体制転覆が目的じゃない
ソード・オブ・アサシン
皇帝暗殺の濡れ衣を着せられてお取り潰しになった一族の末裔が黒幕を暴いてぶっ潰すという武侠系ベトナム映画。一応は目的を果たしているが結構モヤる所がある作品でした。なぜなら本作品の登場人物の中には皇帝の圧政に苦しめられて暗殺を企てる者もいて、それらの復讐心は果たされないからです。この主人公の目的はあくまでも汚名を晴らす事であり、そのマインドは云わば515や226の青年将校たちと同じで"君側の奸を倒す"なのです。だから最初は共闘していたヒロインや手を差し伸べてくれた幼馴染の貴族とも相容れなくなる。こいつらは別に正義感で体制転覆を狙ってる訳じゃないが個人的復讐であったり権力ゲームへの猜疑心であったり、それなりには理解できる動機だけに利害関係の調整も可能に思える訳だが、あくまでも主人公の目的だけが達せられます。まあ最初は極悪非道に見えてた女帝の方も罪の意識はあるようなので納得はできる訳だが。やはり死者の声を聞く夢は土地に縛られた良識がなければ見る事もないでしょう。それだけ犠牲者を案じる気持ちがある事の表れです。もしハリウッド映画とかだったら、この女帝を波動拳でぶっ飛ばして無双エンドって頭の悪いカタルシスに走る所だろうが、そんな欲求は単なる劣情です。
ヴィクターウーといえばトランアンユンの代表作『青いパパイヤの香り』の原作者グエンニャットアインの『草原に黄色い花を見つける』を映画化した人な訳だが文芸系よりアクションの方が得意なようです。この作品も近年の香港映画のようにワイヤーとCG使いまくって割と派手に大立ち回りしています。それに結構コテコテのお約束でラブコメ要素を挟み込む。ヒロインやその姉との出会いがまたご都合主義的で日本のマンガに例えるなら「遅刻遅刻!」とパンを咥えて走って来てどーんってアレです。ベタベタ過ぎる前半の件を見てると文芸系も撮ってる人とは思えません。まあ後半のシリアス展開はあの狭い集落の人間ドラマに通じる所はあった訳だが。アジア的な感性とハリウッド的な商業的嫌らしさが共存してる感じ。どうもこの監督は米国西海岸で学んだそうだがUCLAではなくLMUだそうです。どちらにせよ金策をきっちり教えるのが西海岸の作法。国策で西海岸に学んだ韓国映画人と同じで売れる作法がよく分かっています。コテコテで楽しませて引き込んでおいて最後にはキッチリとアジア的な信念を示すって所だろうか。