2006.8.2(wed)![]()
今日は私の亡くなった父の誕生日です。
生きていれば83歳になります。もう今年で亡くなって18年になりますが、
いまだに私の心からその輝きは失われません。
父は大正12年生まれ
太平洋戦争では東南アジアで苦労をし、(あまりその話は聞いたことはありません。いつか聞きたいと思って
いましたが、叶わずでした。
戦後復員してやっとのことで会社勤めを始めてすぐに、母と出会いすぐに結婚しました。
(母はまだ19歳でしたが、若い時に父親をなくし、母親が3人の子を連れ苦労をしていたので、
長女だった母は早くから働かなければいけなかったそうです。
一回りも違う父に惹かれたのは自分の父親にだぶらせていたのかもしれないと、
後年はなしていました。
そんな中で生まれた私ですが幼い頃の思い出というと嫌なことは一つもありません。
父はその当時としてはめずらしく運転免許証を取得していて、
その資格で、ある大手企業の社長自家用運転手として働いていました。
そんな仕事のせいか、その社長の立派な外車に乗ってバラックのような家に帰ってくるのです。
そうすると近所の子供たちがわ~といっせいにそのキャデラックやベンツのまわりに集まってくるんです。
私はさも自分が車の所有者であるかのように、あとからゆっくりと、そして子供たちの羨望のなか
間を通り、車から降りてくる父に抱かれるのが日課のようでした。
その当時の写真はよく車の前に立った私がいます。
弟が生まれるまでの4年間は特に、両親の愛情を一身に受け、近くにあった阪神パークや
甲子園の海水浴に出かけては写真を撮っています。
私が花形だったのはそれがどうやらピークのようです
現実にその車が自分の物ではないとわかった時、弟が生まれて、そちらに愛情の一部が移っていったこと、
父が勤めていた会社の社長が亡くなられ、失業を余儀なくされたことなどから
私は自分中心に世界は回っていないことを理解したようです。
それから父はまた同じような社長運転手として働くのですが、その社長がかの高級住宅地の芦屋六麓荘に
家を建てたの機に私たち家族もその社長の邸宅の庭の一部に小さな一戸建てを建て
住むようになったのです。
この家には結局私が結婚するまで住みました。
大きな邸宅には社長とその身のまわりのお世話をする人、食事を作る人、庭の手入れをする人などが
同居されていましたが、子供がいないこともあり、私たち兄弟3人はその女性社長をはじめ、
そこにすむ人々にかわいがられました。
日本庭園のような大きな庭には池や竹林やゴルフのミニコース、お茶室などがあり、私たち子供は
遊ぶ場所に事欠きませんでした。
毎日のように自分の庭のように遊びまわり、母からは母屋には近づいていけないとの注意も忘れ、
走りまわっていました。屋敷の中で十分に楽しめたのです。
いまも弟たちと当時のことが話題になると、”おもしろかったね、かくれんぼしたら絶対見つからんし・・”
どこかに宝箱を隠した思い出も
あれいまもあるかな~?
時々連れてくる学校の友達(学校が遠いので、あまり学校の友達とは遊ぶ機会はありませんでした)が
その庭の広さに驚き、喜んで遊んでいました。
なんか父に話が私の思い出話になってしまいましたが、大工仕事、庭仕事、電気工事も
そして、遊びもやってのける人でしたね。
よく器用貧乏って自分で言ってましたね。
私は完璧にその血を受け継いでいます。
小さな家だったのを、私が年頃になって自分の部屋がほしいとわがままを言った時も何ヶ月かかかって、
建て増しを作ってしまいました。
キャンプも家族でよく出かけました。
安月給だから、遠くに旅行などは連れていってやれないと言ってましたが、子供の時というのは、両親と
兄弟そろって山を歩き、池で泳ぎ、キャンプしてご飯を作る・・こんなことの方が、よほど心に残っています。
今生きていたら、がんこじいさんになって、憎まれ口言っているでしょうか
早く亡くなっていい思い出しかないのは、今生きている舅などには申し訳ないですね。
長く生きていれば、きっとそれなりにいやなとこもいっぱい見えたでしょうからね。
亡くなった父の誕生日が8/2です。生きている舅の誕生日が8/3です。
明日は舅に電話をして
”おめでとう”と笑顔で言いましょう!