人や、ズル賢く世渡りして成功している人など…そういう人を見ると、嫉妬心から「いつか痛い目にあうだろう」とか思うのですが、そうでもなかったりします。しかし、このような悪いお手本(成功例)がはびこっているからこそ、人間の心は悪を行い思いで満ちているのでしょう。

伝道者8:11「悪い行いに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行う思いで満ちている。」

 続けてヨブは、そのような「悪者」たちの生活がいかに充実しているかを語ります。その家庭は「平和」「恐れ」(心配や思い煩い)がなく、悪者の衰退を期待している者たちの思惑とは逆に、「神の杖」(杖=さばきの意味)も下ることなく、むしろすべての面で繫栄して、幸せそうなのです。

 10節に「牛」がたくさん子牛を生む様子が描かれていますが、当時の家畜は財産の一部であり、それらが順調に増やされることは事業の成功を表しています。11節では「幼子、子」がたくさん与えられ、彼らがすくすくと育っている様子が描かれていますが、当時、子だくさんであることは繁栄と祝福のしるしと思われていました。また、子孫が絶えないことは、その家系がずっと名を遺すこととしても重要なことでした。さらには、13節では、悪者であるはずの人の人生が、「しあわせのうちに」大往生で終えている、という結末が記されています。

 9~13節だけを取り出して読むなら、悪者の人生の記述であることを忘れてしまいますよね。なので14節でヨブは改めて「しかし」と、彼らがどのような人であるのかを語っています。

「私たちから離れよ。私たちはあなたの道を知りたくない。」

 まず、彼らははっきりと神を否定する人たちです。

「全能者が何者なので、私たちは彼に仕えなければならないのか。私たちが彼に祈って、どんな利益があるのか」

 悪者は、現世利益だけを求めているので、利益につながらないものは必要ないと切り捨てるのです。…でも、この考え方は「悪者」に限らず、誰もが持っている考えなのです。

 「悪者」が繁栄している様子を見て、嫉妬したり、さばかれればいいのに、とか考えてしまうこと、もしくは不平等な世の中に理不尽さを感じたり、神さまに対しても不信感をもったりすることは、何気なく抱いてしまう思いですが、それが正義だと考えてしまうのは少し危険です。なぜなら、神を信じることの意義を “人生の祝福” に置いてしまっている考えだからです。クリスチャンになったらいつもHAPPYというわけではないです。しかし、辛いことや苦しみが "何かの罰" というわけではなく、そのような経験も、神さまにあって受け取るとき "益" と変えられると聖書は語っています。

ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

*16~20節を読みましょう。

  ここまでヨブは、因果応報論に当てはまらない現実があることを語ってきましたが、だからといって「悪者」が繁栄する現実を良しとしているわけではないことを語っています。

「見よ。彼らの繁栄はその手の中にはない。悪者のはかりごとは、私と全く関係もない」

 悪者であろうと、そうでなかろうと、すべての人に等しく恵んでくださっているのは神さまです。

マタイ5:45「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」

 しかし、その神さまを否定(拒絶)し、自分の力だけに頼り、自分を誇る生き方と価値観(←悪者のはかりごとの意味)は、私(ヨブ)には全くない思いだ、と言って、悪者の繁栄に嫉妬することもなければ、倣おうとも思っていない。むしろ、そのような人生は空しいものであることを(18節)告げています。

 そして、19~20節では、悪者に対する正しいさばきが下ることを望んでいることも告げています。

*21~26節を読みましょう。

 そして、友人たちが語る因果応報論の欠点を語ります。それは、生きている間に受けたもの(祝福、繁栄、苦しみ、衰退等)に違いはあっても、すべての人に「死」という同じ結末が待っているということです。そして、その人生の終わりを定めているのは "自分自身" ではなく、すべての人にいのちと人生を与えられた "創造主である神" なのです。華やかな人生であろうと、平凡な人生であろうと、それぞれの人生の中で創造主である神の存在を知り、自分に与えられた人生の意義を教えていただくことこそ、幸いな人生なのです。成功者として生きることや、苦労をしないで生きることが "幸せ" なのではないのです。

*27~33節を読みましょう。

 そして、友人たちの根拠としている "経験" と "伝統的な教え" にも欠点があることを指摘します。

「あなたがたは道行く人に尋ねなかったか。彼らのあかしをよく調べないのか」

 「道行く人」とは、"通りすがりの人" ということではなく "旅人" のことで、いろんな世界を行き巡った視野の広い人のことを指します。その人たちに「尋ね」て、聞いた情報を「よく調べ」てみなさいとアドバイスしています。つまり、あなたがた(友人たち)の知らない世界がある、あなたがたはすべてを知っていないのに、なぜ「私は知っている」という姿勢で自信満々に語るのか? と言っているのです。世界は広く、歴史は深く長いのです。それなのに、たった数十年の人生経験と、自分の頭に収まるだけの狭い知識と偏見で作ったマニュアルに当てはめて、すべてを判断しようとすることは愚かなことです。

*34節を読みましょう。

 21章の冒頭で語ったことを、ことばを変えてもう一度語っています。友人たちは、自分たちの理論を自身を持って語り、ヨブを納得させようと意地になっていましたが、それは「慰め」ではないと。

「あなたがたの答えることは、ただ不信実だ」

 ここで「不信実だ」と言っていますが、「信実」とは、"まじめ" や "打算のないこと" を意味し、それが「不」(=無い)とは、友人たちのことばや態度は、真面目さが感じられない、打算があるように見えると言っているのです。

 ヨブは、友人たちのことばがキツかったから「慰めになっていない」と言っているのではなく、人間的な考えを押し付けてくると感じて、「慰め」としては的外れだと思っていたのでしょう。

 私たちも、人と関わるとき気をつけたいポイントです。


*では、21章を読みましょう。  

   ・・・最後にお祈りしましょう。