映画『謝罪の王様』の感想 | アキラの映画感想日記

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映画を通した社会批判

効果的に非常識

謝罪の王様

 

クドカン脚本が流行り始めたのはまだ私が今平学校の学生の頃だった。よく演出や脚本の講師たちは彼のぶっ飛んだセンスより、そこへ至る説得力を付ける伏線の妙を褒めていた。クドカンのセンスを真似ようとしていた同世代の仲間たちに最も足りなかったのはその部分だったから。それがどうしても理解できない同級生と講師の押し問答を久しぶりに思い出した。なぜなら今回の作品はオリジナル脚本だけあって伏線の張り方の見事さがあからさまに前面に出ていたから。いわゆる依頼人単位でオムニバスな作りにはなっているのだが、その時間軸が微妙に重なっていて、そこにある繋がりでオチを付けたりして台本の構成として感心させられる所だらけなのだ。いわゆる訴訟沙汰を示談に持ち込むための謝罪屋ってのは理屈の上ではあっても不思議はなさそうだが映画の中でも語られる通り謝罪って奴はあくまでも本人の誠意。他人が関与すべき所ではない。そこの常識を非常識なキャラで崩す事で一点突破し物語を組み上げたって感じ。ここで脚本として重要なのは主要人物の非常識加減に対し周囲の常識が固まっている事。常識的なリアクション。それこそが思いつきだけの脚本とは一線を画し商業市場に通用する圧倒的な面白さを生む。ここに登場する依頼人たちは圧倒的に非常識な訳だが、そんな一面があるという事でしかない事は物語が進むと次第に見えるって構造になっている。だから次第に感情移入して最後にはその誠実さに心打たれたりもする訳だ。帰国子女もセクハラ出向社員も大物芸能人も映画プロデューサーもバツイチ弁護士も主人公自身もおちゃらけて見えても真剣で誠実。実に好感が持てました。