Vol.948-3/3 R巻頭-60。歴史(観て歩き)レポ-中讃編35<聖通寺城跡・聖通寺他1> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.948-2/3に続けてご覧ください。

 

<関連遺産-1>

その後、嶋田寺(丸亀市飯山町)が兼帯したが、讃岐国に入府した生駒親正の命で嶋田寺良純(りょうじゅん)に法勲寺を再興させ、のち慶長年間(1596~1615)には生駒一正が法勲寺(ほうくんじ)を高松に移して弘憲寺(こうけんじ)とした。その際、聖通寺にあった宝物35種が弘憲寺に移され、聖通寺は荒廃した。

 

▼嶋田寺-山門と寺標、宥遍上人一担門(ゆうへんしょうにんひとかつぎもん)

嶋田寺は高野山真言宗の寺院である。

 

▼嶋田寺-境内、本堂

 

▼嶋田寺-弁財天、楽寿観音

 

 

▼法勲寺-寺標と本堂、薬師堂

法勲寺は真宗興正派の寺院である。

 

▼法勲寺-礎石群(石の塔は鎌倉時代頃のものらしい)、法勲寺跡石塔の碑と地蔵堂

 

▼法勲寺跡-全景、説明板

 

▼法勲寺跡-礎石保存の記と礎石、礎石保存の記

 

▼法勲寺跡-五重塔の心礎石、礎石群

 

▼弘憲寺-山門、生駒親正夫妻の墓所

 

<歴史遺産-2>

その後、備前国鞆浦(とものうら)の常喜院(じょうきいん)の宥長(ゆうちょう)が再興し、新しく高松藩主となった松平頼重の庇護を受けて興隆した。大師堂に安置される木造釈迦如来坐像の背中には、「寛文元(1661)年」の修理銘がみえ、頼重帰依による修理を物語っている。また、聖通寺には平安時代中期(10世紀)に遡る「木造千手観音立像」(国重文)が所蔵されている。「讃岐国名勝図会」には、聖通寺の境内に観音堂が記されているので、そこに安置されていたものであろう。平安時代中期(10世紀)の優品で、翻波式(ほんばしき)の衣文(えもん)が鋭く表されている。

 

▼木造釈迦如来坐像、木造千手観音立像(web引用-水彩画風変換)

 

 

<関連遺産-2>

聖通寺より東北の尾根上に「ゆるぎ岩」(県天然)がある。

長さ3.5m、幅1.3m、高さ1.5mの岩で、昔は人の手で動かす事が出来るので、この名がある。

 

▼ゆるぎ岩-1

 

▼ゆるぎ岩-2

▼岩の上から見る、持ちあげるakijii(動いた!!)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

<49.神石神社>  <撮影:2013.04.23 and 2018.03.27>

むかし、金刀比羅大神が海上から大亀に乗って来られ此地に上陸し象頭山に鎮座された。そして、その大亀は石になった。それが当社の石である。という言い伝え(香川県神社誌)があり通称亀石神社と呼ばれている。又、金毘羅参詣名所図絵には、天文10年(1541)此浦の未申(南西)の方から毎晩のように怪しい光がさし漁ができなくなった。漁者は困って金毘羅大権現にお祈りをしていたところ、その年の6月17日夕、百歳に余る様な白髪の老人がどこからか来て、亀の形の石の上に立ち「此頃南西の方から光りものがするのは象頭山の火災で焼け残った霊像のわざである、探して清浄に安置せよ。」と言って消えた。急いで象頭山に行きこの事を話せば、一山の者驚いて探したところ本社の横に一柱樫という大木の焼け残りがあり梢に大悲(観音様)の小像が毅然として建っておられたので、おろして一堂に安置した。これが今の観音堂の本尊であり漁者達は彼の老翁は金毘羅神が顕れての御利益であろうと思い毎年6月17日を縁日とし亀石大権現と唱し奉り遠近の村人達も参詣とある。江戸期の金毘羅大権現の絵図には、絵馬堂の前の今の美穂津姫社の所が観音堂となっている。       (案内板より)

 

<所在地・外観> 

神石(かみいし)神社-綾歌郡宇多津町浜八番丁

▼神石神社-海からあらわれた金毘羅大権現の化身

 

 

JR宇多津駅の北東、宇多津小学校と県道33号線の中間の浜八番丁に「神石神社」(通称亀石かめいし神社)がある。この辺りまで海であったと云う。

 

<概 要><歴史遺産> 

(やしろ)に本殿は無く、堀の中に亀石が祀られている。

 

▼浜八番丁-神石神社が見える、神石神社-社殿

 

▼神石神社-説明板、天狗面

▼神石神社-虹梁・欄間彫刻、木鼻彫刻

 

▼神石神社-堀と亀石(どれ?)

 

 

金毘羅大権現と神石神社(亀石権現)は、海との深い関わりを示す伝説が金毘羅参詣名所図絵にある。

 

▼金毘羅参詣名所図会の1例(多度津湊、弥谷寺)(web引用)

 

 

県道33号線より北は、1890(明治23)年以降に着工・整備された塩田であったが、1972(昭和47)年に廃止され、1976年以降に、新宇多津都市開発がスタートした。

 

▼県道33号線より北の地図(web引用)

 

 

<関連遺産>  

ゴールドタワーの北の臨海公園には、「宇多津町産業会館(うたづ海ホタル)」が整備され、その一角には入浜式塩田と釜屋(かまや)などが整備され、製塩体験が出来る。

 

▼ゴールドタワー、ゴールドタワーと復元塩田

 

▼宇多津臨海公園-道の駅の立て看板、臨海公園の石碑

 

▼宇多津臨海公園-臨海公園の案内板、芝生広場

 

▼宇多津臨海公園-遊具広場

 

▼宇多津臨海公園-小学生が描いた壁面画のトイレ、恋人の聖地のakijii

 

▼宇多津町産業会館(うたづ海ホタル)

 

▼入浜式復元釜屋

 

▼入浜式復元塩田

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀