Vol.978-1/2に続けてご覧ください。
さぬき歴史(観て歩き)フォトレポ-県都編:06<栗林公園>
<08.栗林公園> <撮影:2016.03.16 and 2018.02.23 and 2018.06.08>
栗林公園(りつりんこうえん)の平庭部の広さは、東京ドーム3.5個分にあたる約16.2ha。これだけでも大名庭園の中では最大級ですが、背景となっている紫雲山を含めた面積は、なんと東京ドーム16個分の約75haにも及び、文化財に指定された庭園の中では日本一の大きさを誇ります。大きな池の周りに起伏に富んだ地形で山や谷を表現し、池の周りを散策できるように造られた大名庭園は、広い園内を回りながら様々な景色を楽しむのが最大の魅力です。広大な敷地に6つの池、13の築山を有する栗林公園は、江戸時代初期の大名庭園として優れた地割り石組みを有する南庭、明治以降に近代的な公園として整備された北庭にわかれており、それぞれの多彩な景色をぜひ堪能してください。
16世紀後半には地元豪族・佐藤氏の小さな庭でしたが、1631年頃にこの地を治めた生駒家の家臣・西嶋八兵衛によって手掛けられた治水工事により、広大な庭園の基礎が築かれました。庭造りは1642年から高松を治めることになった初代高松藩主・松平頼重にも引き継がれ、100年以上経た1745年、5代藩主・頼恭の時代に完成。以来、歴代藩主が修築を重ね、明治維新に至るまでの228年間、高松松平家の下屋敷として使用されていました。明治8(1875)年には県立公園として一般に公開され、昭和28(1953)年には名勝地として特に価値が高い「特別名勝」に指定されました。明治の終わりに発行された高等小学読本によると、栗林公園は「日本三名園」とされる水戸の偕楽園、金沢の兼六園、岡山の後楽園よりも「木や石に風雅な趣がある」と記されています。 (香川県観光協会HP)
<所在地・外観>
▼栗林公園-高松市栗林町1-20-16
▼栗林公園-生駒時代に始まり、松平氏によって名園に
JR高松駅より中央通りを南へ行くと、道の右(西)側に紫雲山が見えて来る。
この山を背景に形づくられた、木のこんもりと茂る一角が「栗林公園」である。(高松駅から約2.6km)
<概 要><歴史遺産>
▼紫雲山、飛来峰からの眺望
入口は北と東に有り、北を嶰ノ口(かいのくち)御門、東を切手(きって)御門と言う。
今は交通の関係で切手御門が正門のようになっているが、本来は嶰ノ口御門が正式な門であった。
▼嶰ノ口御門(北門)
▼切手御門(東門)
内部は、大きく南庭と北庭に分かれており、古いのは南庭である。
▼南庭、北庭
南庭の一番南の小普陀(しょうふだ)と呼ばれる所が、最も古風を残す本園発祥の地である。
▼津筏梁、小普陀
▼涵翠池(かんすいち)
天正年間(1573~92)に生駒氏の家臣となっていた地元の豪族佐藤道益が、現在の栗林公園の南西部に屋敷を造っていたが、1625(寛永2)年から1639年にかけて行われた西嶋八兵衛による香東川の付け替えによって生まれたミズタマリ伏流水を利用して庭を造ったとみられる。
生駒氏の後に入部した松平頼重(よりしげ)は、佐藤道益の家と庭を引き継いで整備し、隠居後は園内に御殿を建てて住み、栗林荘と称した。また頼重は北庭にカモをとる鴨場(かもば)を造った。
その珍しい遺構が現在は復元されている。
▼鴨場-鴨引き堀と小覗
▼群鴨池、花しょうぶ園
その後、2代頼常、3代頼豊によって整備が進められ、南庭は1745(延享2)年、5代頼恭のとき江戸城吹上園の美を取り入れて完成した。今も、江戸時代初期の回遊式大名庭園の姿と技法をよく伝えている。
▼吹上-1
▼吹上-2、偃月橋(えんげつきょう)から見る吹上亭
▼南湖、恋ツツジ
▼偃月橋
▼楓岸、和船「千秋丸」
▼根上り五葉松、迎春橋
池に面して立つ掬月亭(きくげつてい)は、1700(元禄13)年に描かれた「御林(おばやし)御庭乃図」に大茶屋(おおちゃや)として姿を見せている。
▼御林御庭乃図
▼掬月亭-1
▼掬月亭-2
松平家11代の下屋敷として利用されたが、1875(明治8)年に県立公園として公開された。
1953(昭和28)年には国の特別名勝となり、訪れる人が絶えない。
▼西湖と石壁(赤壁)、桶樋滝
▼芙蓉沼と北岸、枕流亭と潺湲池
▼芙蓉峰から見る北湖と梅林橋、箱松屏風松
園内には「ソテツの岡・根上りカシ・モガシ」と、3つの県指定天然記念物がある。
ソテツの岡は、涵翠池(かんすいち)北沿いの岡の上に、高さ6mにおよぶソテツ36株が群生している。
元禄年間(1688~1704)以前に植えられたもので、根上りカシは樹高約7mのうち、地上2m以上の所まで根があがって幹のようになっている。モガシは別名ホルトノキといい、高松藩の薬坊主格(薬草園係)であった平賀源内が、紀州(現、和歌山県・三重県の一部)の深専寺(じんせんじ)からオリーブの木と間違えて持ち帰ったと伝えられている。ホルトとは、ポルトガルの意味である。
▼ソテツの岡
▼根上りカシ
▼モガシ(ホルトノキ)
▼お手植松、鶴亀松
園内の「讃岐民芸館」では、紙・土・木など、さまざまな素材に特色のある民芸品が展示されている。
▼讃岐民芸館-外観、展示品(円座)
なお、栗林公園背後の紫雲山は稲荷山(166m)と室山(200m)という2つの山の総称で、南端の室山の麓には、高松最古の寺と考えられる無量寿院があった。天文年間(1532~55)に戦火で寺が焼失したため、八輪島(やわじま)(現在の高松城のある場所)に移った。
室山南麗から南西に2kmほど行った高松市西春日町の天理教高松大教会周辺からは、川原寺(かわらでら)式のやや退化した軒丸瓦や、白鳳期の「金銅誕生釈迦仏立像」(県文化、県立ミュージアム蔵)が出土しており、「坂田廃寺」とよばれている。
▼西春日池(片山池)-天理教高松大教会の周辺-1
▼西春日池(片山池)-天理教高松大教会の周辺-2
▼坂田寺跡
▼片山池1号窯跡-1
▼片山池1号窯跡-2
▼金銅誕生釈迦仏立像(web引用-水彩画風変換)
この寺跡が、無量寿院の前身ではないかと考えられている。「日本霊異記(にほんりょういき)」には、香川郡坂田の里の豪族として綾氏の名前が出ているので、坂田廃寺は綾氏と関係の深い寺跡といえるであろう。
▼日本霊異記-1(web引用)
▼日本霊異記-2(web引用-水彩画風変換)
<栗林公園の案内図の変遷>
▼栗林分間図(文政7-1824年)、栗林図(弘化元1844年)-(web引用)
▼栗林公園(明治32-1899年)、讃岐高松栗林公園真景(明治37-1904年)-(web引用)
▼栗林公園真景(大正年間)、李厘公園案内図(現在-2017年)-(web引用)
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
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