Vol.1004-3/3 R巻頭-116。気ままniフォトSketch<東ハゼ・紙・西ハゼ町> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.1004-2/3に続けてご覧ください。

 

▼南部伊平記念碑を後にして観賢増正と剃刀塚(西ハゼ町)へ向かう(約0.5km)、坂田墓地を進む-1

 

▼坂田墓地を進む-2

 

▼坂田墓地を進む-3

 

▼観賢増正と剃刀塚(西ハゼ町)へ進む-1

 

▼観賢増正と剃刀塚(西ハゼ町)へ進む-2

 

▼金毘羅街道(高松街道)に合流(西ハゼ町に入った)し西に進む、観賢増正と剃刀塚が見えて来た

 

 

フォトSketch-紫雲山観賢寺(観賢山久米寺)

高松市西ハゼ町の金毘羅参詣道高松街道にある「空海」所縁のお寺です。
観賢(かんげん)僧正は、平安時代に坂田の土地に生まれ若くして宗教界に入り大きな足跡を残した偉人です。

延長3年6月、72歳で死去までに僧正の履歴を残し、数多くの業績をも残しています。
僧正は讃岐の国坂田の郷旧鷺田村(現高松市西ハゼ町)の人で文徳天皇の仁壽3年(853年)に生まれた。
空海大和尚に弘法大師の謚を賜った時、観賢僧正は勅命を伝える使となる、御下賜の紫衣を着せ大師の御髪を剃り大任を果たした。母に逢うため故郷に帰った時、大師の御髪を剃った剃刀をこの地に埋めたので、ここを剃刀塚と言います。
昭和4年、当時の村長「内井市太郎」氏等有志により、ここに僧正の遺品を納められ、頌徳碑と供養所へ建立しました。

剃刀塚(かみそりつか)は、醍醐天皇の延喜21年10月2日、天皇は空海上人が破れた法衣を着て、「高野の山にこけむす庵に袖朽ちて苔の下にぞ有明の月」と歌って立ち去られる夢をご覧になりました。
そこで、天皇は上人に弘法大師の称号と桧皮の色の衣を送る事になさいました。その使者を観賢僧正に命じられたので僧正は勅使と共に高野山にのぼり、廟中の空海が着ていた朽ち果てた衣を着替えさせ頭髪を新しい剃刀で剃りました。(空海死後90年)翌年その剃刀をこの地に埋めたといわれます。以上の記事は、現地説明案内板等より転載しました。

 

▼観賢増正と剃刀塚に着いた、観賢増正と剃刀塚-1

 

▼観賢増正と剃刀塚-2

 

▼観賢増正と剃刀塚-3

 

▼観賢増正と剃刀塚-4

 

▼観賢増正と剃刀塚-5

▼観賢増正と剃刀塚-6

 

▼観賢増正と剃刀塚-7

 

▼観賢増正と剃刀塚を後にして権現渕へ向かう(約0.1km)、西ハゼ町を西方向に進む-1

 

▼県道266線を渡る、西ハゼ町を西方向に進む-2

 

 

フォトSketch-権現渕・宮屋敷

▼西ハゼ町を西方向に進む-3(右奥に案内板)、「権現渕のいわれ(伝説)」の案内板

▼宮屋敷へ向かう(約0.3Km)、西ハゼ町を東北方向に進む-1

 

▼西ハゼ町を東北方向に進む-2

 

▼西ハゼ町を東北方向に進む-3

 

▼西ハゼ町を東北方向に進む-4(左に案内板)、「宮屋敷」の案内板

 

 

▼帰路のバス停「土居宮」へ向かう(約0.2Km)、県道266号線交点を左折

 

▼県道266号線を東北に進む、バス停「土居宮」が見えて来た

 

▼時間待ちが多く電車に切り替える、琴電琴平線「三条駅」へ向かう(約1.3Km)

 

▼西ハゼ町を東方向に進む-1

 

▼西ハゼ町を東方向に進む-2(東ハゼ町に入る)、東ハゼ町を東方向に進む-1

 

▼東ハゼ町を東方向に進む-2、地下道(国道11号線)を進む-1

 

▼地下道(国道11号線)を進む-2、東ハゼ町を東方向に進む-3

 

▼東ハゼ町を東方向に進む-4(上之町に入る)、上之町を東方向に進む-1

 

▼上之町を東方向に進む-2、左奥にことでん三条駅が見えて来た

 

▼ことでん三条駅へ進む

 

▼ことでん三条駅に着いた、ことでん三条駅から帰宅の途に就いた

 

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀