先日、この話を書いたときに、

「ボーッとしてたけど、この動画の中でおもしろい話があったような気がする。あとで見るー」

と言って、この動画をブログに載せていました。





見た!すごかった。おもしろかった。


『ウルトラマン』みたいな特撮
能や 歌舞伎や なまはげのような伝統的なもの



「物質界において完璧に表現することは諦めました」
「完璧じゃないのが分かっている感じになっちゃうけど、やるよ」
という表現のしかたによって、

見る者を心には
「ああ、これはたしかに完璧じゃないな。
でも“あれ”のことを表現しようとしたんだな」
と、肝心の“あれ”が 心にはっきりと浮かび上がる。

「あえて劣悪に表現する」という意味ではないよ。

“あれ”を表現できていないことによって
逆に“あれ”を感じてもらうことができる。


だから、「特撮」「ある種のうそ」と分かっているのに、そこにリアリティを感じながら見ることができる。

心の中の本物に どっぷり浸りながら鑑賞できる。


この話にはしびれたよ。




精神科医の名越康文先生が、
「腕のいいカウンセラーってどんなふうなカウンセラーだと思うか」というテーマでお話ししていたのを思い出した。

カウンセラーからは言い当てない、言い当てないというか、ちょっと間違ったことを言う。

そしたらクライアントさんが
「いや先生、それは違います。私はこうなんです」
と自分で自分のことを感じて、分かって、自分からそれを言えるようになる。

「そんなカウンセリングができたらいいなぁと僕は思いますねぇ」という感じの話をされていたのでした。


それとも通じるところがある。




より高次のこと、より本質的なことを 物質界において完璧に表現するのは、
私が今までに勉強した感じでは 無理ということです。

でも、その「無理である」というを認めて、それを使って あえて「本質には至っていない」とあからさまに分かるまま表現することで

「本質的なことを感じる」が、多くの人の心に起こる。




「型」に「本質(神とか)をおろす」というのは、そういうのを表現した言い方であるみたい。

これは日本的なことでもあるみたい。

「型」そのものが本質というわけではなくて
物質界にある「型」に、「本質」を感じるための仲介のようなことをしてもらうわけだ。

仲介だから、「型」そのものが本質というわけではないのだね。
「よりしろ」みたいなことか。



それが、日本では文化になって 暮らしのふつうの景色の中にいっぱいある。


わあ…すごいや…!
しびれた。




じゃあ、私たちが「本物を見よう」「本物に触れよう」と言うときって、
「(本物は心で感じるとして、)本物をおろすだけの力のある“型”を見よう、そういうものに触れよう」ということを言っているのかね。





2022年8月に書いたおはなしでした!


こんなことを考えて、毎日16時に過去記事を紹介しています。
読んでくれてありがとう!