藤田新  -7ページ目

意地悪と呼ばれるもの

日本経済、低迷の元凶は日本人の意地悪さか 大阪大学などの研究で判明

 

 

 

 


少し前、こんな記事を読みました。

 

『十分な内需があるはずの日本が、他の先進国のように成長できない大きな要因は、日本人は諸外国と比較して「意地悪」な人が多く、
他人の足を引っ張る傾向が強く、日本を再び成長軌道に乗せるには、社会全体での改革が必要なのかもしれない。』

 

ということです。
 

 

 



私達の人間関係をイメージすると水の分子模型を思い出します。

 





人を水の分子のように描いてみます。

 

一人が動くと周りも連動して動いてしまいます。
動いて距離を保とうとするだけで、意地悪とは関係ありません。





地球上の多くの人達は、人と人を関係づける「基盤」のようなものを考えたように見えます。

基盤を作ると連動は止みます。

 

自分の位置が基盤に対する関係であれば、周囲が動いても関係ありません。
 



「個人」と「一神教」は対になっています。


意地悪は、「基盤」がないところに「個人」を無理に持ち込もうとした結果のように見えます。





一度基盤が出来てしまえば、色を変えることも出来ます。

 




私達は「革命」を知りません。







水の分子の間に、振動を伝える何かがあると仮定して
同じようなものが人と人の間にも想像してみます。

 

人と人を繋ぐ「面」ではない霧のような空間に広がるもの、それ自体を形に出来れば、

それはどんな種類の基盤に対しても共感を得られるものの筈です。

 

どんな種類の基盤もこの霧の一部です。







一人が動くと周りも連動して動いてしまうことを利用して、社会全体での改革が出来そうな

気がするのを想像出来ないことはありません。

 

でもそれは、     これをこう扱えると誤解している

だけのように見えます。




 

 

 

 

母の油彩画

母は入院していますが、昔の部屋には若いころ描いた油彩画が架けてあります。

何年も架けっぱなしになっています。

 

江藤純平先生という洋画家のアトリエに行って、若い頃油彩画を習っていたそうで、かなり前、江藤先生を知っている洋画家にこの絵を見せ、その後、その洋画家から額縁を頂きました。

 

モデルは江藤先生の奥様で、それで話しになったようです。

 

 

 

 

絵は、その作品を描いた人を身近に感じられます。

 

 

ふと この作品を別の場所に架け替えようと思い付き、日曜日に降ろしてみました。

 

ただ額に入れただけで裏板もなく埃がカンバスに積もっています。

掃除機で埃を吸うと、数字が見えました。

 

 

 

18、5、14、  と書いてあります。

 

昭和18年5月14日 でしょう。

 

78年前の一昨日でした。

 

 

 

 

 

 

才能という言葉を英語にすると、 talent という言い方と gift という言い方があるそうです。

才能は神から与えられた gift という意味ですが、多分今でも大多数の「西洋の根本的な思想・文化背景、美術史の流れ」の中にいる人にはその雰囲気は残っていると想像出来ます。

西洋のスポーツ選手の高額年棒の背景には gift を感じます。



絵を描くことも gift の一つです。

でも、母の絵は、いつまでも母に帰属して感じます。





これは結構深い問題のような気がします。

もし全ての作品が gift なら、作品はまるで一つの平面に並んでいて、その中での良し悪しが見えてきます。

作品が作者に帰属したままに感じるのは、基準になるような平面を持っていないからとも考えられます。

そこでは、作品を見るとき、どんな作品か?より、誰が描いたか?ということの方が大きく感じたりします。

作品そのものに向かい合って評価することが出来ません。





しかし、そこからさらに深い問題も連想出来ます。

宗教や人種が人を隔て、争いを作る と言われます。

何度かブログに書いた、ジル・テイラー博士は右脳の世界を「涅槃」という宗教的な言葉で説明します。
私も涅槃を知っています( と言ってしまいますが )涅槃という体験そのものは人を隔てるものではありません。
多分どんな宗教的と言われる右脳的体験も人を隔てるものではありません。

隔てるのは体験を体系化した「言葉」の世界です。

人を隔て、争いを作るのは、言葉で作る価値の属性で、宗教や人種を乗り越えようと「理性」で価値を作っても人を隔てるのは同じです。

 

 


gift も平面で価値そのものです。

しかし、過去のどんな時代でも美術品をそれなりに壊すこともなく受け入れて残して来た私達は、gift という平面を持っていないだけでなく、そもそも言葉の平面を持っていなかったとも考えられます。

作品に対するのと同じように 私達は、他人を向き合えない代わりに隔てられることもなく生きることが出来ます。
しかし、作品と向き合えないことは克服すべきことで、他人との対立的な関係こそ国際基準とする近代化の圧力は絶え間なくあって、生来の生き方はいつまで保てるか分かりません。
 

 

 

 



かなり前から制作する作品は基本 逆光で、描いたものと、絵を見る人自身が、同じ光に当たって隔てる感覚ではない視覚作品を作ろうとしています。
また、見る人が作品に含まれるような鏡の作品を作りました。


そして、鏡のような、逆光のような言葉をこのブログで作り出せないか・・・と思います。

まだ失われたとは言えない、私達にしか出来ないこととして。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘンプのシャツ

 

  ヘンプ


2年前の個展の時、「お麻もり」というヘンプの繊維の束を貰いました。
その後、服を作っている人が来てくれ、ヘンプでシャツが作れないか、
頼んでみました。

先日出来たヘンプのシャツです。

 


見た目はシャツでも袖を通すとシャツとは思えません。

 

シャツにしてはしっかりして、重く感じます。

 

 

 

袖も何もすべて長くて大きい、例えばこういうものを纏っている感覚がします。

 

    

 

 

昔の服を知っているから連想する、とも言えますが、昔の人が感じたことと同じことを感じているような気もします。

 

 

 

 

 

 

シャツを作った方が個展に来て貰えました。

 

許可を得たので、

PANHEM  facebook

PANHEM   instagram  です。

 

シャツの画像もあって、 facebookには

「然るべき神経を行き渡らせてひと針ずつ縫い上げていることをご存知」 と書いてあります。

 

 

この「ひと針」はシャツの前にマスクを見た時からの感じです。

マスクは小さいので糸まで良く目に入ります。

オ~~~~!  説明し難いですが、見たら誰でも感じると思います。

 

 

自分の中で説明を探してみると

 

 東山魁夷

 

この感じです。

雪が舞い降りる速度で絵が描かれているのを感じます。

 

 

 

「ひと針」糸を通す時間が感じられるのです。

 

 

 

 

 

 

作品集

久しぶりのブログです。
遠近法の続きでセザンヌのことを少し書いてそのままになっています。

今月末に日本橋三越で個展があり、制作に追われていましたが
もう一つ、今のコロナ禍で始まった文化庁の文化芸術活動継続支援事業の
公募というものがあり、それに応募して画像12点の簡単なものですが作品集を作っていました。

昔の作品の画像を集めれば簡単に出来ないことはありませんが、挨拶文は必要ですし
作品の解説も書きました。

過去の作品について書こうとするとその当時のことを思い出します。
思い出は楽しいことよりストレスの方が残っています(笑)

父は嘗て日経新聞の 私の履歴書 というコラムの連載に載りました。
文章は記者の方が書いて、実際はインタビューを受けるだけなのですが、あの経緯は
命を削ったように見えました。

 

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挨拶文

大学で彫刻を学んだ後、絵を描き始めて40年近くになります。
個展を始めてからは30年経ちます。
過去を振り返ることは好きではありませんが、何度があった制作の転機が
まためぐって来たのを感じている今、個展を始めてからの作品を選んで
最新作とまとめてみました。

作品の画像を見ると、制作した時の空気が鮮明に蘇って、その時感じていた課題の
切実さに息苦しくなる思いがします。

課題を作品にすると開放感がありますが、そこで次の課題が現れます。
そして、新しい切実さに惹かれて、新たな技法を作り出してきました。
転機と感じる今、数年後にやって来る転機を畏れるような期待を感じます。

作品集を作る切っ掛けの一つは文化庁の文化芸術活動継続支援事業への応募があり
ましたが、こうして振り返ると感じるのは、制作を続けられる環境を得られたことと、
何より作品を所蔵して下さる方がいなければ続けることは出来なかったという
深い気持ちです。

                    2020年12月

 

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作品集Ⅰとしたのは Ⅱ Ⅲ と作ろうと思ったからですがそのタイミングが

いつなのか分かりません。

 

 

面白いことはブログと活字にした文章は全く違ったように見えます。

モニターで見る画像と絵は違いますが、印刷物とモニターの画像も違います。

 

単にアナログ人間と言われてしまいそうですが(笑)全てがデジタルには

永遠にならないと思います。

 

 

 

 

 

仮想の平面の快感

 


 

この動画は面白いです
面白くて頭がクラクラしてきます(笑)

二人の画家の作品を比較して、作品が持っている空間の違いを教えない日本の美術教育の問題を語っています。

 

山田正亮

 

アグネス・マーティン

 

 

画像はネットで見つけたものです。
動画では山田正亮の絵を原始平面、アグネス・マーティンは透視平面、と言っています。

話しに出てくる1990年のミニマルアートという展覧会は見ていませんし、アグネス・マーティンの作品を見た記憶はありません。

しかしこうやって画像で作品を並べてみても、山田氏の作品はカンバスの位置がはっきり分かりますが、マーティン氏の作品には距離感のようなものを感じます。



動画は平面の種類を教えなくなった美術教育とその底にある今の「現代美術」の枠組みに影響を持ち続けているグリーンバーグという美術評論家の批判になります。

それは、空間の把握の訓練という経験を経た画家から見た、訓練を経ない評論家が絵画を語る限界に及びます。

 

訓練を経たものは、平面と呼ばれるものが物理的な平らな面であるものの他に、絵を描く時、全ての描かれるものがそこに映りそれを描き移す為の仮想の平面が目の前にあることを知っています。

その「仮想の平面」は動画の中の「透視平面」と実質同じだと思います。

 

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クレメント・グリーンバーグ

一部コピペします

1955年の論文「アメリカ型の絵画('American Type Painting')」のなかで、グリーンバーグはジャクソン・ポロック、ウィレム・デ・クーニング、ハンス・ホフマン、バーネット・ニューマンら抽象表現主義の画家を、モダニズムの次世代を担う存在として紹介し、モダニズムは絵画の「平面性(flatness)」を強調する方向に向かうと論じた。
彼は、平面性こそがモダニズムをオールド・マスター(近代以前の大画家たち)の絵画から分かつものであると強調し、抽象表現主義を装飾的な「壁紙」からハイ・アート(純粋芸術)の域へ高めた。

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画像だけで印象を言うのは適当ではありませんが、ポロックと生まれた年が同じアグネス・マーティンは自らを抽象表現主義といっていたそうです。でもその作品はむしろ後の世代のように見えます。
ポロック達の作品が「仮想の空間の快感」のようなものを感じられるのに対して彼女の作品は「仮想の空間の雰囲気」のようなもので快感にはなっていません。
 








そして、山田正亮氏の作品が日本で評価されるのは分からないこともありません。
日本の美術の導入の基本的な構造がこうなら、新しい被り物がグリーンバーグになれば以前のことは忘れてしまいます(笑)

 

この構造が問題と言われればそれはそうなんですが(笑)結果、作品はどこかで見たような印象を受けます。
実際、この次の動画で山田氏の作品の「元絵」はジャスパー・ジョーンズの星条旗の作品だと指摘され、言われてみればそうなのか!と納得してしまいます。

 

 


また、 「空間視」と「時間視」という座標を使った図の中で考えると、は最初知識として受け入れられ、時間軸にそった形になります。
山田氏の作品に絵具の物理的な動きを感じるのはその為のように見えます。

 

 

 

 

 

 


動画には予備校での空間視の訓練の話しがあります。それは本当に涙の物語ですが(笑)意識的に教えられることもなく、自力で気付く他ないパワハラ放置のような世界です(笑)

 

それがある時、恍惚感に変わる瞬間があります。


仮想の平面が現れる時です。

そこに映る全てのものは「意味」を失い、また、「意味」を捨て去ることで仮想の平面に映し出されます。

物の背面を描く、と言いますが、背面への「理解」を捨てた時、描いたものから背面が感じられます。

全ての絵画体験は、時間軸から空間軸への飛翔のような高揚感と恍惚感を本来伴っている筈です。






しかし 空間を見ることに関して、もっと深刻な問題があるかもしれません。
 

 

サッカーのファンというわけではないのですが、
偶然見たこの動画でサッカーがどんなスポーツか分かったような気がしました。

サッカーとは単にボールを蹴ったりフェイントの技術を競うのではなく、スペースの取り合いというかスペースの作り合い に見えます。
そしてこの選手は目の前の選手への対応だけで、スペースが見えないのではないか・・・?と思ってしまいます。

確か中田英寿氏の言ったことだったと思いますが、彼はゲームをする時 サッカーコート全体を俯瞰するように見ることが出来るそうです。

まるで空間視です。



そして中田氏についての動画です

 

 

動画のあとがきにある、中田英寿の「怒りと寂しさ」は彦坂氏に重なって見えます。




ただ、サッカーを離れ日本酒とか日本の工芸に興味を寄せる中田氏の今の姿は日本人が本質的に「空間視」というものが出来ず「時間視」のような世界で生きていく他ないと思っているような雰囲気を感じさせられます。





こうして生きることの限界を見るようです。

 

 

しかし同時にがいつまで有効なのか と思ってしまいます。

 

 

 

 

グリーンバーグが評価した抽象表現主義の後の世代では「仮想の平面の快感」のような感覚は消えているように見えます。

それはセザンヌとキュビズムの関係に似ています。

「平面」と言葉で規定したグリーンバーグは「仮想の平面」を理解していなかったのでしょう。

 

そして、快感を伴わない平面は、進化する方向が変わったのか、進化そのものが止まったように見えます。

 

或いは  そのものの構造の有効性が切れたようにも見えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これを生かす、というような当たり前な思いがしてきますが(笑)

国を挙げてこうしている時、それが可能なのか分かりません。
しかし、本来、対象と対峙することがない の中で「仮想の平面の快感」を見つけることが出来れば、それは「人間の意識の進化」になるかも知れないと思ったりします。

 

 

 

 

彦坂氏の言うように、日本は「ど田舎」に感じることはあります(笑)
しかし、都会と田舎の基準を自分で作らない限り、永遠に田舎のままです。

 

むしろ基準を輸入する行為そのものが、「ど田舎」を作っているようにも見えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

作られる危機感

コロナウイルスそのものは最近亡くなる人が少なくなって、理由は知りませんが
以前と違うものになったような気がします。
でも、印象にしか過ぎませんが、緊迫感はまだ続いているような感じがします。



 を  に変えようという圧力が明治時代から続いていると
感じられる時、この緊迫感は意図して作られているように感じられます。

実は、東関東大震災の時、この圧力が無くなった瞬間の経験を経ているので、
この緊迫感がこれほどウケる(笑)というか効くとは思っていませんでした。

緊迫感が続けば、震災前の気分に戻るか・・・?  まだ分かりませんが可能性はあると思います。

 

 

今、緊迫感に水を差すと「命を軽んじている」という「正論」(笑)にさらされそうです。

 


何年か後になれば、正しかった情報と間違っていた情報の区別が付けられます。
でも間違っていても非難されることはないでしょう。

危機感を煽る人はそれを良く知っています。

善悪二元論の世界では「嘘」は当たり前ですが、
 この中ではそもそも「責任」を問われることはありません。

 

 

を否定する目的の為にを使っています。

 

 





もうすぐ終戦記念日ですが、こういう雰囲気で煽られて戦争も行われたのだと思います。

一見煽る方向性は正反対のようですが、目指す地点は同じように見えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

融和的な世界

先日、若いプロレスラーの女性が亡くなったそうです。
SNSの誹謗中傷が原因という話しがありました。
 
以前 炎上について書いた事がありますが それを思い出しました 。
表現をする人はそれだけで炎上を内在しています。
 
 
ただ 今回のことで 今までとは違う図が思い浮かびました。

外からの働き掛け
同調圧力
炎上
 

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ヘルムート・リケ
つまりこの種の作品は西洋的発想からは生まれないのだ。見た目に訴えるように、
しのぎを削って追求していく、自意識の強い西洋の芸術表現の中で、藤田の一連の作品は、
独断的な海のうねりの中で、休息と調和の島のように思えた。
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これは父の作品への評論です。
 
 
 
 
見た目に訴えるように、しのぎを削って追求していく、自意識の強い独断的な海のうねりの
ような表現を求める「同調圧力」は存在しています。

亡くなったプロレスラーの女性もこの「同調圧力」を感じていたに違いありません。
 
 
 
 
 
万葉集 巻十三 三二五三  訳
柿本朝臣人麻呂
「葦原の 瑞穂の国は 神意のままに 言挙げしない国です
それでも 言挙げをわたしはします お元気に ご無事でいらっしゃいと
つつがなく お元気であられたら (荒磯波)ありてもーそのうちに逢えようと
百重波 千重波のように繰り返して 言挙げをしますわたしは
言挙げをしますわたしは」
 
 

融和的な社会の中、その「融和感」と「同調圧力」は異質で違うもので
私達は「同調圧力」」が発生すのを嫌っています。
 
 
 

日本の「改革」

 
 
美術を    と書きましたが、それは他のことでも感じます。







新聞で見かけた明治憲法の否定の文章です。

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お上の素直に従う権威主義と、個人よりも集団が優先される集団主義。
この「明治憲法の残滓」とも呼ぶべき二つの主義がいまだに社会に残り、
政府の要請に従わないことを許さない同調圧力と相互監視を生んでいる

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明治憲法と言いながら否定しているには     この部分です。



むしろ明治政府がしたかったことは を否定して な社会にしたかったので
この文章は否定に見えて実は明治政府とそれ程立場は変わらないように見えます。






本当に書きたかったことを想像すると



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明治時代、言葉で規定されることがなく、神官のようでもあり、存在それ自体が
「神聖」なように感じられていた「天皇」をゾロアスター教に連なるような
「神」と同じようなものに置き換えて近代的な君主国家のようなものを作り、
戦後は制度の中心を民主主義のような理念に置き換え民主主義国作った。
しかし両方とも伝統的な融和感を同調圧力に変質させて表面的に出来たもので
この融和感が、権威に従う権威主義にも集団主義にもなり
克服すべき課題として残っている。

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 元の文では何となく進歩的な雰囲気がして同意する人がいるかもしれませんが
想像した文では支持されることはないでしょう(笑)

 
 
 
 
 
新型肺炎の後、世界は新しい国家主義の時代が来るといいます。



新しい を作るとすれば、  の上に、新しい を探すか作って
被せるだけのように見えます。



 
基本的には簡単なことのように見えます。




 


 
 しかし本当にに改革して変えようと思っている人もいるのかもしれません。



「消費増税中核に」 政府税調、財政悪化を懸念

コロナ騒動が収まれば消費増税でしょう。 そして不景気です。



 
 無暗に人をに変えようとするのではなく、を生かす方法はある筈です。




 



 
 

美術の答え

3月の個展の時、ある美術の情報誌から広告の誘いがあり頼んでみました。

広告を載せると記事も書いてくれます。



案内状の表紙は鏡をイメージした新作で、それが広告にも記事にも載ります。
 
 


新作は今までの作品と違う試みをしているので解説を作って送りました。



   「表現が作られる場所」というブログとその要旨として



   「明治時代に輸入した美術が大震災と現代美術で終わった今

    表現という形を取らないで続いて来た意識の再構成を試みる。」



しかし、出来て送られてきた記事には送った解説を使った痕跡が一切ありません(笑)





単につまらないので採用されなかったのかも知れませんが(笑)

違うことを連想してしました。
 
 


以前にも書いた彦坂尚嘉氏のYoutube に、芸大批判というのがあります。
 






芸大の生徒は美術が好きなのではなく、芸大が好きというものです(笑)



美術というものは答えがない筈なのに、受験システムの中で芸大に入る、ということが

目的で「答え」になっている・・・というものです。









同じように、

美術はこういうものという「答え」のがあって、そこから外れる考えには

興味がないような雰囲気を情報誌から感じてしまいました(笑)



 
 


しかし彦坂氏が言うようにこれは大学全体のことなのであり、さらには私達の文化

そのものの問題のような気がします。





文化のあり方がこうならば

    

始めから私達は「答え」を知っています。





作品の制作とは、どの   を見つけか、ということでした。







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これはそう見えます。











もし、私達の美術が答えの無いものになる時があるとしたら、それは

 の中の人が、 を意味あるものと思い始めた時です。









 
 
 
 


















武漢肺炎が治まることを祈るばかりです。



今の政府の独特な対応はまるでこう見えます。





    

批判する声は大きいようですが、図のようになっては都合が悪い人の声のようにも

聞こえます。





 



しかし、いくら都合は悪くても、2011年の大震災の後 日本の空気はこうなっているように見えます。


 
 
 

表現が作られる場所

 

 

最近、朝 目が覚める途中の半分夢の中に、前のブログで作った日本のイメージの図形が頭に浮かびます。

 

                 

 

 

 

 

 

 

 

時代を無視しますが、これが日本の外からの文化の取り入れ方です。

                   

 

 

                  

外から来た三角形が被さっていいます。

 

 

 

 

 

 

                 

この図形を保つことが出来たのは神道に教義がなかったことからだと思います。

この図形の中では、どこにいても、曖昧であっても、介在するものがなくても、頂点との関係を感じられます。
介在するものというのは頂点の表現で、頂点との関係を既に感じていれば表現する必要がありません。
芸術とか芸能を必要としません。

 

 

 

 

                   

この図形で、古代の頂点は「神」でした。今は同じ構造を使って「理念」になっています。

図形の中で頂点は文字や絵で表現されて理解出来るもので、被さる図形にとって表現することは、被さる下の図形を教化啓蒙することですが、下の図形を否定することでもあります。
図形の中では善意ですが反日と呼ばれます。
ただ、昔 金解禁から昭和恐慌が起こり、今も平気で増税したりして善意は疑わしいところもあります。

 

 

 

 

 

 

以前、オタク的な美術作品が出て来た時、この三角形が重なる二重構造を無自覚に壊して美術全体が自滅してしまわないかと思っていましたが、その後の日本の文化の収縮を見ると、それは切っ掛けの一つであっても小さいことのように思えます。

ネットの存在の影響も多少あるでしょうが、あの震災の後、二つの三角形の位置関係が変わってしまったように見えます。

                    

 

 

 

 

芸能人は一回のスキャンダルで消えてしまいます。
それは、基本的に芸能は必要とされていないという本質的な問題があるからのように見えます。

 

 



残っていけるのは、越後獅子舞いのような「健気さ」だけのように見えます。
AKBは現代の越後獅子に見えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「文化」は無くても平和な世界です。
明治時代に始まった「美術」は終わってしまいました。
 

 

 

 


しかし、もう一度表現というものを考えて、表現を必要としない感覚を何らかの形にすることが出来れば、今は下になった図形や、その製造元の西欧からの攻撃がなくなるかも知れません。
それより、世界は平和な場所に少しはなるかも知れません。


その不可能な感覚を考え続けていると、目覚めの朦朧とした意識のなかに三角形が出てきてしまいます。