Vol.1025-2/3に続けてご覧ください。
▼久米山「やすらぎの里」が見えて来た、久米山「やすらぎの里」に着いた(標高40m)
▼久米山「やすらぎの里」-1
▼久米山「やすらぎの里」-2
▼久米山「やすらぎの里」-3
▼平和塔と諏訪神社の御旅所へ進む、平和塔
▼諏訪神社の御旅所
▼諏訪神社の御旅所から見る東北方向-1
▼諏訪神社の御旅所から見る東北方向-2
▼諏訪神社の御旅所から見る久米池ゴルフセンター、石清水八幡宮の参道-一の鳥居・二の鳥居のズーム景
▼諏訪神社の御旅所から見る久米山墓地公園のズーム景
▼諏訪神社の御旅所を後にして諏訪神社へ向かう(約0.3km)、諏訪神社へ山道を下る-1
▼諏訪神社へ山道を下る-2(標識は諏訪神社・帰り道)、平和塔と諏訪神社の御旅所を振り返る
▼左(南西)側に由良山と高松クレーター5座、由良山と高松クレーター5座のズーム景
▼諏訪神社へ山道を下る-3
▼諏訪神社へ山道を下る-4
フォトSketch-諏訪神社
久米池の南西にある古墳の上に鎮座している。讃岐では珍しい諏訪神社ですが、武田の遺児「桃千代丸」が此の地に逃れ、諏訪明神を勧請したと云う。信玄亡き後、甲斐武田氏を継いだ勝頼は天目山の戦いで破れ、一門はかの地で滅んだと云われているが。
祭神:建御名方神
時天正十年三月十一日武田信玄の長男勝頼とその嗣子信勝は天目山の戦いに織田信長に敗れ親子共々に自害す。武田氏は滅亡に及び信勝の弟桃千代丸は家臣十八人女中七人を伴ひ屋島の地に逃れ来たり。山田郡元山村領主大熊備前守方に暫止留なし再起を謀るべく此の地に諏訪明神を勧請、後香東郡坂田室山城主細川家々臣坂田権守に頼り住みしも時悪く天正十三年三月豊臣秀吉の四國征伐に遭遇し室山城落城桃千代丸逃れ此の地に来り掃部屋敷(神社東側下の東寄り最近迄柿の大木と井戸が残在していたが今は埋没して跡なし)に住み祠職をなすも延宝年中発覚されその職を遂放され長い年月そのままとなり荒廃極に達す。山崎の住民恐れ畏み修復し山崎の守護神として現在も祭祀せるは誠に敬神の念厚き心に感銘するものである。御神徳の一説に地蔵寺の住職屋島西町に移遷せんと諏訪明神に我に百人分の力を授け給へと日参せし所その力量を授けられ喜び勇み帰寺せんと新川の堤防にさしかかった時両足地中に没し歩行出来ず直ちに力量減じ給へと念じたる所忽ち五十人力減ずるが故に寺院の建立に役だたせよと神託あり住職直ちに棟木を組立て落成新田町奥の坊より本尊の移遷せしとある。明治五年七月久米八幡宮境外末社となる。(境内由緒書より)
▼諏訪神社が見えて来た、諏訪神社-神馬
▼「久米の里山」周辺案内図(○印は現在地)-2、諏訪神社に着いた(標高26m)
▼諏訪神社-1
▼諏訪神社-2
▼諏訪神社-3
▼諏訪神社-4
▼諏訪神社-5
▼諏訪神社-6
▼諏訪神社-7
▼諏訪神社-8
▼諏訪神社を後にして久米池へ向かう(約0.3km)、久米山から下りる-1
▼久米山から下りる-2、左に案内板
▼案内板「諏訪神社古墳」
▼久米山から下りる-3、久米山から下りた(左に石碑)
▼諏訪神社の社号碑、諏訪神社の社号碑と参道を振り返る
▼久米池に進む-1
▼久米池に進む-2、次の交点を左折(左奥は久米寺、右奥に案内板)
▼「久米の里山」周辺案内図(○印は現在地)-3、ミニ八十八ケ所西登り口
▼正面奥に久米寺、久米池に進む-3
▼久米池に進む-4、正面(北東)に久米池・奥に屋島と五剣山
▼久米池に進む-5、久米池の西南端の堤防に着いた
▼久米池のパノラマ景-2
▼久米池の西側の歩行者用道路を北東方向に進む-1
▼久米池の西側の歩行者用道路を北東方向に進む-2、久米山墓地公園を振り返る
▼久米池のパノラマ景-3
▼久米池の西側の歩行者用道路を北東方向に進む-3、新田町に入った
(次報Vol.1026に続く)
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