【今週の暗誦聖句】

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」ヨハネの福音書 15章16節

 

【今日の聖句】

「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。』」出エジプト記 3章7節

 

「兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい』と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。」ヤコブの手紙 2章15,16節

 

【おすすめ】

 今日という日を主にあって始めることが許されている、ということは、この先何が起きても、主がともにいて支えていてくださり、必要の一切を備えていてくださることの証拠です。どんなに苦しい場面に遭遇したとしても、恐れる必要はない、そんなことを目覚めとともに教えられるのです。

 

 でもこの事実を知らない多くの人たちが周りにいます。着る物がなく、食べ物にも事欠いている人はなかなかいないかも知れませんが、生きる意味を見失い、「どうして私が」「どうして私の家族が」と悩みつつ歩んでいる人がいるかも知れません。そんな時には着る物、食べる物ではなくとも、耳を貸すことができるでしょうし、一緒にいる時間を提供できるかも知れません。

 

 そうすることで、主がその人に対しても「わたしはあなたの苦しみを確かに見、叫びを聞き、あなたの痛みを確かに知っている」という事実をお伝えできるかも知れません。「かも知れない」と繰り返しましたが、私は時々、自分が生きていて何になる、どうせ私は役に立たないと卑屈になることがあります。でも「どうせ私なんて」と否定して生きるより、「かも知れない」という可能性に生きた方が、豊かな日を過ごせるのではないか、とふと思った次第です。(あるドラマを見て教えられました)

 

 今日という日を生かしてくださる主にあって、豊かな一日を歩めますように。私たちを通して生きる方向を見出す人がいるかも知れないことを覚えつつ、希望を抱いて生きる一日でありますように。

【今週の暗誦聖句】

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」ヨハネの福音書 15章16節

 

【今日の聖句】

「主は その高殿から山々に水を注がれます。みわざの結ぶ実によって 地は満ち足りています。」詩篇 104篇13節

 

「彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。『一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。』そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。」ヨハネの福音書 6章12,13節

 

【おすすめ】

 「心配しないでも良い」と優しく語りかけられているように感じます。私たちの天の父は、空の鳥にも餌を与えてくださり、野のゆりも綺麗に咲かせてくださるお方です。そして私たちのことを気にかけていてくださり、必要の一切を備えて、私たちが祈り近づくのを待っておられます。招いておられます。

 

 何かが足りないと思う時、なぜそれが必要なのか、本当に足りていないのかを考えさせられます。病気などの困難の中に置かれる時、すべてを主が共にいてくださり、すべてを知ってくださっていることを前提で、この苦しみの中にあって、主は私に今、何を語りかけておられるのだろうか、どのようなみわざをなされるのかを思います。

 

 でもやはり、それが主の訓練のときであったとしても(それを知っているからこそ)、それはその時には苦しく、悲しいものです(ヘブル12:11)。だからこそ周りにいる者たちが共に立ち、執り成し、やがて義という平安の実を結ばせていただくまで支え合っていけるように、麗しい交わりが形成されていくようにと願っています(詩篇133)。

【今週の暗誦聖句】

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」ヨハネの福音書 15章16節

 

【今日の聖句】

「主よ、あわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。朝ごとに私たちの腕となり、苦難の時の、私たちの救いとなってください。」イザヤ書 33章2節

 

「すると、長老の一人が私に話しかけて、『この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。どこから来たのですか』と言った。そこで私が「私の主よ、あなたこそご存じです』と言うと、長老は私に言った。『この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。・・・彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。』」ヨハネの黙示録 7章13,14,16節

 

【おすすめ】

 私たちに与えられている信仰は、次々に襲い来る困難や苦難に耐えるために与えられているのでしょうか。とは言っても、それは苦しみの中にあってじっと我慢するということではありません。苦難の中にあって尚「あなたを待ち望みます」と主の名を呼ぶことを可能にする信仰です。

 

 「朝ごとに」ということばが心に留まりました。困難の中にあっても、敵に囲まれる状況であっても、主が朝を迎えさせてくださる。暗いうちも主が見守ってくださって、この1日の働きに送り出してくださる。聖霊を助け主として、私たちと共に歩んでくださる。そんな希望を告白して一日を始めることが許されていることを覚えます。

 

 そしてこの困難には必ず終わりが来ること、それだけでなく、もはや一切の苦しみや悩みが取り去られる時が来るのです。その日、その時が来るまで、私たちは大きな患難が襲って来たとしても信仰、希望、愛をいただきながら歩むのでしょう。主が共にいてくださる恵みと祝福をいただきながら。