東洲斎写楽 《市川鰕蔵の竹村定之進》と 《三代目瀬川菊之丞の田辺文蔵の妻おしづ》
今日の一枚のアート(←勝手に名付けた)
謎の絵師、東洲斎写楽の2枚の作品。
一昨年の冬、東京国立博物館の常設展にありました。
両方とも、写楽の最初のデビュー作の大首絵で、彼の代表作の一つです。
とっても気になっていたので、この機会にちょっとご紹介。
●東洲斎写楽 《市川鰕蔵の竹村定之進》寛政6年(1794)
市川鰕蔵とは、今でも歌舞伎の世界に名前が残っている市川海老蔵のこと。
この鰕蔵は5代目の市川團十郎のことだそうです。
大きな目や口。大げさな表情などが大役者の風格をにじませる顔貌表現になっていますね。
柔らかく組んだ両手手、ちょっとずれている成田屋の三枡の紋。
見ていて飽きない作品ですね。
●《三代目瀬川菊之丞の田辺文蔵の妻おしづ》寛政6年(1794)
瀬川菊之丞は、当時の女形。
この役は、貧乏に疲れた「おしづ」が娘を遊女に売る場面という話もあるそうですが、、
頭に鉢巻をしているところから、病気で寝込んでいたのでしょうか。
受け口の描写など、役者さんの本当の姿を移しています。
貧乏で、病気の母の姿。
そうと知ると、悲しさが、この作品に込められているのに気がつきますね。
■東洲斎写楽
寛政6年(1794)の5月にいきなり、雲母刷の28枚の役者絵でデビューした東洲斎写楽。
当時の大版元の蔦屋としては、これは破格の大作戦。大型新人として期待していたのでしょうね。
役者の本当の姿を絵にしたと言われています。
役者の良いところも悪いところも描いていて、それがとても魅力ですよね。
写楽は、それから4回に分けて作品を発表。
だんだん、作風も変わってきて、あとの方になると、初期の頃の魅力がなくなってきてしまいます。絵としては面白かったでしょうけれど、あんまり売れなかったのですかね。
そして、よく年の寛政7年の1月の作品を最後に写楽の活動は終わりを告げることに。
たった10ヶ月の間に、約145点の作品を残して、突如として消えた浮世絵画家。
いきなりの業界デビュー。
そして現在の私たちからみると、とてもインパクトのある絵を残し、そして10ヶ月後には消えていく。
本当は誰か有名画家が別人として描いたのではと思いますよね。
昔は、文献から阿波藩の能役者、斎藤十郎兵衛ということで決まっていたのですが、、
その斎藤さんの存在の資料がみつからなくて、他の人じゃないかと言い出した人がいるんですね。
本物は誰?、といろいろな人の別人説が出ていましたが、、、
現在は、その斎藤さんの過去帳が発見されて、写楽は阿波藩の能役者の斎藤十郎兵衛として落ち着いているそうです。
東博の常設展、いつもいろいろな作家や、時代の代表作が、何気に並んでいるので、見逃せませんね。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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