Vol.976-2/2 R巻頭-88。歴史(観て歩き)レポ-県都編:04<弘憲寺・法泉寺> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.976-1/2に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:04<弘憲寺・法泉寺

05.弘憲寺 <撮影:2016.04.19 and 2017.08.25>

高松市にある高野山真言宗の寺院。山号は利剣山。本尊は不動明王。法泉寺とともに讃岐生駒家の菩提寺である。伝承によれば、奈良時代の天平年間、現丸亀市飯山町下法軍寺に法勲寺が開基。しかし、少なくとも鎌倉時代以後に廃寺となり、本尊・寺宝を島田寺へ移した。その後生駒親正が讃岐に入封すると法勲寺を再建し、良純上人に寺務を執らせた。親正の死後、息子の生駒一正は親正の墓所内(現在地)に法勲寺を移転し、親正の戒名(謚弘憲公)をとって弘憲寺と改称、古画・名器を島田寺から移転し、同寺を弘憲寺の末寺とした。

1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦いで幕府側についた高松藩は朝敵となり、迫る官軍の征討を回避するため二人の家老の首を鎮撫使に差し出した。1月18日、そのうちの一人の小河又右衛門が切腹したのが当寺である。これによって結果的に高松を戦火から逃れさせることが出来た。

2016年、生駒親正着用の甲冑が秋田県由利本荘市の龍源寺から寄贈された。4代高俊が生駒騒動により1640年(寛永17年)に出羽国由利郡矢島に改易されてから376年ぶりの里帰りとなった。  (Wikipediaより)

 

<所在地・外観>

弘憲寺(こうけんじ)-高松市錦町2-4-29

▼弘憲寺-夫婦仲良く並ぶ、生駒親正(ちかまさ)夫婦の墓所

 

 

JR高松駅から県道173号線に入り南方向に進み、瀬戸大橋通りの信号交差点を右(西)折、瀬戸大橋通りを西に行き県庁前通りとの信号交差点を右折して南に進む。約150mの交差点で右折して西方向に500m進むと、突き当りに「弘憲寺」がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼NHK高松放送局北側の道、突き当りが弘憲寺

 

▼弘憲寺-全景、山門

 

▼弘憲寺-讃岐一国八十八箇所第一番霊場の石柱、生駒親正公墓所の説明板

 

▼弘憲寺-山門から弁天堂を見る、境内案内図

 

▼弘憲寺-境内

 

▼弘憲寺-平和塔

 

▼弘憲寺-鐘楼、本堂

 

 

1609(慶長14)年、生駒一正(かずまさ)がこの地に父親正(ちかまさ)の墓を作った時に創建された寺で、「生駒親正夫妻墓所」は県史跡に指定されている。寺号の弘憲は、親正の法名に因む。

 

▼生駒親正夫妻墓所説明板、墓石

 

 

弘憲寺は、鵜足(うた)郡上法軍寺村(かみほうぐんじむら)(現、丸亀市飯山町)に有った法勲寺を、高松へ移したものである。法勲寺は讃岐にとっては由緒ある寺で、父親正が生前、法勲寺を引き継いだ嶋田寺(丸亀市飯山町下法軍寺)の良純に帰依していた事による。古い仏像・仏具は、法勲寺由来のものであろう。

 

▼法勲寺跡

 

▼法勲寺(現在)

 

▼嶋田寺

 

 

本尊の「木造不動明王立像」(国重文)は、ヒノキの一本造。平安時代後期(11世紀)のもので、頭髪や裳(も)に特色が有る。もう1本の「木造地蔵菩薩立像」(県文化)も平安時代後期(12世紀)のもので、優美な都風(みやこふう)を示している。

 

▼木造不動明王立像、木造地蔵菩薩立像(web引用-水彩画風変換)

 

▼天部形立像、金襴波引車紋散七条袈裟(web引用-水彩画風変換)

 

 

密教法具(金剛盤こんごうばん・六器ろくき・火舎かしゃ・飲食器おんじきき・灑水器しゃすいき・塗香器ずこうき、国重文)は、鎌倉時代のもので、鋳銅鍍金。側面に蓮弁があるのが特色である。

 

▼灑水器・塗香器、金剛盤(web引用-水彩画風変換)

 

▼六器・火舎・飲食器(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

06.法泉寺 <撮影:2017.06.25 and 2018.06.04>

弘憲寺とともに生駒家菩提寺である。もっとも釈迦像の立つ寺と言ったほうが、市民の間ではとおりがいいかもしれない。その釈迦像の北側、奥まった場所に小さな半間四方の堂がある。この堂が生駒廟と呼ばれており、内部には生駒家二代・生駒一正(1555~1610)、三代・生駒正俊(1586~1621)の五輪塔の墓が安置される。五輪塔は花崗岩製の小さなもので、それぞれ戒名が墨書されている。なお、法泉寺(ほうせんじ)の寺名は、生駒正俊の戒名に由来する。

高松空襲によって法泉寺は打撃を受け、寺域も戦後の区画整理等により大きく変化した。

生駒廟・釈迦像ともに移転しており、西側道路の歩道に旧位置を示す石碑が戦前の状況を伝えるに過ぎない。なお、東門傍に吊られた「銅鐘」は、生駒家が朝鮮出兵・文禄の役(1592)のときに陣鐘として利用したものと、伝えられている。鐘は銘によれば、元徳2年(1330)に備前・金岡庄(岡山市西大寺)の窪八幡にあったもので、市内では重要文化財に指定されている屋島寺梵鐘についで古い例である。県指定の有形文化財となっている。       (高松市HP)

 

<所在地・外観>

▼法泉寺-高松市番町1-3-19

▼法泉寺-生駒家2代一正・3代正俊(の墓所

 

 

JR高松駅から県庁前通り(県道173号線)を南方向に向かうと(駅前から約0.9km)、通りの東側に大きな仏像の立つ「法泉寺」(臨済宗妙心寺派)がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼法泉寺-入口、美術品・文化財品書き

銅鍾は保存のため外部に出して無いらしく見当たらなかった。

 

▼法泉寺-境内、本堂

 

▼法泉寺-樹齢400年の大蘇鉄-高松市の名木

 

 

この像は大釈迦立像で、日露戦争(1904~05)戦没者の慰霊碑である。

 

▼法泉寺-大釈迦立像

 

 

この法泉寺は、生駒氏によって宇多津から移されたと伝えられる。

境内奥に生駒家霊廟があり、生駒一正・正俊の五輪塔が祀られている。

 

▼法泉寺--生駒家廟、軍用馬・鳩・犬慰霊碑、たぬきの眼鏡・蹲

 

▼法泉寺-生駒家廟、生駒家廟の説明板

▼法泉寺-生駒家廟五輪塔

 

▼法泉寺-軍用馬・鳩・犬慰霊碑、たぬきの眼鏡・蹲(つくばい)

 

 

▼法泉寺-銅鍾の説明板、保存のため外部には無く見ることが適わなかったので

(web引用-水彩画風変換)

 

 

<関連遺産>

法泉寺東隣の「地蔵寺」(高野山真言宗)には、名工といわれた左甚五郎の墓がある。

甚五郎は、晩年、生駒家4代高俊に仕えて高松にいたが、郊外の三谷村(現、高松市三谷町)で没した後、この地に葬られたと伝えられる。

 

▼地蔵寺-1

左甚五郎の墓を確認できなかった。

 

▼地蔵寺-2

 

 

法泉寺から県道173号線を南に少し下り右折した高松聖母幼稚園の西隣に香川用水の完成を記念して造られた「香川用水記念館」がある。(現在は番町5-1-29に移設)

 

▼(旧)香川用水記念館-1(高松市番町1丁目)

 

 

4階が香川用水資料館になっており、溜池用具や古文書など用水の史料が展示されている。

 

▼(旧)香川用水記念館-2(高松市番町1丁目)、入館はやめた

 

 

▼(新)香川用水記念館(高松市番町5丁目)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀