Vol.952-3/4 R巻頭-64。歴史(観て歩き)レポ-中讃編:39<陶窯跡群・北条池他1> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.952-2/4に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-中讃:39<陶窯跡群・北条池・八坂神社/大久保神社

<59.陶窯跡群(十瓶山窯跡群)  <撮影:2016.05.02 and 2018.03.30>

十瓶山(とかめやま)は「陶(すえ)富士」とも呼ばれ、なだらかな円錐上の姿が美しい山で、田園地帯のみどりとして「香川のみどり百選」に選ばれている。十瓶山では良質の粘土が取れた事から、付近一帯では古代より「須恵器(すえき)」が生産されていた。付近では隣接する綾川町総合運動公園内にある「すべっと窯跡」をはじめ、多くの窯跡が発見されている。

 

<所在地・外観>

陶窯跡群(十瓶山窯跡群)置図- 綾歌郡綾川町陶

▼ますえ畑瓦窯跡、すべっと窯跡-畿内に須恵器を供給した陶窯跡群

 

 

平安時代には、北条池から北側の府中湖、十瓶山から北東の火ノ山に掛けて、80基を超える須恵器窯や20基を超える瓦窯が築かれた(陶窯跡群、十瓶山跡群)。

 

<概 要><歴史遺産>

この地は国府・国分寺に近く、須恵器は綾川の水運を通じて税(調ちょう)として平安京へ、瓦は内裏(だいり)や鳥羽離宮(とばりきゅう)(京都市、11世紀)、四天王寺(大阪市)などに運ばれた。

 

▼陶窯跡群(十瓶山窯跡群)

 

▼北条池と十瓶山(奥の左-鷲ノ山・右-火ノ山)、府中湖と火ノ山(右奥、中央は鷲ノ山)

 

▼十瓶山、火ノ山

 

 

国道32号線の綾川町陶交差点から県道17号線に入り北西方向に進み、綾川町猿王(さるおう)交差点で東に折れ、200m進んだ所で細い道を北に100mほど進むと、道の左(西)に「ますえ畑(ばた)瓦窯跡」(県史跡)がある。この窯跡は平安時代の半地下式平窯で、出土した六葉素弁文軒丸瓦は、内裏(京都市)や四天王寺(大阪市)、六波羅蜜寺(京都市)などからも出土している。

 

▼県道17号線(ことひら道の道標)、綾川町猿王交差点-1

 

▼綾川町猿王交差点-2 、ますえ畑瓦窯跡に着いた

 

▼ますえ畑瓦跡-1

 

▼ますえ畑瓦跡-2

 

 

十瓶山(216.2m)の東麓にある総合運動公園勤労者体育館の道を挟んで山側(西側)の、谷状になった奥に、「すべっと窯跡」(県史跡)がある。この窯跡は奈良時代から平安時代の半地下式無段式登り窯で、小形坏や皿などの須恵器が焼かれた。この陶窯跡群では国衙(こくが)権力の庇護のもと、平安時代を通じて須恵器や瓦生産が行われたが、13世紀頃には国衙の弱体化とともに衰退していった。

 

▼綾川町総合運動公園、運動公園の案内図

 

▼綾川町総合運動公園体育館、すべっと窯跡-1

 

▼すべっと窯跡-2

 

▼すべっと窯跡-3

 

▼前方は鷲ノ山、すべっと窯跡-4

 

▼すべっと窯跡-5、頂から見る綾川町総合運動公園

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

<60.北条池 <撮影:2016.05.02 and 2018.03.30>

北條池(ほうじょういけ)は坂出平野700ha余の水田を潤し、かつて満濃太郎、北条次郎と詠われたように綾川水系で最大規模を誇り、古代条理の名残である。「綾北條」に因み北條池と呼ばれるようになったと伝えられる。

古代条理の開拓で早くから拓けた綾北條は、県内有数の穀倉地帯として知られるが、北條池が築造されるまでは綾川の流水に頼るほかなく、相次ぐ旱魃や度重なる氾濫に困窮していた。この綾北農家の憂いを見かねた阿野郡林田村の財豪「宮武清八景秀」が自ら私財を投じて、矢延平六(やのべへいろく)によって延宝年間に創築されたものであると記録に標されている。

 

この綾北地域に大きな役割を果たしてきた北條池も、築造後三百年余を経て老巧化が進み、早期改修が強く望まれていた。そこで、平成五年に着工した国営総合農地防災事業により、最新の技術力によって新しく生まれ変わった。一新された北條池が穀倉地帯である坂出平野を潤し「農は国の礎」と言われるように、農業の振興により地域がますます発展する事を願い、ここに改修記念碑を建立する。平成十八年三月吉日

 

昭和二十八年(1953)の長柄ダム完成まで水不足の悩みは続いたと言います。

池の底には須恵器の窯跡が沈み、湖畔には讃留霊王(サルレオウ)の墓や法然上人の碑が残るなど長い歴史に彩られた北条池も、今ではその中央を国道32号が走り、こうした時代は遠い昔となった感があります。

 

<所在地・外観>

▼北条池-綾歌郡綾川町萱原

▼北条池-綾北条郡の田地をうるおす北条次郎

 

 

萱原(かやはら)地区と北東に隣接する陶(すえ)地区の境には、満濃池の満濃太郎に対して、北条次郎と呼ばれた「北条池」がある。

 

<概 要><歴史遺産>

高松藩主松平頼重の時、この綾南条(あやなんじょう)郡(阿野あや郡南部)の地に築造され、綾北条郡(阿野郡北部、現在の坂出市東部)の田地を潤した事から北条池と呼ばれる。

 

▼北条池-1

 

▼北条池-2

 

▼北条池-3

 

▼北条池-4

 

 

池の周囲は約4km、面積59ha、灌漑面積775haで、池の北西の畔には池の宮神社が有り、北条の人びとに依って祀られている。北条地域開発のために、無くては成らない池であったからである。

 

▼池の宮神社-1

 

▼池の宮神社-2

 

 

<関連遺産>

北条池を国道32号線が跨ぐ北条橋のすぐ西の信号を南に折れて、池の水際に至る細い道を辿ると、赤天神神社が祀られている。この神社の周辺の微高地が「西村城跡」で、滝宮城の支城であった。

 

▼赤天神神社-1

 

▼赤天神神社-2

 

▼赤天神神社-3、神社の前に三角点

 

▼西村城跡-1

 

▼西村城跡-2:大堀切

幅30m、深さ5mの大きな堀切があり、県内ではほかに類例がない大堀切である。

 

▼西村城跡-3

 

▼西村城跡-4、北条池と的場西方向

 

▼西村城跡-5:北条池橋と西村東方向

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

引き続き、Vol.952-4/4をご覧ください。