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雨ニモマケズ・・・

雨ニモマケズ・・・

宮沢賢治の詩です。
先日 この詩の解釈を、間接的ですが聞く機会がありました。
小乗仏教と大乗仏教の影響という話しで、それはそうなのだろうと
思いますが、複雑な気持です。


今から見れば、上座部仏教(小乗仏教)から大乗仏教へ次第に
展開していったように見えますが、大乗仏教の始めとされている
「龍樹」が書いたものを見れば、自然な発展などというものでは
なかったことが想像できます。

私が感じるだけですが(笑)出家して修行することに重きを置く 
上座部仏教に、龍樹は、修行なんて、してもしなくても同じ・・と
いっています。

(本来はだから「大乗」なんだと思います。修行して救われ、他の人を助けるのではなくて

 全ての人は救われているのです。

 救いという言葉が救われない状態を作っているだけなのです。

 ここら辺が継承されていれば、僧侶というエリートというか前衛というか、そんなものが無くて

 例え、雨ニモマケズ・・・は見ることはできなくても、もっと平和な世界に住むことが出来たのに・・・

 と思うのです。)

 


それが、時間を経ると、大乗仏教の修行となってしまいます。

 

 




まるで社会主義革命が成った途端、革命に上部組織はいらないと
そもそも・・的なことを言うと粛清されるようなものです。

まるで視覚の右脳的な拡大をしてしまったセザンヌを、自立的な絵画と
言って「絵画」の延命を図ったようなものです。

 

 

 

 

 



四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ      「春と修羅」 宮沢賢治



こんな気分になります(笑)




 

 

 


実はこれは、前に書いた40年ぶりの高校授業という企画だったのですが

印象が複雑で書くのを躊躇っていました。

 

でも、その企画をめぐるML上のやり取りでもっと興味を刺激されるところがありました。



雨ニモマケズ・・・の中
「ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ」
の「ヒデリ」は「ヒドリ」という説があるそうです。

 

(最初のリンクの詩はヒドリですが)


2010年6月17日 入沢康夫『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か』



「ヒドリ」は「日取り(日雇い)」でも「一人」にも読めます。







「たづね見るつらき心の奥の海よ しほひの潟(かた)にいうかいもなく

 藤原定歌




掛詞は歌を詠む技巧の一つのようなイメージでしたが、
イメージのマッシュアップのようにも見えます。


イメージを強くする為のように見えますが、不確かな言葉の「限界」の
自覚のようにも見えます。


龍樹は言葉はフェイクと言っています。





個人的には「ヒドリ」であって欲しいようにも思いますが、ここだけダブルミーニングは
不自然にも感じます。



「雨ニモマケズ・・・」は教訓的に見えます。


それは言葉がストレートで技巧を感じさせないからかもしれませんが
大乗仏教の修行を感じさせてしまうように

言葉の「限界」を意識していなかったからのように見えます。

 

 

そして、明治以降の知識人の決定的な弱点に見えます。











マッシュアップのような多義性が「限界」をすり抜ける道のように思えます。

 

 

 

 

鬱の晴らし方

来週、大阪で個展を開きます。


大阪タカシマヤ 6階 ギャラリーNEXT




昨年の暮れ、母が入院したり色々あって、時間がきつく
今年の3か月は制作であっという間に過ぎてしまいました。

ようやく作品の目途が付きほっとする時、いつも通るような
道があります。

 

 


作品を完成された時、次の制作が浮かんできます。でも実際に
することは、案内状を書いたりと、制作から離れてしまいます。
(まぁ、そんな時にブログも更新するのですが、笑)


若干、鬱になります(笑)


泳いでないと死んでしまう魚のようですが、単にワーカホリック
のように見えるかも知れません(笑)




昨夜、素描をしてみました。





そういえば、難波田龍起氏の作品を思い出します。









ラインが動いて目の前のバック紙が息をするように見える時、
猛烈な眠気が来ます。

しばらく床に横になってまた、その「世界」に入っていきます。









不安がサラサラと、体から剥がれるように落ちていきます。







不自然なことに、その後運転をすると、車内でウインカーを出す音が
ビックリする程大きな音に聞こえました。

 

 

 

「線香の灰が落ちる音が聞こえる・・・」という話しを思い出しました。

 

 

 



 

母の入院

昨年の暮れ、母が大腿骨を折り入院、手術しました。

よく言われるように、入院すると体のすべてが悪くなっていくように見えます。
元気な時しか入院は出来ない・・・と思ったりしました。

入院した時、かなり重い貧血がありその治療が必要で、手術までの3日
色々な状況で、夜の付き添いをしました。




昼夜逆転というより昼夜は無く、30分位の睡眠が時々やってきて
起きた直後の30分位だけ、以前と同じように見えました。


脳が縮む・と言いますが、そうなんだろう・と感じます。






判断力が乏しくなっていく中、話していて不思議なことがあります。

「もう、仕事に行くんでしょ。」と母が言ったその時、描きかけの絵が
頭の中に浮かんでいました。



そんな風に感じられるのなら・・・
私が母を想えば、その想いは母に伝わっているはずです。







手術は上手くいって、直ぐに何とか歩けるようになりました。
ただ、動けるようになると夜間のベッドへの拘束が始まってしまいました。

拘束が始まった日から違う病院を探し始め、今は転院して穏やかに見えます。

 

 

 

 

 

 

拘束で危険が避けられることは理解できますが、そのストレスで脳の機能そのものも

ダメージを受けているように見えました。

 

 

しかし、判断する力が落ちることは、実は、どこか解放されたようにも見えます。

 

判断することそのものが一種の束縛だったように見えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新しい神話

日本が、ザラスシュトラのように言えば「善の神」だけで出来ている・・・とブログに書きましたが、正確ではありません。
 
 

龍樹のように考えれば、「善」という言葉の中には「悪」が含まれています。
龍樹 <中論> -言葉の支配から離れて-


「善」という言葉は「善でないもの」の存在を必要としていて「善」という言葉の中には「善と悪の対立」という意味が含まれています。






以前どこかの雑誌で見た岡本太郎の言葉(だったと思いますが)に「日本の美術で優れたものは工芸のデザイン位のもの・・・」というのがあったような気がします。

そもそも美術はどんなものか、ということにもよりますが、街全体が美術館のようなイタリアに比べると、日本には何も無いような気がします。

しかし、私達は何も作れなかったのではなく、作らないことを選んだのだと思います。

「善」のように「美」という言葉には「美でないもの」の存在を必要としていて美しいものの中には「美と醜の対立」という要素が含まれています。
 
 
 
 

「善悪二元論」の外にいる私達にとって、「美」を作る必要はありませんでした。
本来、私達が敢えて作り出すものは「善悪の対立」を癒して、対立を終わりに出来る筈です。


 
 
 
 
 
 


「正義の反対は別の正義」と言ったのは黒野鉄斎博士だそうです。

正義の反対は悪なんかじゃない  から



    主人公:
    ねぇ博士、正義や悪ってなんなんでしょう?
    レッドが悪い奴だと思うから野球で勝負して追い出したんです。
    でもあいつのおかげでチームは強くなったし甲子園にも行けるようになった。
    俺のやったことは正義なのか、それとも悪なんでしょうか?

    黒野博士:
    ああ、そりゃ簡単なことじゃ。
    “正義”の反対はなんじゃな?

    主人公:
    悪じゃないんですか?

    黒野博士:
    悪の反対は善、善の反対は悪じゃ。正義の反対は、別の“正義”あるいは“慈悲・寛容”なんじゃ。
    正義とは、人の従わねばならん道理を言う。”正義を行う”となれば、道理を守らせることにもなる。

    主人公:
    それはいいことなんですか?

    黒野博士:
    それは必要なことじゃが、問題は道理が一つでないことじゃ。
    “殺すな・奪うな”までは殆どの思想で共通じゃが、その先はバラバラじゃ。
    “男女は平等”かもしれんし、“女性は守るべきもの”かもしれん。
    “どんな命令にも従う”が正義なら、“悪い命令に逆らう”のもまた正義。

    主人公:
    じゃあ、なにが正しいんですか?

    黒野博士:
    みんな正しいんじゃよ。道理に関する限り、正しい事は一つと限らないんじゃ。

    主人公:
    でも、それじゃ困りますよ。なにが正しいのかわからない!

    黒野博士:
    だから”法”がある。なにをしてはいかんかの約束じゃ。
    ・・・これも正しいとは限らんがね。
    じゃから、結局のところはその時ごとになにが正しいのかよく考える必要があるじゃろうな。
    結局のところ、みんなにとって最も良い事を探して選択するのが”善”なんじゃろう。
    じゃから、正義は善と限らん。ともすれば自分の信じる道理を他人に押し付けることになるからな。

    主人公:
    ・・・よくわかりません。

    黒野博士:
    じゃあ、最初の質問に戻ろう。
    やらなきゃならんと思ったからやったんじゃろう?
    本当にそれが正しかったのか、最善のやり方だったのか、ときどき反省してみるんじゃな。
    いずれ、自分で納得できる時が来る。

    主人公:
    ・・・はぁ。
    じゃあ、悪って何なんです?

    黒野博士:
    一般的な定義から言うと、世の中のルールを破って他に迷惑をかける行為じゃな。

    主人公:
    でも、博士は”悪”なんですよね?
    どうしてわざわざそんなものをやってるんですか?

    黒野博士:
    わははは、一般的と言ったじゃろ?
    ワシにとって、悪はロマンなんじゃよ。ロマン。
    わかるか?
    ルールにとらわれないことじゃ!
    希望、生命力、突破点、新しいもの。
    幸せになりたいという欲望!
    昔は、”科学”も”自由”も”人権”も”平等”もみーんな”世の中の平和をみだす悪”じゃったんじゃよ。

    主人公:まさか!

    黒野博士:
    なーに、ちょこっと歴史の本を読めばわかることじゃよ。
    それじゃあな、少年! 若いうちは悩んでおけよ!


 
 
 
 
 


 
 私達にとって、善と悪は入れ替えることが出来ます。






ザラスシュトラによれば、最初に2つの対立する霊があり、両者が相互の存在に気づいたとき、善の霊(知恵の主アフラ・マズダー)が生命、真理などを選び、それに対してもう一方の対立霊(アンラ・マンユ)は死や虚偽を選んだ[7]。これにより、善悪2神の抗争の場である、この世界がかたちづくられた。




この前を考えてみます


 
 




始めに現れた霊は  霊と呼ばれず  見ることも出来ず

語ることも無かった

それは全てを包んで

木々の間の空に  雲の間の空に 気配として在った
 


ザラスシュトラが霊と呼んだ時始めて 霊は実体のように話し始め
 
実体のように様々な面が出来
 
一面を「善」とすると同時に「悪」の面が出来 その二つが分かれて見える時
 
世界は抗争のように見え始め

 

そう呼んだ時 そういう実体を持ち始めた

 
 
 
 
 
 
 
仏教も ザラスシュトラの影響下にあるそうですが
そう見えない、龍樹の言葉を言葉を思い出します。

-------------------------------------

如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。
この世界もまた本質をもたない
 
-------------------------------------
 
 
 
 
 

 

 

 

世界に本質は無く

 

善は勝つことも負けることも無く

 

正義の反対は別の正義です

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 

モダンという感覚

ハイレゾというのが最近あります。
新しいものは好きなので、どんなものか聞いてみましたが、持っているオーディオではCDとそれ程違いが分りません(笑)
それより、CDの物理的な限界というような話しを聞くと昔買ったLPを聞いてみたくなりました。

ジャケット買いとか言って、「見た目」が気に入って買ったLPの情報が今はネットを使えば色々分ります。

ビル・エヴァンスというモダンジャズのプレーヤーがいますが、彼がどんな人だったか最近始めて知りました。

ビル・エヴァンス 

彼が麻薬の常習者で、いつも写真で口を閉じているのは麻薬のせいで歯がボロボロだったとか、晩年髭を伸ばしたのは顔のむくみを隠す為だったとか・・驚きでした。

Wikipedia には最後の方に
「彼の死は時間をかけた自殺というべきものであった」と書いてあります。

My Foolish Heart  
 

 


動画で見ると確かにそんな感じがします。
音だけで聞いて感じた、「ムーディー」なイメージとは全く違います。
 
暗闇に腕を伸ばして弾いているような音は、綺麗だと感じますが諦観というか 「病んでいる」と感じてしまいました。








曖昧な記憶で確かではありませんが、忌野清志郎さんが同じようなことを言われたような気がします。
 

忌野清志郎 雨あがりの夜空に
 

 




「彼はステージの毎に自殺している」
こんな言葉だったような気がします。


忌野清志郎さんには何かが破裂するような感じがあって、そんなふうに言えそうな気もしますが、どこかポーズと感じるところもあったり、動画を見比べてみると健康的な感じもします。


ロッカーが健康的と言われるのは不本意かも知れませんが(笑)
・・・・・・・・・・・
そもそも、善悪二元論で善の霊が負ければ悪の霊が世界を覆う・・・というのは無理があり過ぎます。







以前なら麻薬は個人的な問題として納得したと思いますが、アーリア人の精神的な背景を想像すると、違って見えてきます。

現代、人は神話や迷信から解放されたのかも知れませんが、それは殆ど善の霊が負けて悪の霊が世界を覆うのと、同じように感じられる筈です。

これが「モダン」という感覚なのだと思います。

 

 

 

 

世界が終ってしまうのを恐れていながら、望んでいるようにも見えます。

 
 

『善悪二元論とゾロアスター教の神々ザラスシュトラによれば、最初に2つの対立する霊があり両者が相互の存在に気づいたとき、善の霊(知恵の主アフラ・マズダー)が生命、真理などを選び、それに対してもう一方の対立霊(アンラ・マンユ)は死や虚偽を選んだ[7]。これにより、善悪2神の抗争の場である、この世界がかたちづくられた。』
 
 
 
 



自分を善の霊の体現者のように思い込む人達は周囲の人達の災難ですが世界が悪に覆われ、世界が終わってしまうことを潜在的に望んで見える人達はそれはそれで恐怖です。


銃を規制しても本質的には何も変わらないように見えます。

 


 
 


この国で意図に反してモダンな表現が健康的に見えてしまうのは、きっと私達にとってそれはポーズだけで、本質的に善悪二元論の外にいるからです。
 
 
二元論の内の人が外の人に求めているのは、自分達に同調するのではなく、「悪魔」そのもののように振舞うことなのでしょうか。

 

歌詞を聞かなければ「黒ミサ」のようです。
 

 

 

 

ふと思うのは、もしかするとこれは「ヒールジャパン」かも知れない・・・と。

そう思うと同じような感じの作品は色々あります(笑)

 

善悪二元論以降の世界が世界の全て、というのが前提だったら日本は世界で一番ダメに見えます。

 

「ヒールジャパン」はグレート東郷ですね(笑)

 

商業的に今でも世界に通用するのは驚きですが・・・

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ビル・エヴァンスの演奏を美しいと感じながら「病んでいる」と感じてしまう時、その先に、いくつかの思いが浮かんできます。

私達はモダンな感覚に、真に深く共感することは無いだろう・・・と。

また、実はモダン以前の彼らの感覚もまた病んでいたのではないだろうか・・・と。

しかし、モダン以前の感覚の方が近くに感じられるのではないだろうか・・・と。

 

 

 

 




世界は今でも「善と悪」という意識で成り立っているように見えます。

日本は、ザラスシュトラのように言えば「善の霊」だけで成り立っています。

「文明」を受け入れることは、「善と悪」を受け入れることだったように見えます。

進歩を受け入れないとして、日本を否定したいと願っている人を癒すことが出来れば、私達は世界を癒すことが出来る筈です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

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物語の底にある不安

私の母は94歳になります。

身の回りのことは自分でしていて、元気ではありますが、時々変わったことを
言っています。

「さっきいた人はどうした?」



話しを良く聞いてみると、どうもテレビの中で話していた人を現実の人と思い違い
しているようでした。

音とか画像が刺激になるかも知れないと、漠然と付けているテレビは、幻覚と不安の
原因にもなっているように見えます。








レビー小体型認知症というのがあるそうです。


レビー小体型認知症




幻覚が気になって調べると出てきましたが、それは、身近なことというわけではなく、
ゾロアスター教をwikipediaで見た時、こういうところがあったからでした。





ゾロアスター教


『 善悪二元論とゾロアスター教の神々
ザラスシュトラによれば、最初に2つの対立する霊があり、両者が相互の存在に
気づいたとき、善の霊(知恵の主アフラ・マズダー)が生命、真理などを選び、
それに対してもう一方の対立霊(アンラ・マンユ)は死や虚偽を選んだ[7]。
これにより、善悪2神の抗争の場である、この世界がかたちづくられた。 』


ザラスシュトラは本当に見えていたのだろうと思います。

でもここには、彼の「不安」を感じます。

 



善悪二元論が世界的に影響力を持つことが出来たのは、この論の底にある不安が
人間の心の根源的な問題だったからように見えます。






色々な幻想や物語を語る人がいても、それを否定することは出来ません。


そして、殆どの「芸術」と呼ばれてきたものは、幻想や物語の底にある「不安」を
補強しているように見えます。

 


カラヴァッジョ作「果物籠」(1596 - 1597年)


私達、日本人がこういう絵を描き始めたのは、明治時代からです。



印象派の画家が浮世絵に驚いたのは、明治以前の私達が彼らの「不安」と全く
関係ない場所にいるように見えたからで、

 

その為 異物のようにこの国が消滅されられそうになったことがあったとしても、

 

本当は、彼らアーリア人の末裔の作品の後を追いかけるのではなく、彼らが持つ
善悪二元論という物語の底にある「不安」を癒す方向へ向かうことも出来た筈です。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、浮世絵を見た印象派の画家の作品は、一瞬だけ、不安を癒す方向へ向かった時が

あったように見えます。

 

 

セザンヌ

 

 

 

 

 

 

 

 

純粋に、右脳的に絵を描く行為は、どんな物語からも、どんな不安からも、心を解放してくれます。

 

 

 



 

 

 

 

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日系アーリア人

【武田邦彦】人類に災害をもたらしたゾロアスター教の考え
偶然、横に出てきたYouTube です。

 



面白いのでアーリア人を調べてみました。

 

昔、学校で習った「民族大移動」というのはゲルマン民族云々というお話しですが、
それもありますが、今はスケールが違っているようです。

 

神野の世界史劇場 第一次アーリア民族大移動
 

 

 

 


こういう歴史を見てみると、今の彼らの美術作品にある、終末観が分るような気がします。

 

デミアン・ハースト
デミアン・ハースト

 

 

アーリア人の末裔同士のトラブルと言えばそうなのでしょうが、侵入し続けてきた人達が
侵入される立場になっています。
侵入して何をしてきたか、思い出さない筈はありません。

 

 

 

 

 


今、「美術」はいう梯子が外されてしまったような感覚があります。

 

それは、明治時代から私達が「日系アーリア人」になることを理想としてきたからのような気がするのです。

 

彼らの終末観の後追いをしています。

 

 

私達に出来ることは、私達にしか出来ないことは、他にある筈です。

 

 

 

 

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HPの更新

少し前のことになりますが、HPを更新しました。

 

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ヘッダーの動画は、2月の個展に出した作品の一部です。

 

 

 


 
宙の舟

この作品は額の裏にモニターがあり、このヘッダーの動画が流れています。

Movie : Kenji Kudoh (ALUA DESIGN WORKS)
Sound : Taisuke Nakashima (freiheitlichraum.net)

この二方に協力して貰いました。

 


作品では画面の一番上に滑石で作った舟があり、作品の動画にはその舟の影も
映像になっていて、動いています。


 

 

 


この揺らめくようなラインと一緒に見た風景を、セザンヌやゴッホや浦上玉堂は
描いていました。

 

 


見るだけでなく、誰でもこの世界に入れることを願って、作品を作りました。

 

 

 

 

表現者のイデオロギーポジションマップ

そもそも図で考えるのは大好きなので、見付けた時は楽しかったのです。
見ているだけで妄想が広がります(笑)

 

ネトウヨの正体は右翼ではなかった!?日本のイデオロギーポジションマップ

 

 

 

図の拝借は良いようですが、政治とは関係ないので無断です。

 

 

こういう図を見ると、新井白石を思い出します。

『西洋紀聞』という本の中で、キリスト教布教のために来日したイタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチを審問して形而上の話しになると、「智者が突然愚者に入れかわって、まるで別の人が話しているような感じがする。」と書いているそうです(笑)

 

 

図ではサヨクは空想上のネトウヨを攻撃して空振りしている訳ですが、サヨクには限りませんが、啓蒙的というか、善導的というか、上から目線的(笑)な態度は、攻撃の対象を実はちゃんと見ているような感じがします。

 

 

 

 

 

 

 

図の枠組みを借りて、表現する人と鑑賞する人、その他の人の関係を作ってみます。

 

 

 

 

 

芸術を愛好する人はほんの僅かです。
表現する人は普通の人々を思想へ引き上げようとします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実は、前の図は実際はこういう構図になっています。
二次元では表すのが難しいですが、理想主義の上の空間が山折れのように歪んでいて現実主義の隣に超理想主義が来ています。
取り敢えず、二次元ではこの形で。

 

以前ブログに、日本の「空気」は言葉より抽象度が高いと書いたことがありました。
日本で災害が起きても略奪が起きないのは、理想主義と言葉で呼べる範囲を超えて理想主義だからで、表現者が引き上げようとする努力は、実際は引き下げる努力になっています。
きっとそれは、明治時代から戦争を経て現在まで一貫しています。

 

 

 

日本が比較的に平和なのは、思想という領域で「平和」がないからで、思想の領域で平和を求め他人にもその領域への参加を求める人は、本当は平和の為の戦いが欲しいので、平和が欲しいのではないのです。

他国の人にも解ってもらいたいところです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2011年の震災で、この領域が突然消えてしまったのを体験しました。
西欧近代の世界が終わりということも同じことだろうと思います。

 

 

 

 

これが「現在」のすがたなんだろうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これからの表現のあり方を考えてみます。
表現1は普通、工芸と呼ばれるものです。
表現2は私達にしか作ることが出来ないと思います。出来れば地球はもっと住みやすい場所になるかも知れませんが、日本人しか理解も出来ないかも知れません。

 

 

 

 

 

 

 

 

デミアン・ハースト

 

ネットで作品を見た時、これは実は工芸だと思いました。(趣味は悪いですけど、笑)

プラチナで鋳造してダイヤモンドが埋め込まれているようで、確かに高価です(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

空腹という感覚

やっと涼しくなってきました。
去年の夏も暑かったですが、その時のことです。

 

 

 

制作は毎晩11時頃までしているので、その後何か食べたりすると翌朝まで胃の中に残って
いるようで気持ちが悪いので、ある日食べないで寝てみました。


空腹で寝付けないこともなく、驚いたことに、眠った途端 気が付くと明るくなっていました。
暑いとも感じません。

 

気持ちが良いので翌日も続け、何日かすると当然体重は減っていきます。
空腹と感じることは感じるのですが、平気と言えば平気です。


別に ダイエット!と決意している訳ではないので適当なのですが、一ヶ月位すると、思春期

の体重になっていました。

そして、それから感じる空腹という感覚は、説明し難いですが、種類が変わったような気がしました。

 

 


何十年も以前のことですが、新日本紀行というテレビ番組に見習の鷹匠が出てきたことが
ありました。
毎日鷹に餌を与えるのですが、ある日全く食べなくなるシーンがあって、
それは、鷹が飛ぶための体の重さを分かっている、ということでした。

 

 


空腹感が変わった時、体の声が聞こえたような気がしました。

それまでの空腹感が思い込みだったような気がしました。