Vol.1004-2/3 R巻頭-116。気ままniフォトSketch<東ハゼ・紙・西ハゼ町> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.1004-1/3に続けてご覧ください。

 

Akijii気ままniフォトSketch<東ハゼ町・紙町・西ハゼ町>

今報は、東ハゼ町のハゼ東公園・ハゼ西公園、紙町の南部伊平記念碑、西ハゼ町の観賢僧正と剃刀塚・権現渕・宮屋敷を気ままniフォトSketchしました

 

▼所在地、ハゼ東公園

高松市東ハゼ町:〒761-8054、高松市紙町:〒761-8055、高松市西ハゼ町:〒761-8053

 

▼ハゼ西公園、南部伊平記念碑

 

▼観賢増正と剃刀塚

 

▼権現渕、宮屋敷

 

 

▼バス停「東室新町」で降車、ハゼ東公園へ向かう(約0.4km)

 

▼国道11号線を南東方向へ進む-1、東ハゼ町に入った

 

▼国道11号線を南東方向へ進む-2

 

▼西北方向に室山、国道11号線を南東方向へ進む-3(次の交点を左折)

 

▼コスモ高松南SSの手前を左折、東ハゼ町を東方向に進む-1

  

▼東ハゼ町を東方向に進む-2(右奥にハゼ東公園が見えて来た)、ハゼ東公園へ進む-1

 

▼ハゼ東公園へ進む-2、ハゼ東公園に着いた

 

 

フォトSketch-ハゼ東公園

国道11号線沿い、東ハゼ町にある公園です。 あまり頻繁に手入れはされていませんが、バスケットゴールもあり子どもたちが楽しんでいます。遊具も砂場もありますが、あまり手入れされている様に見えません。

しかしトイレもあり遊ばせやすい公園だと思います。

▼ハゼ東公園-1

 

▼ハゼ東公園-2

 

▼ハゼ東公園-3

 

▼ハゼ東公園-4

 

 

▼ハゼ東公園を後にしてハゼ西公園へ向かう(約0.5km)、東ハゼ町を南方向に進む-1

 

▼東ハゼ町を南方向に進む-2、次の交点を右折

 

▼東ハゼ町を西方向に進む(次の地下道-東出口へ入る)、東ハゼ町交差点(国道11号線)の地下道を通る-1

 

▼東ハゼ町交差点(国道11号線)の地下道を通る-2

 

▼国道11号線沿いに南西へ進み次を右折、東ハゼ町を西方向へ進む-1

 

▼東ハゼ町を西方向へ進む-2(左奥にハゼ西公園)、ハゼ西公園に着いた

 

 

フォトSketch-ハゼ西公園

そんなに多くはないが、南側に遊具(ブランコ・滑り台・バスケットゴール)と北側は広場になっている。自販機及び便所設置。人通りが少ない場所にあるので、広くて綺麗なわりにあまり人を見かける事がない公園。静かなので落ち着く。

▼ハゼ西公園-1

 

▼ハゼ西公園-2

▼ハゼ西公園-3

 

▼ハゼ西公園-4

 

 

▼ハゼ西公園を後にして紙町へ向かう(約0.2km)、東ハゼ町を西方向に進む-1(右奥に鶴尾保育所)

 

▼鶴尾保育所

 

▼東ハゼ町を西方向に進む-2(次のT交点を左折)、紙町に入った

 

 

▼紙町を南方向に進む-1(南部伊平記念碑へ向かう-約0.6km)、紙町を南方向に進む-2(御坊川を渡る)

 

▼御坊川の右(西)方向、左(東)方向

 

▼紙町を西方向に進む-1

 

▼紙町を西方向に進む-2

 

▼紙町を北方向に進む(紙町中央橋を渡る)

 

▼紙町中央橋(御坊川)

 

▼南部伊平記念碑へ進む-1

 

▼南部伊平記念碑へ進む-2

 

▼南部伊平記念碑が見えて来た、南部伊平記念碑に着いた

 

 

フォトSketch-南部伊平君記念碑

紙町の墓地の端っこに立っている。

南部伊平は武士の身分を捨てて事業に精を出し、近畿の方まで売り込みに出かけるなどし、高松の製紙業の基礎を築いた人物だそうである。南部伊平は高松藩士で松平頼真(よりざね)が1771(明和8)年に六代藩主になった翌1772年~天明(1781~89年)にかけて、自然災害や火災などが相次いで、庶民はもとより藩財政も窮乏したそうだ。

南部伊平は、この地方の水がきれいなことを知って、これを活かして産業を興せないかと考えました。

高松藩士の南部伊平が安永(1772~80)年間に伊予三島から亀造(亀遠との説もある)なる紙漉きを雇い、この地の出水を利用して紙漉きを始めた。それがもとで昭和15(1940)年に高松市に編入されるまで、同地区は鷺田村紙漉と呼ばれ、編入後は紙町と呼ばれている。南部伊平の起こした紙漉きはその地域に定着・繁栄したので、地元の人たちが紙祖としての頌徳碑と墓を春日神社境内に建てた。しかし、それが、後年、人家が立て込み敷地が狭くなったために移転することになった。

▼南部伊平記念碑-1

 

▼南部伊平記念碑-2

 

引き続き、Vol.1004-3/3をご覧ください。