Vol.957-3/4 R巻頭-69。歴史(観て歩き)レポ-西讃編:02<興昌寺・専念寺> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.957-2/4に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-西讃:02興昌寺と一夜庵・専念寺

<03.興昌寺と一夜庵 <撮影:2015.09.18 and 2018.05.04>

興昌寺(こうしょうじ)は東福寺派臨済宗であるが、開山は弘法大師で、古くは真言密教の道場であった。

山崎宗鑑終焉の地ということで、江戸時代以降多くの俳人が興昌寺を訪れ、俳句を残している。

境内には、仏足石やミニ霊場88カ所めぐりコースなど多くの史跡がある。

 

一夜庵(いちやあん)は、俳諧の祖、山崎宗鑑が興昌寺の境内に結んだ庵で日本最古の俳跡といわれている。

建立は享禄元年(1528)で、その後4回ほど修復されたがほぼ原形をとどめている。

一夜庵の屋根には宗鑑の生誕地琵琶湖の葦が一部使われている。「一夜庵」の名は宗鑑が来客の一夜以上の滞在を好まなかったという次の句にも由来している。「上は立ち 中は日ぐらし 下は夜まで 一夜泊りは 下々の下の客」          (観音寺市観光協会HP)

 

<所在地・外観>

▼興昌寺と一夜庵-観音寺市八幡町2-7-2

▼興昌寺、一夜庵-京都五山ゆかりの禅林は俳諧の聖地

 

 

興昌寺」は、真言密教の道場であったが、14世紀中頃、京都五山の1つ東福寺(京都市東山区)19世の無涯(むがい)(禅海・法源禅師)が当地に立ち寄って臨済宗に改め、観音寺界隈の臨済宗寺院の本山的役割を果たすなど、発展した。

 

<概 要><歴史遺産>

三架橋から県道21号線を北上し、「←四国霊場69番観音寺・68番神恵院」標識のある四差信号交点を直進して100mほど行くと、左手に「七宝山興昌寺 俳蹟一夜庵」の石柱があり、放生川を挟んで奥の山麓に興昌寺の山門や石垣が見える。

 

▼琴弾八幡宮の鳥居と三架橋、県道21号を北上

 

▼県道21号線沿いの石柱、左折すると正面に興昌寺

 

▼放生川を越える、興昌寺の山門

 

▼興昌寺:寺号標、「俳蹟 一夜庵」石標

 

▼興昌寺:山門と寺名額、寺名額

 

 

山門を入ると、直ぐに禅林らしい閑静さに包まれ、情趣ある石垣を見ながら石段を上り詰めると、本堂・庫裏(くり)などが佇む高台に出る。

 

▼興昌寺の参道石階段-1

 

▼興昌寺の参道石階段-2、境内

 

 

鐘楼の脇には、珍しい「仏足石」が安置されている。

 

▼興晶寺:本堂と庫裡 、鐘楼

 

▼興晶寺:仏足石

 

樹木生い茂る背後の興昌寺山も当寺の山域で、かつての真言宗の名残りが漂うミニ四国八十八個所・西国三十三個所がある。

各札所の本尊を刻んだ石仏と弘法大師像を1対にして、山を右回りに1周するよう配されている。

 

▼興昌寺山史跡めぐり:ミニ四国八十八ケ所霊場、霊場登り口

 

▼一番-霊山寺(りょうぜんじ)、興昌寺山史跡めぐり-1

 

▼廿三番-薬王寺(やくおうじ)、廿四番-最御崎寺(東寺)(ほつみさきじ)

 

▼三十八番-金剛福寺(補陀洛院)(こんごうふくじ) 、四十番-観自在寺(かんじざいじ)

 

▼興昌寺山史跡めぐり-2

 

▼六十六番-雲辺寺(うんぺんじ) 、八十八番-大窪寺(おおくぼじ)

 

 

51番札所石手寺(いしてじ)のものが最古で、「明和二(1765)年」の建立銘があることから、江戸時代中期には、人びとが当山を聖地巡礼信仰の対象としていた事が窺える。

 

▼五十一番-石手寺-1

▼五十一番-石手寺-2

 

 

尚、一番新しいのは1870年製で、第四十三番札所源光山 円手院 明石寺(めいせきじ)の本尊石仏ある。

 

▼明石寺-本尊石仏

 

興昌寺を最も特徴づける人物が俳諧の祖山崎宗鑑(やまさきそうかん)である。

 

▼山崎宗鑑(web引用-水彩画風変換)

 

 

宗鑑は親交があった東福寺の僧梅谷(ばいこく)禅師が、興昌寺の4世住職として観音寺へ去ったのを頼って、1582(享禄元)年に当寺を訪ねた。そして梅谷庇護のもと、境内西端の高台に創設され、宗鑑が在住したのが「一夜庵」で、ここが終(つい)の棲家(すみか)となった。

 

▼一夜庵へ向かう、宗鑑450年祭記念碑

 

 

▼一夜庵へ進む-1、宗鑑の句碑

 

▼一夜庵へ進む-2、一夜庵に着いた

 

▼一夜庵、一夜庵の説明板

 

 

庵は何度か改修が加えられているが、旧態を良く留めている。

宗鑑終焉の地と生誕地という縁で、姉妹都市になった滋賀県草津市から琵琶湖岸の葦(あし)が寄贈され、1984(昭和59)年に屋根の葺き替えを中心とした改修が行われた。

室内は4畳半と6畳の書院造、屋根は寄棟の草葺き、簡素な情趣で周囲の自然と融合している。

 

▼一夜庵:庵-1

 

▼一夜庵:庵-2

 

▼一夜庵:庵-3

 

▼一夜庵:庵-4

 

 

宗鑑は、興昌寺のために釈迦堂建立の寄付を募るなどして、1553(天文22)年、89歳で他界した(他の年齢説もある)。「宗鑑はいづこへと人の問ふならば ちと用ありてあの世へと言へ」が辞世と言う。

興昌寺には、釈迦堂建立時に作成した「柴金仙(しきんせん)勧進帳」など、宗鑑自筆やゆかりの資料が保存されている。

 

▼宗鑑の筆跡(web引用-水彩画風変換)

▼興昌寺に残るレプリカ短冊作品展(web引用-水彩画風変換)

 

 

引き続き、Vol.957-4/4をご覧ください。