Vol.955-3/6 R巻頭-67。歴史(観て歩き)レポ-中讃編:42<法道寺・長柄ダム他2> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.955-2/6に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-中讃:42<法道寺・主基斎田跡地・長柄ダム・永富池

<66.法道寺 <撮影:2018.04.09>

法道寺(ほうどうじ)には、国指定重要文化財の木造地蔵菩薩立像がある。木造地蔵菩薩立像は宝冠も戴かず、綬帯もつけず、左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、蓮花座の上に静かに立っている。声聞形(しょうもんぎょう)(僧の姿をした)の像である。総高95.8cm、桧材の一本造りで内ぐりがあり背板が打ってある。慈悲円満な彩色、衣文(えもん)の柔らかみ等藤原末期を思わせる鎌倉初期の作である。台座は、当初のものであるか、あるいは損傷のまま年を経たものか、持仏(じぶつ)と光背(光背)は後年の補作である。元禄14年(1701年)阿野郡南大庄屋「水原半十郎」(牛川)「片山庄兵衛」(羽床)の発願によって本堂が建築された享保7年(1722年)半十郎の寄進によって龍燈院綾川寺法印快厳が修理し入仏開眼したという墨書銘がある。(説明板より)

開通小学校(法道寺)は、明治5年(1872年)から明治30年(1897年)まで山田下の学校であった。

綾上町(現綾川町綾上)における小学校は、寺院や私塾に設置された。

第六小区は、12番学区から14番学区があり、12番学区は9月15日開通小学校(法道寺)が開校、13番学区は10月に永覚寺に、14番学区は田万小学校(西明寺)を開設した。

開通小学校(法道寺)は、山田上・山田下・牛川・北村の4ヶ村の児童数150人、教員3名(水原遙平・河田尚仙・元住慶次)、管理人「十河又八郎」(小区長)で開設した。                       (綾上町史より)

 

<所在地・外観>

法道寺-綾歌郡綾川町山田下2295-1

▼法道寺-定朝様(じょうちょうよう)の穏やかな地蔵菩薩像(web引用-水彩画風変換)

 

 

綾川町綾上支所の西北方向に約300mの所に、「法道寺」(真言宗)がある。

 

<概 要><歴史遺産>

綾上支所には綾上図書館が有って、その中の一室に、かつて「陶のふるさと資料館」で展示されていた綾川町内の出土資料や歴史資料が収蔵されている。

 

▼綾上支所(旧・綾上町役場)、国道377号線の交点を右折し県道17号線へ入る

 

▼県道17号線を北上、法道寺の標識が見えてきた

 

▼県道脇の法道寺の石碑

 

▼法道寺が見える法道寺入口

 

▼境内、国重文の説明板

 

▼開通小学校跡地碑

 

▼鐘楼、水子聖霊石像

 

▼川柳碑、西国三十三所霊場碑文

 

▼西国三十三所霊場石仏

 

▼境内の杜1、史跡-七人塚

 

▼境内の杜2

 

▼国重文収蔵のお堂、お堂横の石灯籠

 

 

法道寺は、龍燈院綾川寺(廃寺)の末寺として建立された多宝院宝幢寺が前身である。

天正年間(1573~91)、長宗我部氏の兵火にかかったと云うが、平安時代以来の仏像・仏具を伝えている。現在の本堂は、1701(元禄14)年の建造で有る事が棟札から明らかである。

明治時代初期、一時無住となったが、1882(明治15)年に地蔵院法道寺として再興され、今日に至っている。(現在は「連絡は嶋田寺まで…」の札が掛かっている)

 

▼本堂-1

 

▼本堂-2、扁額

▼本堂-絵、史跡七人塚の由緒

 

 

▼今は金堂前には見えない絵-1

 

▼今は金堂前には見えない絵-2

 

 

本尊の「木造地蔵菩薩立像」(国重文)は、ヒノキを身体の前後と両肩先で矧(は)ぎ合わせて造られている。額には水晶の白毫(びゃくごう)が嵌(は)め込まれ、顔は優しさが漂う。

穏やかな定朝様(じょうちょうさま)の像容で、浅い衣文(えもん)の彫りや裳裾(もすそ)が足首までとなっているなど、12世紀、平安時代末期頃の作とみられる。

 

▼木造地蔵菩薩立像-1(web引用-水彩画風変換)

▼木造地蔵菩薩立像-2(web引用-水彩画風変換)

 

▼木造地蔵菩薩立像-宝珠、蓮華五段魚麟葺きの台座(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

引き続き、Vol.955-4/6をご覧ください。