Vol.957-4/4 R巻頭-69。歴史(観て歩き)レポ-西讃編:02<興昌寺・専念寺> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.957-3/4に続けてご覧ください。

 

興昌寺山ミニ四国霊場の23番札所石仏の裏手に山崎宗鑑の墓址がある。

宗鑑の墓搭近くには、横穴式石室をもつ興昌寺山一号墳などもある。

 

▼山崎宗鑑の墓址

▼興昌寺山一号墳

 

 

一夜庵脇にある石塔は、1775(安永4)年の二百年忌の際に設けられた宗鑑の供養塔である。

一夜庵は俳諧の聖地となり、後世、多くの俳人たちが訪れた。

 

▼一夜庵脇の石塔(宗鑑の供養塔)

 

 

<関連遺産>

また、九十九城主細川氏政(ほそかわうじまさ)墓石の大きな五輪塔(一夜庵前)や、京極丸亀藩観音寺町奉行・根津八郎兵衛直方とその一族の墓所などもある。

 

▼九十九城主細川氏政墓石の大きな五輪塔(供養塔)

 

▼観音寺町奉行の墓所へ、京極丸亀藩観音寺町奉行・根津八郎兵衛直方とその一族の墓所

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

<04.専念寺 <撮影:2016.08.12 and 2018.05.04>

浄土宗専念寺(せんねんじ)の境内には、俳人小林一茶の句碑があります。一茶は寛政四年(1792年)専念寺住職の性誉大和尚(しょうよだいかしょう)俳号五梅(ばい)を訪ねてきました。一茶は和尚と同じ江戸の俳人二六庵竹阿(にろくあんちくあ)の弟子だったことで厚遇を受けました。二年後の寛政六年(1794年)に再びこの寺を訪れて正月に詠んだ一句が「や さらに旅宿(はたご)と おもほえず」句碑は寺に残っている一茶の自筆を模写したもので、句意は「この宿ではいつもよいもてなしを受けたので旅の宿とは思えない気がするというものです。」(観音寺市観光協会)

 

<所在地・外観>

専念寺-観音寺市観音寺町甲3399

▼専念寺-小林一茶もやすらいだ古刹

 

 

興昌寺から三架橋へ戻り、橋を渡って、次の信号(観音寺市三架橋)交差点を右折し、西へ約100m行った右手(北)に「専念寺」(浄土宗)がある。

 

<概 要>

▼興昌寺の山門を潜り抜ける、興昌寺を後にする

 

▼専念寺へ向かう、県道21号を南下する

 

▼観音寺・神恵院交差点を通過、マルナカ八幡店を通過

 

▼バス停「琴弾公園」を通過、三架橋(財田川)を渡る-1(県道21号を南下)

 

▼三架橋を渡る-2、三架橋から見る財田川の下流方向(新・琴弾橋が見える)

 

▼三架橋を渡り切った、観音寺信金の角(三架橋交差点)を右折

 

▼専念寺へ進む、専念寺が見えてきた

 

▼専念寺に着いた、専念寺の外観

 

▼専念寺の観音寺観光協会案内板、境内

 

 

<歴史遺産>

専念寺には、俳人小林一茶が当地を訪れ、逗留(とうりゅう)した。

その足跡を残しており、門を入ってすぐ左方に、一茶の自筆を写して刻んだ句碑がある。

この句は、1795(寛政7)年の正月を当寺で迎えたときのもので、厚遇への喜びの気持ちを表している。

 

▼専念寺:一茶の句碑(表面)

▼専念寺:一茶の句碑(裏面)

 

一茶が専念寺を訪れたのは、当寺20世住職の性誉大和尚が五梅(ごばい)と号し、共に江戸で相弟子としての誼(よしみ)が有ったからである。1792(寛政4)年、伊勢(現、三重県)から大坂を経て当寺に五梅を訪ねた一茶は厚遇を受け、しばらく滞在した。

やがて伊予(現、愛媛県)から九州へと巡り、1794年帰途、再度五梅を訪ねて逗留し、当寺で新年を迎えた。「寛政紀行」に「四とせ昵懇(じっこん)とはなりけらし」とあるように、1798年12月8日に辞去するまで、4年間滞在し、多くの句を残した。

 

▼寛政7年紀行一茶の足跡地図(web引用-水彩画風変換)

 

▼善通寺市-楠木寺の句碑-おんひらひら こんぴら道の 小蝶かな

 

当寺には、他にも一茶の自筆句がいくつか有るが、1807(文化4)年の観音寺大火の折、当寺もほとんど全焼した。更に1873(明治6)年の竹槍騒動の際にも被害に遭った事から、一茶滞在期の寺域の面影や多くの資料は灰燼(かいじん)に帰した。

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀