映画『ちょんまげぷりん』の感想 | アキラの映画感想日記

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映画を通した社会批判

ちょんまげぷりん

 

 

幼稚化した現代人

 

よく「彼への感謝は言葉では語り尽せない」なんて云い方がある。はたして本当にそうなのだろうか?かつての武家言葉には君主への恩を適切に説明する言葉があった。それにより個々が事情を呑み込み、それならば協力できる事や協力して欲しい事を適切に精査し、やるべきビジネスが割り出せた。それが責任ある大人のコミュニケーションであり、その言葉は物事を適切に動かす上で機能的だった。それに比べると現代の言葉は何とも貧困です。それこそ大衆が集まる安易なメディアの言葉が貧困だから。それこそ子供向け特撮番組のような"悪を倒せば全てが解決"みたいな安易な思考形態と、その構図での攻撃の言葉ばかりが大衆を支配しつつあります。それこそ国会論争までが、そんな稚拙な言葉に支配されている。だから現実を無視した幼稚園のお遊戯会みたいなブードゥー政治がまかり通るのだ。それに比べれば戦前の日本人の言葉の何たる立派な事か。かつてアジアで最も立派で高潔だった大日本帝国の神民が敗戦後はアジアで最も愚劣な豚に成り下がったのは言葉の変化だけを聞いていても納得できます。ただの甘ったれたガキ。それこそ日本人は戦後を半世紀以上ダラダラと無駄に生きた老害よりも戦前を二十年足らずしか生きられなかった特攻の少年兵の方が精神年齢が高い。そもそも人生50年って信長の言葉がある通り半世紀位生きれば充分でしょ。コロナ犠牲だと捏造された人々のほとんどは昔じゃ考えられない大往生。短くも鋭く生きた時代の人間の方が洗練されるのは自然な事かもしれない。

 

デザインプロダクションのシングルマザーVS侍の時代からやって来た貧乏浪人。最初は子供を育てながら仕事をこなす母の姿を見て「偉いな~」と思い、それに比べて不平不満ばかり垂れながらダラダラ残業してる同僚の糞デブの振る舞いを卑しく感じる訳だが、このシングルマザーの家で間借りして家事をする浪人の振る舞いを見るにつけ、むしろこのシングルマザーを含め卑しいのは現代人全般だと感じ始めました。シングルマザーとその息子は次第に浪人に甘えるようになり筋の通らない理屈で浪人を繋ぎ止めようとする。ひとまわり近く年下の相手に依存してしまうのだ。そんな甘ったれた性根は彼女に限った事ではない。

 

マックで浪人が子供を叱りつけた時、多くの人間は彼の振る舞いをKYだと感じる。ファーストフード店なんて誰もが周りの事なんて気にせず井戸端会議を楽しむ場所だ。だが子供を躾ける上で果たして誰もがダラダラとみっともなくエゴを晒し続けるのは果たして良い事なのだろうか?確かに他人に対し寛容である事は悪い事じゃない。だが自分自身を戒めない生き方の言い訳にしていないだろうか?この浪人が雪を降らせたような発想の転換は誰にでもできる事ではない。だが少なくとも責任を引き受けリカバリーする努力って奴を誰もがダラダラと押し付け合う堕落した生き方は実にみっともない。そんな生き方を続ける連中こそ世間知らず恥知らずなKYなのだ。ただただ豚の権威に諂い甘え腐って結果も出せずに無駄に歳だけ食った負け犬老害に読む価値のある空気なんてありはしない。

 

細野監督の『ミライの未来』に登場した戦前の無骨に生きる祖父の姿。彼の姿にこそ大人の魅力を感じた人は少なくないはず。かつて幼い頃に人の道を諭してくれた立派な戦中世代の老人たち。クリエイターとして活躍してる我々の世代には辛うじてその記憶が残っている。それと今のみっともない老害を比べると、どうしても日本人の劣化を実感せざるを得ない。それは血が繋がってるとは思えない程の岸信介と安倍晋三のスペックの差を見れば一目瞭然だろう。マインドセットからして戦後日本人は甘やかされ過ぎたのだ。コミュニティは解体されエゴイズムを是とする反日教育がなされGHQの思惑通りに分断され卑しく私利私欲を貪る日本人。平気で詭弁を垂れながら恩を仇で返せる人非人の価値観。自由や民主主義といった鬼畜外道の価値観に洗脳された我々からすれば人の道を踏み外してない大日本帝国の神民が立派に見えるのは当然。大切な人や恩義ある祖国のために血を流してでも鬼畜米の強欲な暴力に抗えた人々。我々に東條やヒトラーのような立派な過去の賢人を叩く資格はない。エゴイズムを垂れ流し責任を回避し権力に諂い強欲に肥えてゆく豚に何を云う資格があるだろうか。だからこそこの浪人のようなシンプルに筋を通した生き方にこそ我々は憧れる。ただ憧れるだけでなく、こうありたいと願うなら真似る事はできる。そうやってヒーローを真似る事から我々はあるべき大人の振る舞いを学び取る事ができる。それができないのであれば、この世のほとんどの映画は馬の耳に念仏なので見る価値もないだろう。