Vol.948-2/3 R巻頭-60。歴史(観て歩き)レポ-中讃編35<聖通寺城跡・聖通寺他1> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.948-1/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-中讃:35聖通寺城跡聖通寺・神石神社

<47.聖通寺城跡 <撮影:2014.05.13 and 2015.09.14>

築城年代は定かではないが応仁年間(1467年~1469年)奈良元安(もとやす)によって築かれた。

奈良氏は武蔵国大里郡奈良を本貫としていたが元政が貞治元年・正平17年(1362年)の高屋合戦における功により鵜足郡と那珂郡を領した。

天正10年(1582年)長宗我部氏の侵攻により城を捨て阿波国勝瑞城へと敗走したが中富川合戦で討死した。

羽柴秀吉による四国征伐の後、讃岐国を領した仙石秀政が入城したが戸次川合戦の敗戦により失脚した。

その後、尾藤知宣、生駒親正と替わり生駒氏の時に高松城を築き廃城となった。

山頂に常盤公園がある山が城址で常盤公園のある北の山頂と南の山頂が出丸でその中峰に本丸を置いていたという。現在、常盤公園には駐車場の隅に「平山城」の石碑があり南の山頂には「聖通寺山城」の石碑がある。

 

<所在地・外観>

聖通寺城跡(しょうつうじじょうあと)-坂出市坂出町・綾歌郡宇多津町坂下

▼聖通寺城鳥瞰図(出典元:余湖くんのHP)-中世の要衝、奈良氏の居城

 

坂出北ICの西に「聖通寺山」(北峰118m)がある。

 

<概 要>

中腹には塩竃(しおがま)神社があり、久米道賢(みちかた)と坂出出身の政治家津島寿一(じゅいち)の銅像が立つ。

 

▼聖通寺山

 

▼塩竃神社

 

▼久米道賢・津島寿一の銅像

 

 

津島は東京オリンピック誘致時の組織委員長で、関係する資料が坂出市郷土資料館や坂出市立体育館にコーナー展示されている。

 

▼津島寿一記念銅像、1964年東京オリンピックのアルバム・メダル(web引用-水彩画風変換)

 

▼東京オリンピック関連の記念バッチ、坂出市スポーツの殿堂にも展示(web引用-水彩画風変換)

 

 

聖通寺山北峰山頂の常盤公園は、1940(昭和15)年に皇紀2600年を記念して造られ、「二六公園」と呼ばれていたもので、津島が常盤公園と改名した。春にはサクラの名所として知られている。

 

▼常盤公園-1                                                

 

▼常盤公園-2

 

 

<歴史遺産>

北峰山頂部からは備讃瀬戸を一望でき、積石塚の聖通寺山頂古墳が営まれるが、幕末には高松藩の狼煙場(のろしば)も設置されていた。

 

▼備讃瀬戸の眺望-1

 

▼備讃瀬戸の眺望-2

 

▼積石塚古墳-1

 

▼積石塚古墳-2

 

▼積石塚古墳の右方の平山城の石碑がある、平山城の石碑

 

 

聖通寺山中峰(117m)には、応仁年間(1467~69)頃に築造された「聖通寺城」の本丸跡がある。周辺の尾根や要所には、連郭(れんかく)式の曲輪(くるわ)群や竪堀(たてぼり)も認められ、南北約900mにもおよぶ大規模な中世山城であった。

 

▼聖通寺城跡-石碑、本丸跡1

 

▼聖通寺城跡-本丸跡2、電力鉄塔越に見える宇多津町

 

 

この城は讃岐の領主、細川氏を支えた四天王の1人奈良元安が鵜足(うた)・那珂(なか)2郡支配の拠点として築城した後、1587(天正15)年に生駒親正が入城し、讃岐一国支配の拠点としたが、1590年、生駒氏が高松城に移ってからは廃城となった。

 

▼細川氏家紋、細川京兆家が使用していた家紋(細川向かい松) (web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

48.聖通寺 <撮影:2015.09.14 and 2017.08.25 and 2017.09.13>

聖通寺(しょうつうじ)山が瀬戸内海に半島の様につき出ていた奈良時代の天平年間(729~749年)行基菩薩により釈迦如来を本尊とする釈迦院として開創されました。平安時代の貞観10年(868年)に聖宝理源大師により再興されます。聖宝の二字をわけて壷平山聖通寺 宝光院と号しました。

 

理源大師により聖通寺と改名されたとき、本尊も薬師如来に交替しています。今から1170年ほど前の話です。光仁天皇の子孫にあたる葛声王(くずなおう)を追ってその妻綾子姫が瀬戸内海を旅していた折、海の上で突然産気をもよおし苦しみだした時、海中より気高い姿の婦人が現れ、海の上を歩いて姫に近づき、無事に赤ちゃんを産ませると、水面を歩いて聖通寺山の北あたりの海中に姿を消しました。

こうして生まれたのが理源大師です。大師が成長して釈迦院へ通っていたある朝、漁師たちが急に魚が採れなくなったと騒いでいます。大師がふと空を見上げると、紫の雲がたなびく中、そこから差す光で海辺が黄金色に輝いています。不思議に思い漁師に網を下ろさせたところ、1㌧程ある石仏が軽々と浮かび上がりました。そのお顔は、母君から聞かされていた高貴な婦人にそっくりで「縁深き仏」と、この石仏(薬師如来)を本尊として寺を再興したのです。

 

ちなみに、ご本尊にはフジツボ等が付いています。現在の本堂は、江戸時代の万治4年(1661年)水戸光圀公の実兄、高松藩初代藩主松平頼重公により建立されました。頼重公が病に苦しみ、薬師如来に平癒を祈願したところ、たちまちに回復したことからそのご利益に感謝の意を表し、本堂を建立しました。本堂には自筆の棟札が残っており、第三代藩主頼豊公より松平家の御紋を当寺の紋に使用することが許されています。        (宇多津町HP)

 

<所在地・外観> 

▼聖通寺-綾歌郡宇多津町2805

▼聖通寺-沖薬師を本尊とする寺

 

 

JR宇多津駅から県道33号線を坂出方面に向かい、大束川を渡りJR予讃線の高架下をくぐった所で左折する。細い道を山に向かって進み、新町橋を渡って北東に800mほど行くと、坂出市と境、聖通寺山の西斜面に「聖通寺」がある。

 

<概 要>

聖通寺は、讃岐33観音霊場第31番札所である。

 

▼JR宇多津駅、県道33号線を坂出方面

 

▼大束川を渡る

 

▼JR予讃線の高架下をくぐる

 

▼細い道を山に向かって進む

 

▼聖通寺へ石段を上る、聖通寺に着いた

 

 

<歴史遺産-1>

▼聖通寺-案内板、寺標

 

▼聖通寺-境内、弁財天

 

▼聖通寺-忠魂碑と鐘楼、護摩堂

 

▼聖通寺-観音堂・本殿・大師堂、観音堂

 

▼聖通寺-大師堂、本殿1

 

 

仙石秀久愛用の巨大薬缶(やかん)

天正13年(1585年)秀吉の四国征伐のおり、秀吉側にあった仙石秀久は、その戦功として讃岐一国を賜り、古城宇多津聖通寺城に入り統治した戦国の武将です。寺伝によれば、秀久は巨大薬缶を愛用していたとされます。現存する薬缶は銅製で高さ35cm径35cmの大きさです。(宇多津町HP)

 

▼聖通寺-本殿、本殿裏の仙谷権兵衛秀久の墓

 

 

本尊は石造薬師如来坐像で、「金毘羅参詣名所図会」に依れば、「海中に夜光のものありてあたかも燭のごとし。その上に常に雲気あり、人々奇異の思ひをなし、終に漁人網を下して引くに、磐石のごとくして動かず。すなわち一人水に没し長き縄を係けて漸々に引きあぐるに、石像の薬師如来なり」とあり、「沖(おき)薬師」とも呼ばれている。

 

▼石造薬師如来坐像(沖薬師)(web引用-水彩画風変換)

 

その後、細川頼之が伽藍を再興し、寺坊80余りを数え繁栄したが、天文年間(1532~55)の兵火により、薬師堂・釈迦堂・三重塔・弁財天社を除き、焼失したと伝ええられる。

 

引き続き、Vol.948-3/3をご覧ください。