Vol.956-4/4 R巻頭-68。歴史(観て歩き)レポ-西讃編:01<琴弾八幡・観音寺他1> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.956-3/4に続けてご覧ください。

 

<02.神恵院・観音寺 <撮影:2012.03.27 and 2015.09.18>

神恵院・観音寺は、今から1300年ほど前に、日証上人が琴弾八幡宮の別当として創立しました。

大同年間(806-809)弘法大師が7代目住職の時、本尊聖観世音菩薩をはじめ諸像を安置、七堂伽藍を建立し観音寺と改めました。四国霊場88ヶ所の内、琴弾八幡宮が68番、観音寺が69番となりました。明治初年、神仏分離で、琴弾八幡宮の本地仏を西金堂に移し神恵院を68番の本堂としたため、四国霊場唯一の珍しい1寺2霊場となっています。

神恵院(68番)は、弘法大師筆と伝えられる、阿弥陀如来の尊像を本尊とする寺。もとは八幡宮内にあり、明治の神仏分離で観音寺の境内に移選された。観音寺(69番)は、奈良時代に八幡宮と共に創建された神宮寺に、弘法大師が聖観世音菩薩像を奉納し、四国霊場として定めた。      (観音寺市HP)

 

<所在地・外観>

▼神恵院・観音寺-観音寺市八幡町1-2-7

▼神恵院・観音寺-観音寺市名由来の古刹は珍しい一山2カ寺

 

 

<概 要><歴史遺産>

観音寺市の市名の由来となった「観音寺」(真言宗)は、JR観音寺駅から県道21号線を北に向かい、三架橋を渡る。琴弾山裾と放生(ほうじょう)川に挟まれた道をしばらく北上し、左手に見える。惣持院(そうじいん)の塀に沿って最初の辻を左折すると、正面に仁王門が見える。

 

▼JR観音寺駅、大正橋(一の谷川を渡る)

 

▼三架橋(財田川)、進入路

 

▼駐車場、仁王門-1

 

 

仁王門から入り石畳を進むと石段の右に鐘楼、左に宝物殿があり、石段を上ると正面に大クスが見える。

 

▼仁王門-2

 

▼石畳、左-宝物殿・右-鐘楼

 

▼鐘楼、境内の大くす

 

 

四国八十八個所霊場68番札所の琴弾山「神恵院」(真言宗)は、2002(平成14)年の山崩れで伽藍の改修が有り、向かって左側の領域にまとめられた。

左方手前に神恵院の大師堂・十王堂、その奥に近代的な神恵院金堂がある。

 

▼観音寺・神恵院-案内(配置)図、神恵院

 

▼神恵院-大師堂、本堂入口

 

▼神恵院-本堂

 

 

右側には69番札所七宝山観音寺の大師堂、右方奥には朱塗りの鮮やかな「観音寺金堂」(国重文)がある。

 

▼観音寺-大師堂、本堂-1

 

▼観音寺-本堂-2

 

そのそばの石段を上った所にある建物は、江戸時代には薬師如来を本尊とする西(さい)金堂であった。神仏分離後、琴弾八幡宮から阿弥陀如来をここに移して神恵院金堂としていたが、2002年の改修で阿弥陀如来は新しい神恵院金堂に移し、今は江戸時代と同様、薬師如来のみを安置する薬師堂となっている。

 

▼観音寺-薬師堂

 

 

両寺の起源は、704(大宝3)年、日證上人により琴弾八幡宮が創建された折り、その神宮寺宝光院として建立され、本地仏(ほんじぶつ)を阿弥陀如来とする法相(ほっそう)宗の道場として始まった。ほぼ1世紀後の807(大同2)年、当地で7世住職を務めた空海(弘法大師)が、自ら刻んだ「木造大日如来坐像」(伝聖観音坐像、県文化)を本尊仏として整備を進め、観音寺に改称したと云う。

 

▼木造大日如来坐像(伝聖観音坐像)(web引用-水彩画風変換)

▼観音寺・神恵院の客殿と巍巍園(ぎぎえん)

 

▼本堂への石階段、薬師堂への石階段

 

 

神仏分離の折、両社寺の宝物類も寺院側の所管と成ったものが多い。

「絹本著色琴弾宮絵縁起・絹本著色不動二童子像・絹本著色琴弾八幡本地仏像」、釈迦の入滅(にゅうめつ)を表す珍しい寄木造の「木造涅槃仏像」(いずれも国重文)、讃岐国七宝山八幡宮縁起など多くの文化財が伝えられている。尚、琴弾宮絵縁起・不動二童子像などは高松市の県立ミュージアムに寄託され、時折、一般公開されている。

 

▼絹本着色琴弾八幡宮絵縁起、木造涅槃仏像(web引用-水彩画風変換)

 

▼絹本著色琴弾八幡本地仏像(web引用-水彩画風変換)

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

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