「セクシー田中さん」の個人的二次的反応 | 還暦フリーランサーのおしゃべり処

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元競馬専門紙記者/旧ブログ~「オヤジの競馬倶楽部」~
(ヘイトスピーチはご勘弁)

 

  炎上案件の気持ち悪さ

 SNS界隈でさんざん盛り上がりまくった「セクシー田中さん」問題。漫画作品が実写でドラマ化され、その映像番組が原作を著しく変更した内容になっていることに原作者が納得できず、放送終了後に遺書を残して亡くなった、と、簡単に書いてしまうとそういうものでした。

 

 しばらくの間、SNS界隈を中心に漫画家さん達が活発に発言し、その信奉者達が賛同する、という構図で意見が飛び交いました。テレビのワイドショーが控え目だったこととは対照的でしたけど、これは番組を制作したのがテレビ局だから、ということと無関係ではないでしょう。

 また、あれだけ様々なことにスクープ記事を載せたがる雑誌が比較的おとなしかったことも、結局出版社が絡む案件だったからに違いありません。

 しかし、ここにきて、少し炎上ムードが落ち着いた印象があるでしょうか?

 ということで、現時点に感じていることを。

 

  エンタメ界の現在地の実情

 

 現時点で感じていること、と言っても、この件が話題に上った当時に書いたこと↓

 

 

と基本的なところ、つまり〝日本のエンターテインメント産業の暗部が表面に出た〟という考え方に大きな違いはありません。

 要は大手広告代理店を軸にしたメディアミックスの在り方の問題点。それが最悪の形で表面化した、ということです。

 

 テレビ局は有力コンテンツとしての〝ドラマ〟の制作について冒険は避けたい。あまり経費をかけず、効率よく視聴率を稼げる題材を扱いたい。

 その際、すでに存在してヒットしている〝作品〟を二次創作するスタイルが手っ取り早い。それが経費を供給することになる広告代理店的にも好ましいわけです。

 

 具体的には、一般的に知名度の高い文学賞を受賞した作品ですとか、ヒットしている漫画作品とか。それをテレビ映像化することで、出版元も潤う。そうなれば、あらゆる方面にウイン=ウインの関係性が生まれます。

 そして、往々にして弱い立場にある原作者が割を食う……。

 

 

それぞれの意識ベースは?

 

 結局は映像化の際に、それぞれの関係者が、どこまで著作権について話し合っているか、理解し合っているか、にかかわってくるのでしょう。

 

 もしも原作者にこだわりが強く、自分が提示した条件を譲れない、折り合わないというのなら、作品の映像化は断ればいい。テレビ局と出版社が、どう考えるかは二の次であって、そこで妥協する必要はありません。たとえ「自分が作った作品が映像化される」ことに無上の喜びを感じるとしても、です。

 

 そういう仕組み、体制が構築されていないことが、また携わる人にもそうした自覚が薄いことが、日本のエンターテインメント界の最大の問題点だと感じます。

 これは芸能界全般の〝最初に事務所ありき〟のスタイルにも、似たようなものがあるのかもしれませんけど……。

 

  〝ゼロの概念〟について

 

 そして今回のケースでは、実は、より深刻なことが頭をよぎりました。これは完全に個人的なことになるかもしれませんけど、様々な漫画家さん達の意見をSNS上で読んでるうちに、ひどくガッカリさせられることが多かったのです。

 

個人的な二次的反応

 自分達を「ゼロイチ」(ゼロからイチを作る人)であると自負し、いやまあ自負すること自体はお好きにどうぞ、なのですが、人によってはあたかも自身が〝絶対神〟であるかのように考えていらっしゃるのか?という意見が散見されました。

 これ、漫画とは別モノの二次創作作品を制作する時に、健全な意識の持ち用には思えませんけどねえ(本当に彼らが〝ゼロ〟なのか、という疑問は脇に置いておくとして)。

 

 しかもそれが、私が敬愛している漫画家さんにも何人か居たのが、とてつもなくショックでした。あなた方は自分のことを、〝ゼロイチ〟すなわちそういう存在である、と思っていらっしゃたのか……と。

 これが二次的反応として、最も残念なことでした。

 

 そういう漫画家さん達は、例えば、ですよ。

 〝原作者〟がいる漫画作品として『あしたのジョー』(ちばてつやさん)とか、『パイナップルARMY』や『MASTERキートン』(浦沢直樹さん)だとか、『北斗の拳』(原哲夫さん)とかとか……が挙げられます。いや、もっともっとたくさんいらっしゃるでしょう。

 とにかくこうした作品を描いた漫画家さん達について、どう思っているのか、はたしてどういう評価になるのでしょうか。

 彼らは、原作者がいるのだから〝ゼロイチ〟ではない、とでも?

 

作品は作者の〝子供〟なのか?

 また、作者そのものよりも、しばしばファンが漫画家サイドに立った場合の意見で見られた、

 「作品は自分の子供みたいなものだから、勝手にいじられることが許せないのは当たり前」

 といった意見。

 

 これについては、ちょっと論点が違う印象があるため、直接的ではないかもしれませんが、子供というのは、必ずしも親が思うようには育たないもの、なのではないですか?。

 まあ作品を子供に例えること自体は自由ですけど、まったく同じように扱うのは少しばかり乱暴な気がします。え?ウチは思ったように育っている?それは素晴らしい。

 

 でも、それこそ個人的には、そうした意識が作者のベースになくて描かれる漫画作品って、どんなものになるんだろうか、とは思いますけど。

 

まとめとして

 つまり……。

 今回の一件で最も気持ちが悪いのは、演劇、映画、ドラマ好きの自分にとって、ガッカリさせられることが多かった、ということ。失望した、と言うんでしょうかねえ。


 それは私個人にとどまらず、漫画そのものや映画、ドラマといったサブカルチャー離れにつながるのでは、という危惧というか、不安も伴っています。そのことで作品そのものの質が落ちかねない…。結果として、個人の楽しみが奪われかねない。

 本当に勘弁して欲しいなあ、というのが、現在の偽らざる思いのすべてです。

 

(長々としつれいしました。この件はこれで終わりにします)

 

 

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