72年後の空襲警報 | 猫の遠ぼえ『次の世代に残したい日本』

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今年96歳になる母は大阪大空襲で家を焼かれるなど、あの戦争では恐ろしい目に合っている。その母が防空壕に避難している時に、敵の戦闘機グラマンが操縦士の顔がはっきり見えるくらいまで近づいたことがあるという。

ドラマでよく見る防空壕は建物の地下なのか天井があるが、彼女が避難していたのは家の近くの広場に掘った”ただの穴”で蓋も何もない。だから飛行機からは丸見えなのだ。もし機銃掃射を食らったら避けようがないのだが、グラマンは何もせずにそのまま去っていったという。

以前にそんな話を聞いたことがあるので、昨日会ったときにさらに詳しく聞くと驚くべき事実が分かった。その操縦士はこちらに向かって笑顔で手を振り、防空壕にいた母を含めた何人かはそれにこたえて手を振ったというのだ。

防空壕が上から丸見えのただの穴だったことでも驚きなのに、この時代に留守宅を守る人たちが敵に手を振っていたのである。不謹慎と言えばそうだし、そんなことが憲兵あたりに知れたら大変だった。しかも、夫(私の父)と自分の兄は出征して敵と戦っていた。

しかし、この時だけは、怖さや敵に対する憎しみより初めて見る飛行機や外国人パイロットへの興味のほうが勝ったのだ。
戦時中とはいえ、庶民の感覚とは案外そんなものなのかもしれない。

もっとも、大阪は何度も大空襲に見舞われ大きな被害を出しており、その後であれば敵機に手を振るどころではないはずだ。おそらくこの出来事はその前なのだろう。
そう考えて、当時のことをちょっと調べてみた。

大阪に初めて空襲警報が出されたのは終戦の3年以上も前の昭和17(1942)年4月18日で、この日、東京に小規模の初空襲があった。ただ、実際に大阪に敵機が来襲したのは終戦の前年である昭和19(1944)年で、この時は被害はほとんどなかったようだ。

初めて大きな被害がでた空襲は終戦の年の2月26日のもので、それ以降は何度かの大空襲も含めて33回の空爆を受けている。つまり、初めて警報が出てから初空襲まで10回の警報があったが、それまでは防空壕に避難しても何も起こらず、空振りだったのである。

当時の様子をネットで調べていて、次のブログ記事が目に留まった。


(参考)
『昭和2年生まれの雑記帳』さんのブログ「3 〔修正版〕 大阪初空襲・初空爆  跡形なく吹っ飛ぶ家も」http://blog.goo.ne.jp/ewsn12356/e/c04b249493050ae3dec9772b252a7809


上記ブログ記事で特に興味深いのが、当時、商業学校5年生だったブログ主日記に書いた次の記述である。大阪に初めて敵の爆撃機が表れたが、このときは被害はほとんどなかったようだ。
尚、太字強調はブログ主による。

 「午後、空襲警報の発令より、ラジオは敵機の大阪侵入を刻々に報じた。味方の戦闘機が飛行雲を引いて駆け回っている中へ、突として(ジュラルミンの機体が)銀色に輝いた9機編隊が現れ、奈良を指して悠々と消え去った。あれこそB25に違いない。恐ろしい感じなど少しもせず、ただ美しいという気が起こるだけだった。そこらの人のように壕に入る気など毛頭起こらない。無謀とも言えようが、『情報』を聞いていれば安心なものだ。退避しなかったために、倉庫の3名は(両手に1人ずつ野球部員の襟首を吊り下げて額と額をぶつけさせたとの伝説のある体格抜群の学級担任の)S先生からお目玉を頂戴した。僕(ぼく)は、一発拳固を食らわされた。」


「恐ろしい感じなど少しもせず、ただ美しいという気が起こるだけ」で防空壕に入ることも忘れたというのである。私の母も、初めて見るグラマンと鬼でもなんでもない人間の操縦士が笑顔で手を振るのを見て、恐ろしさより『ある種の感動』が優ったのだろう。

しかし、その後、空爆は激しさを増し、3月13日の大空襲では3115名、6月7日には4967名と、多くの無辜の民が犠牲になった。この中には母が手を振ったときと同じような上から丸見えの防空壕や橋の下で機銃掃射や爆撃を受けた人も大勢いたはずだ。

多くの大阪市民はこうなって初めて「空襲」の恐ろしさを実感したのではないか

さて、話を現在に戻す。

北は盛んにミサイルの威嚇発射を繰り返しており、先日は狙い通り青森沖に着弾し、今度は日本の上空を飛んだ。これは、威嚇射撃されたピストルの弾が耳元をかすめて飛んで行ったのと同じである。いつ身体のどこかに当たってもおかしくないのである。

ところが、Jアラートに対するネットでの反応やマスコミ報道は、いつミサイルが日本の中枢に飛んできてもおかしくない現状とはかけ離れている

それに、自分の胸に手を当ててみても、そんな切迫感はほとんどないのだ。

つまり、日本中が当時16~17歳だった学生さんや母と同じように、現実的な危機意識が持てていないのである。Jアラートを「これでは(戦時中の)空襲警報だ、大げさだ」と非難する連中がいるが、これは大げさでもなんでもなく、警戒レベルの高い本物の「空襲警報」なのである。

『昭和2年生まれの雑記帳』さんは次のように大阪市街の初空襲があった終戦の年の正月3日の日記に次のように書いている。


大阪市街初空襲 終戦の年の正月3日、午後2時空襲警報発令。もう、この年は2日から工場に出動していた。大正区の久保田鉄工所の防空壕へ、例によって友人たちの後から入り、いよいよ、爆音が聞こえた途端に壕から半身を乗り出して空を見上げ続けていて、また担任から叱られた。 壕から、9機か10機のB29の編隊が高空を飛んで行くのを見た。その中の1機は白煙を噴いているように思えた。爆弾落下の音も聞こえず、空襲警報は間もなく解除されたので、その時、我が家から1百m余り北東の家並みが12軒も焼夷弾で焼かれていたとは露知らなかった。

(中略)

この日が、実質上の大阪空襲の初日だったのであり、その前後に、東京・横浜・神戸など全国の主要都市が次々と焼かれたり、爆撃されたりしていったのだ。これらのことは全く報道されなかったように思う。

http://blog.goo.ne.jp/ewsn12356/e/c04b249493050ae3dec9772b252a7809


東京をはじめ多くの都市が次々と焼かれたり爆撃されたが、全く報道されていなかったのだという。ご本人も防空壕から身を乗り出して空を見上げるくらいで、危機感は薄かったようだ。そして、多くの人もそうだったことが、その後の大空襲での被害を増やした可能性がある。

新聞もラジオ(いまはテレビ)も本当の情報を伝えないのは今と同じで、大半の国民は我が国が置かれている状況を把握出来ていないのである。

今回のJアラートで実際に避難行動をとった人が殆どいなかったのは当然なのだ。

また「Jアラートから僅か数分で一体どこに避難しろというのか」と言う人もいる。
しかし、大切なのは次のような認識だろう。



母がグラマンの操縦士に手を振った防空壕はただの穴だが、そこに伏せているだけでも爆風をかなり避けることができる家の中であれば、雨戸を閉めてガラス窓から離れるとか、布団をかぶって待機するとか、数分あればできることはいろいろある。

Jアラートはまぎれもなく、空襲警報なのである。

(以上)
 

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