新居宮池は今
遊歩道から見る宮池水上展望台。
パーゴラから見る宮池水上展望台の5日の移ろい。
雨中の宮池の風景と奥に霞む涅槃像(国分台・猪尻山・大平山)。
Akijii-blog巻頭言Repeat-130 Orignal掲載日:Vol.245 (2014.03.15)
擬態(ぎたい)する…。
自然界の生物たちは擬態しないと天敵に見つかり捕まる。あるいはエサ(食糧)が捕れないという事から、それに応じて進化を遂げて、色や形を変えるようになった。もちろん人間も例外ではない。
人間も常に擬態、カモフラージュをして生きている。家で、学校で、職場など日々の暮らしの中で、人はそれぞれ擬態している。人間の中にも、生物の擬態本能のようなものが残っているらしい。
日々流行が変わるファッションも、人間の擬態の一つと云えるのではないか。
美容も整形もそうだ。教育や「学ぶ」と云うことも一種の擬態かもしれない。
社会という枠組みに同化するための擬態だ。よい学校へ行き、よい会社に入らなければいけないという社会通念と、擬態できる才能・技術に長けている人ほど社会から評価される仕組みが、「擬態する人」を次々と生み出していると云える。
中には社会と同化するのを嫌い、擬態せずにありのままで生きていきたいと思っている人もいるだろうが、この世の中で生きて行く以上、社会制度の枠組み、一般の常識から外れることは容易なことではなく、擬態せざるを得ない方向へおいやられる。
それが成功だとか、出世だとか、豊かになるとか、ものを食えるとか、いろいろなことに繋がっていく。こうして人間も、日々の生活の中でほかの生物と同じく、擬態化している。
しかし、自然の生物の擬態と人間のそれとの間には大きな隔たりがある。
生物の擬態は生きるため、生命のためであって、それが結果的に自然界のバランスを保つことにも繋がっている。
一方、人間の擬態は、擬態することによって本当の自分を見失い、それぞれがニセモノになって行っている。よい学校、よい会社へ入るのはいいが、擬態すればするほど、多くの人が自然の摂理に反したニセモノの人間になってしまっている。
本来人間は、自然の摂理に則り、あるがままに生きていかなければならないのに、自分を含め多くの人がそれとは正反対の生き方をしている。
自然界の生物たちは自然の摂理に則して擬態しているが、人間は必ずしもそうではない。
善悪などを無視して擬態を続け、やがて欲と結びつき、ニセモノが氾濫する世の中をつくり出した。
偽装が横行する社会になったのも、当然の帰結なのかもしれないなと考える今日この頃の心境である。
<高く広がる空間>
ある日のウォーキングコースの上空。
・城山の登り口まで600mの地点から見る正面奥の城山と左に猪尻山。
・右方向の法華寺と奥に袋山・奥谷ハイランドなどの団地。
・城山の登り口まで300mの地点。
・右方向の春日神社と奥に袋山・奥谷ハイランドなどの団地。
・城山の登り口まで70mの地点。
・右方向の奥谷ハイランドなどの団地。
・城山の登り口から後方を振り返る。
・城山の中腹のコースから見る城山。
・城山の中腹のコースから見る袋山。
・城山の中腹のコースから見る袋山・奥谷ハイランドなどの団地。
・城山の中腹のコースから見るだんご山3兄弟。
A seasonal flower
◇ウォーキングコース脇の盆栽神社の寒緋桜(かんひさくら)
開花時期は3月初旬~3月末頃の暖地性の桜であるので、2月上旬では未だ早いが現状を掲載した。
各種の桜にさきがけて開花し、かつ、鮮やかな濃いピンク色の花なのでとても目立つ。
1月下旬頃に「沖縄で、全国初の花見♪」とのニュースが毎年あるが、ここでいう花見の花はこの「寒緋桜」のこと。沖縄は温暖なので、染井吉野などの育成が難しく、寒緋桜なら育つらしい。
別名は「緋寒桜(ひかんざくら)」。
◇盆栽神社の水仙
◇Kk宅の畑の紅梅
◇Hm宅に咲く椿
<akijii展-(574)>
今報は、シールパズル-動物編8点目-馬で121シールです。
引き続き、Vol.1018-2/2をご覧ください。